第3話 妖精少女 《マイフレンド》
妖精というものを見たことはないが、それはきっとこのような見た目をしているのではないか。
目の前で眠っている少女を見て彼はそう思った。
随分と長い間を岩と
この可憐で
傷を負い、汚れた服に身を包んだ少女の顔には涙の跡が残って見えた。
「どうせ、ろくな話ではあるまい」
口減らし、孤児、追放――少女が荒野を
「
憐れな少女の身のうえを思い、彼は残酷な世界を憎んだ。
彼は少女を狙う魔鳥を
大きなブラックカーフの肩掛け鞄のなかには、水や食料だけでなく薬や医療道具も入っている。群れから離れ一人で暮らしている彼にとって、この鞄は何より大事な命綱、相棒のようなものだ。
「……血と水分を失い過ぎているな」
水袋の管を少女の口に差し込み、鋭い爪があたらぬようにと気を付けながら、彼は少女の顔から涙の跡を拭った。
この花を、散らすわけにはいかない。
呟く心の声には、彼自身戸惑うほどの熱がこもっていた。
彼は静かに息を吸い込み、仮面を外して傷の手当てを開始する。
洗浄、消毒、縫合、最も重傷である左手の
セガール、セガールと。
「家族……いや、恋人の名か。これほど美しい娘だ、
少し切なげな表情で彼は呟く。
処置を済ませた頃には朝日が昇りきっていた。
彼はその明るさから身を隠すように、黒いマントでその身を包み、仮面を再びつけ直した。
やはり、来たか。
少女を運ぶため、
「
血の臭いに誘われてきたのか、漆黒の魔狼は低い唸り声を上げ、二人の前に立ちはだかった。彼は少女を抱えて後ろに飛び
「忌々しい……」
緊張で喉が渇き、身体が小刻みに震える。
まるで、蛇に睨まれた蛙。
種族を縛る鎖は硬く、引きちぎるのは容易ではない。彼が魔狼に感じる恐怖、それは種に刻まれた呪いのようなものだ。
「だが、それも想定の内だ……」
戦闘ばかりが手段ではない。彼は不敵な笑みを浮かべて、浮き
「貴様にも同じ恐怖を刻んでやろう」
彼は鞄から「鬼笛」を取り出し、それを口に咥えた。そうして大きく息を吸い込み、肺の中の空気を一気に吐き出した。
「鬼笛」から大きな音が響き渡り、周囲の空気を震わせる。それと同時に、彼は「浮き
「泣く子はおらぬか! 泣く子はおらぬか!」
彼は叫び、お手製の一つ目仮面をつけたまま、剣をブンブン振り回す。
突然現れた奇形の小さい
「上手くいったな」
彼は仮面を外し、安堵の溜息をついた。
彼にとっての
奇策により魔狼を退けた彼は、浮き
近すぎる……ああ、また触れてしまった。
可憐な乙女の
「浮き
彼が浮き
「とりあえず、この状況はよろしくない。これは、何というか……不純だ」
少しでも早く戻ろうと、彼は両手の肉球に魔力を集めた。力の高まりに応じて風の方陣が輝きを増していく。
「結局、手放さなかったな」
少しづつ速度をあげる浮き橇のなか、彼は穏やかに眠る少女の右手を見る。
彼女の手には一本の刃物が握られていた。
輝く銀色の刃、黒く滑らかな持ち手、その形状を見るに、戦闘用の武器ではないようだ。よほど大切なものなのか、意識を失いながらも彼女はそれを決して離そうとはしなかった。
不思議な娘だ。
その刃物は一目で結構な
貴族のような服を着て、ナイフ以外の装備を持たない、妖精のような女の子。汚れの少ない履き物は、歩いた時間がさほど長くはないことを示していた。
「飛んできた、というのなら理解出来るが……」
呟く声にわずかな落胆が交じる。
つまり彼女は、妖精ではないのだ。
「人間か……」
朝日を背にした浮き
その瞳が開くことなく、自分の姿を見なければいい。そんなことを彼は思った。
組み上げた丸太を赤土で覆った住居は頑強だが、見栄えはあまりよろしくない。
「彼女には似つかわしくない穴倉だ」
彼は苦笑し扉を三度ノックする。扉の向こうからは、なんの返事も聞こえてはこない。
まだ、眠っているのか。
見られずに済む――感じた安堵は、心の弱さ故だろう。
無論彼は、自分の容姿を恥じてはいない。ふわふわの毛並み、ピンと立った耳、長くしなやかな尻尾。親から受け継いだそれらすべてが彼の誇りだった。それでも、己を見た少女の顔が恐怖に歪むのは見たくなかった。
人間――自らを女神の
怖れ、
泣き叫ぶくらいは覚悟せねば。
感情に諦めで
高窓から降り注いだ光が少女を明るく照らしていた。
「ふああ……きん、じゃあああっぷ!」
木製の簡素なベッドのうえ、白いシーツに包まれた少女はのんびり奇妙な
「
髪と揃いの黒い瞳、その輝きに彼は目を奪われた。
なんて美しい――
言葉を失い呆然と立ち
「待ってくれ! 君に危害を加えるつもりはないんだ!」
「私は、君の……」
彼は呟き、言葉に詰まる。
命を助けた――だから仲良くしてくれと、そんなことを言うつもりか。
己の浅ましさに顔が歪んだ。彼は俯き、断罪の瞬間を待った。しかしいつまでたっても、泣き叫ぶ声も侮辱の言葉も聞こえてこない。
覚悟を決めて顔をあげれば、少女はこちらをじっと見ていた。黒い瞳がキラキラと輝いている。彼女は考えるような素振りをみせて、やがて納得したように今度は何度も頷いてみせた。
「私は――」
言葉を発しようとする彼を手で制し、少女は首を横に振って何かを言う。
その言葉を彼はまったく理解出来ない。
「言葉が通じないのか……」
彼の呟きに少女は静かに頷いた。
どうすればいいのか分からず戸惑う彼に、まるで大丈夫だと言うように、少女はスッと親指を立てる。
「君は私が怖くないのか?」
言葉が通じないと分かっていても彼は尋ねずにはいられなかった。
少女は「ん……」と小首を傾げたあと、微かに笑みを浮かべて、舞うようにベッドから飛び降りた。そしてそのまま、彼に向かって歩いてくる。
身長の変わらぬ二人は向かい合い、二つの視線がきれいに交わる。
彼は呼吸することさえ忘れて少女の瞳に見入っていた。
彼女は彼を抱きしめて、優しい声で囁いた。
サンキューマイフレンドと。
木製の簡素なベッドのうえ、白いシーツに包まれた少女は再び眠りについた。石のように固まった彼はそんな少女を見つめている。
その日、誇り高き「
「人間の雌は、もっと恥じらいを持つべきだ」
かろうじて口にした言葉は、精一杯の強がりだった。
次話予告。
救った者、救われた者。彼らは互いを知りたいと願った。
世界の果てで出会った二人、結んだ絆は永遠か、それとも
すれ違った想いは、やがて一つに交わる。
次話「挨拶少女」
彼の戦闘力は53万ではない。
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