第2話 放浪少女 《決別》

 夢とうつつの境目など、あって無いようなものだ。今までの人生が胡蝶の夢ではないと、誰が言いきれるというのか。


 大きな咬傷かみきずの残る左腕からは血があふれていた。少女はその血を自分の口へと流し込み、そんなことを考える。

 

 なにか予兆があったわけではない。唐突に、突然に、見慣れた台所は赤い荒野へと姿を変えた。その身になにが起きたのか、少女に教える者はなく、推測する材料さえただの一つも見つからなかった。


「夢ならじきに覚めるだろうが……」

 足もとに横たわる獣のむくろ、眼前に広がる赤い荒野、現実離れした光景が「これは夢だ」と少女に告げる。しかし、頬をでる風は熱く腕のうずきは止むことがない。

 少女はその場にひざまずき目の前の死骸に触れた。

 赤土にまみれた黒毛は硬く、こと切れて間もない獣の身体はまだ温かった。


 この黒犬くろいぬから感じた殺意も、切り裂いた肉の感触も、泡沫うたかたのように消えてゆくただの夢だというのだろうか。


 あり得ない。


 転移、時間移動、世界の改変、この状況を現実とするには、荒唐無稽な単語をいくつも並べる必要があった。それでも少女は自分の感覚を信じた。


「これは、現実だ」

 確信を少女ははっきり言葉にする。そして立ちあがり視線を再び荒野に移す。

 赤褐色の大地は遥か先までつづいていた。巨大な岩山の岩肌には幾重も地層が重なって見える。

 この凄まじい光景は、途方もない年月の果てに出来あがったものなのだ。

 岩陰には小さな花が咲いている。地面に空いた穴ぼこは小動物の巣だろうか。

 少女を圧倒する壮大で繊細な世界、これが夢や妄想であるわけがない。


「これ、異世界来ちゃったかもしんない」

 ブレーン宇宙論だか超ひも理論だか知らないが、別の世界はあるという。


「ふふ、面白くなってきた」

 少女は微笑み、包丁を手元でクルリとまわした。



「そういや、あの世って可能性もあるのか」

 狩った野良犬えものを背中に担ぎ、少女はポツリと呟いた。

 血のような大地に突然襲ってくるヤバイ犬。あとは鬼でも出てくれば、「ここって地獄だったんですね」とすんなり納得できそうな気もするが。


「私は台所でサバを――」

 さばいていたはずである。

 魚をおろしている最中に自覚のないまま命を落とす、そんなことがあるのだろうか。うーむと唸る少女の脳裏に誰かの顔が浮かんで消えた。己の死を望む者、心当たりは確かにあった。


「……まあいいや、先のことだけ考えよ」

 消えた世界に置いてきた、マッドでファックな人間関係、少女はそこにえて意識を向けなかった。現世、あるいは元の世界、それらに対する執着は、この地で生きていくうえで足かせになると考えたのだ。


 生き残ること、帰ること、二つを同時にこなせるほど、甘い場所ではないだろう。


 気がつけば、身をくような熱風は、冷たさを帯びた夜の風へと変わりはじめていた。こうして思考を重ねるうちにも状況は変化しつづけている、無論、悪い方にだ。


「時は金……というより命だな。今動かねば、私はおそらく死亡する」

 袖口から滴る血はいまだ止まる気配がない。乾いた空気に岩と砂、荒野の夜は冷えるだろう。


「無駄な思考、無駄な行動、生きるために不要なものは一つ残らず排除する……」

 死後の世界、という可能性はもはや考慮していなかった。少女にとって生きるとは意思を持って動くこと。それが可能であることは、自身がすでに証明している。


 我思う、故に私は生きている。

 

 ならば最善を尽くさねばならない、生き残るために……


「これより、私の持つすべての機能は、生きるためにのみついやされる」


 少女とかつての日常は、今完全に切り離された。



「あの虫、ちょっと美味しそうですけど、犬さんどう思いますか」

 少女の置かれた状況は、極めて危ういものであった。そして少女自身、誰よりそれを自覚している。

 しかし、ストレスフルな環境ゆえか、あるいは血を失いすぎたからか、「これより私の持つすべての機能は――」なんて台詞はどこへやら、徐々に理性を失っていった少女は、小さなトカゲと駆けっこしたり、背負った死骸とおしゃべりしたりと、生きることとはまったくもって関係のない不毛な行為に没頭し始めていた。


「犬さん、無視しないで。それとさっきから臀部ヒップ陰茎ちんぽこあたってます。やめてください、陰茎ちんぽこあてるの。保健所連れていきますよ」

 まるでセクハラ被害者のような口ぶりで少女は犬さんを非難する。

 しかし、少し前から死んでいる犬さんは、自分の意思で陰茎ぽこちんを押しあてることは出来ない。

 

「犬さん……ぽこちん……あてて、ない。ほけんじょ…いや……」

 喉の奥から振り絞るようなカタコトの台詞は、死せる犬さんの魂からの叫び――などではなく、もちろん少女の自演である。

 

「でもあたってるじゃん。ほら、またあたった。もうこれあれだ、犬さんは死刑だな。保健所で玉ねぎ食べさせるの刑だ」

 

「玉ねぎ、やめてぇ……」


「じゃあ犬さん、玉ねぎの刑か、私に食べられるか選んで」


「玉ねぎ、イヤ、犬さん、食べられる」

 

「ということで……今夜の晩ご飯ならぬ荒野の晩ご飯。今日の食材は、セクハラアニマル『犬さん』です!」

 少女の明るく元気な声が赤い荒野に響き渡る。そして始まる調理実況クッキングライブ


「動物愛護団体には内緒だよ!」

 勝者は高らかに笑い、敗者は黙して糧となる。

 玉ねぎから逃れるため、犬さんは食材となる道を選んだ。かつて荒野を我がもの顔で駆けまわった魔狼は、セクハラ冤罪の罠に嵌まり食肉へと堕ちたのだ。


「じゃあまずセッティングから始めよう。お、いいねこの岩、カッコイイ。よし、これはテーブルにしよう。このちっこいのは椅子いす。んで、犬さんは一先ひとまず……あの岩を使って吊るそうかな」

 こりゃ解体が大変だ、と呟きながら、少女は近くの大岩まで犬さんを運んだ。歩いたあとに残った染みは、犬さんから出た体液か、それとも少女の流した血だろうか。

   

「食器もねえ、お鍋もねえ、水もなければ、炎もねえ」

 陽気に歌う少女は今日、何の前ぶれもなくこの荒野に放り出された。


「見てください、この野性味あふれる台所キッチン、たぶん一億坪くらいありますよ」

 右も左もわからぬままに、灼熱の荒野をひたすら歩き、そして魔獣と殺しあった。


「ハイ、じゃあみんな注目。これからキュートなJCによる、荒ぶる荒野のお料理番組――」

 死闘の末に負った傷は決して浅いものではない。喉を潤す水分は己の流した血のみだ。過酷すぎる環境、己がそこにいるという理不尽、並の者では、きっと正気を保てまい。

 

「『中坊チューボーですよ!』、はっじまるよー!」

 

 ならば今、平然とこの環境に順応しているこの少女はなんだ。

 

 青いジャージにネイビーチェックのプリーツスカート、右手に包丁クッキングナイフ。その少女はかつて、北天の一等星と呼ばれていた。


「顔は可愛いが、頭がおかしい」


「賢いが、頭がおかしい」


「とにかく頭がおかしい」


「あいつは気が狂っとる」


 度重たびかさなる奇行により、輝きを失った堕ちた星。


 北天中学三年生、神崎シーナ、十五才。

 

 彼女は、どこにでもいる普通の女の子


 ――などではない。




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