第11話 こわいおねえさん


「とりあえず、冴さんには言うたわ。リセの本名は『上条理世』ではないかっちゅう話」


 今日の晴太は椅子の上であぐらを組んだ。むつみはかつて晴太がしていたように椅子の背もたれを抱いていて、紅子は晴太の向かいでテーブルに頬杖をつきながら聞いている。


「そしたら冴さん即答しはった。実は、その名前もよう出回ってるんやて」

「出回ってる、というのは?」

「新宿の柄の悪い連中の間では有名な名前なんやと、『上条理世』。何でもゲーセンや漫喫からいろんな情報抜いてタダで遊ばせてくれはるヒーローみたいに言われとるらしい。で、名前を聞かれるとそう名乗る」


 むつみが「つまり」と呟いた。


「リセは、新宿では実体のある人間として目撃されているのか」

「そういうことになるな」


 晴太が溜息をついた。


「オレは初めてリセが二十代半ばくらいの男やと知ったで。冴ちゃん情報や」


 むつみの予想どおりだった。《Lise》は女性ではないのだ。


「しかし、リセも用心ぶこうてな。それ以上の個人情報は漏らさん。照明のちゃんとしてへんとこ狙って出没するそうなんや、似顔絵とかもよう作られんらしい」

「『上条理世』は、結局偽名ってことかな」

「そらそうやろ。警察権限で日本に籍のある人の名前調べはったらしいけど、その名前に合致する人間出ないて言うてはった」


 「冴さんは他に何か言っていた?」と、むつみが問い掛けた。


「冴さんが、リセのハンネっちゅうか二つ名っちゅうか、何や言うてはったの覚えとる?」

「言ってたね。《蝶》だったかな、それこそ男が名乗るものかと思ったものだけど」

「それな。どうやらタトゥを彫ってるらしいんやわ。新宿で見掛けられた時にな、誰かがリセの腕だかどこかに蝶のタトゥがあるのんを見たことあるらしい」


 三人とも、眉間に皺を寄せた。


 二十代半ばくらいの男性、ということで、《Lise》候補者はコーヘイとオサムの二人に絞れた。けれど、コーヘイは常に長袖の麻のシャツを着ていて、オサムは手に医療用のサポーターをつけている。脱いでくれ、外してくれ、とはさすがに言いがたい。


「あと何か、リセの話はある?」

「ない。すまん」

「いや、充分いい話を聞けたよ、感謝する」

「それでな、申し訳ないんやけど、ニンファとケイトについてはもっと情報がない。あの二人、リセ以上に尻尾出さんで」


 「オレはよう信用せんわ」と言った晴太の顔は、カウンターで見せた朗らかな笑みとは一変して、冷めたものだった。


「そら寒いわ。誰がニンファやケイトに頼みごとするか。あいつら本気で何もせん、まるっきりリセの金魚の糞」


 だから最初、別荘に閉じ込められた時、晴太が一番強い拒否反応を示した。

 それに気づいて、紅子は息を吐いた。

 晴太は、「女は怖いわぁ」などと言っているが、それ以上に、自分が正直過ぎたことと、一年近く彼女らと付き合っていろんな発言を見てきた《晴》とまだ半年程度の自分との実感に大きな隔たりがあることを、身に染みて感じた。


「正直言うで。ここだけの話」


 晴太が似合わぬ低い声で言った。


「オレ、ニンファやケイトがリセの指示で人殺してるて聞いても、納得する」


 むつみが「根拠は?」と問い掛けると、晴太は「前に人が減った時にな」と静かな声で語り出した。


「ニンファが自分から言うてん。リセにとって邪魔そうやったら自分がどうにかせなあかんな、って」


 背中に寒いものが駆け上がった。


「普段新人が入ってきた時に、何かあったらニンファかケイトに言うてな、って言うてるの、あれ、ニンファとケイトが人員管理をしてるからちゃうかな。リセが直接やってるわけやない、ニンファとケイトが裏で片付けてる」


 沈黙した食堂に、突如、大きな音が響いた。

 三人とも、大きく肩を震わせた。


 振り向くと、食堂のドアが開いていて、シズカが立っていた。

 シズカの、リップグロスの塗られた赤く艶やかな唇が、禍々まがまがしく見えた。


「何の話? 私も交ぜてヨ」


 紅子が血の気の引いていくのを感じているうちに、むつみが口を開いた。


「道がまだ復旧しないという話です。セントくんがすごく気にしていて、ちょっと落ち着くためにゆっくり話をしようかと」


 すぐさま晴太が付け足した。その声は先ほどとは違う切迫感に満ちていた。


「オレもうこんなとこいとうないねん、今すぐ出とうて、電話つながらんのかと思うていろいろいじってんねんけど、」


 むつみが「落ち着いて」と押さえるようなジェスチャーをする。晴太が恐怖に駆られた様子で首を横に振る。


「オレもう嫌や、帰りたい、田舎のばあちゃんに会いたいねん」

「大丈夫ですから、ね」


 シズカが穏やかな声で「大変そうネ」と言う。その声には緊迫感はない。大変だとは微塵も思っていない声だった。


「紅ちゃんかてまだ高校生なんやで!? 可哀想やろ! 親御さんめっちゃ心配してはるんちゃうの!?」


 紅子が口を開く前に、むつみが「そうだ、それだ」と話を継ぎ足した。


「紅ちゃんの親御さんが紅ちゃんの捜索願でも出してくれたらいいんですけどね、そうしたらここの場所も突き止めてくれるんじゃないかな」


 しかし晴太はそこで「待てんわ」と怒鳴った。


「なに悠長なこと言うてんねや」

「落ち着きましょうよ」


 シズカも「落ち着いて」と微笑んだ。


「慎悟さんも食料はまだあると言っていたし、大丈夫ヨ。今夜の夕飯も私が作るから、安心して」


 晴太はなおも「食うてられん」と食ってかかるように言う。むつみが「女性に当たるのはよそう」とたしなめる。


「ちょっと、一回休憩した方がいいんじゃないかな。部屋までご一緒しよう、少し昼寝でもしよう」


 むつみの提案に、晴太が力なく「そうやな」と呟く。


「オレ、疲れてんのやろか」

「間違いなくね」

「そうか。昼寝しよ……一緒に来てくれん?」

「行きます、行きます。ね、紅ちゃんも」


 むつみと晴太が立ち上がった。紅子も慌てて立ち上がり、置いていかれまいと二人の後を追い掛けた。


 シズカは、そんな三人の様子を黙って眺めていた。


「では、失礼します」


 三人が食堂のドアをくぐり抜ける。シズカが一歩引いて道を明け渡す。


 三人でホールに出、階段を上り始めた時だった。


「まだ見てる?」


 むつみが紅子に問い掛けた。「何がですか」と小声で尋ねると、「シズカさん、こっちを見てる?」と具体的に聞いてきた。


 食堂の方を見る。シズカの姿はない。食堂の奥に入っていったようだ。夕飯を作りに来たのかもしれない。


「いないです」


 途端、むつみと晴太が大きく息を吐いた。


「焦ったな。こんなんいつぶりやろ」


 平然とした様子の晴太に、先ほどの切迫感は何だったのかと――心配したのにどうしたのかと思ったら、


「悪かったね、ハレを勝手に使って」

「ええよ、最初一番パニクっとったの実際オレやったやん。普段から落ち着いてるノンがああいうこと言うより自然やろ」

「でも助かったよ」

「――もしかして、今の、二人とも演技だったんすか?」


 二人が揃って「うん」と頷いた。


「いつ打ち合わせたんすか!?」

「しっ。シズカさんに聞こえたらまずい」

「してない。ノンが嘘言い始めてからオレも乗っかっただけや」


 あまりにも息が揃っていたことに、紅子は驚いて固まった。むつみと晴太は呑気に伸びをして「ふー」「疲れたー」などと言っている。


「まあええやん。オレの部屋来ぃや。さすがに三人でお昼寝はできんけど、続きしたいやんか」

「そうだね、お邪魔しようかな」

「なんか……、すごいっすね。場慣れ……?」

「いやいや、こんな状況そうそうないですから」


 「何度もあったら困るよ」と、むつみが呟く。


「シズカさんがニンファだったら――僕らがリセ探しをしていることがシズカさんに知れたら、消されかねないからね」


 紅子は押し黙った。

 男二人の判断力に完敗した。階段を上っていく二人の背中がやけに頼もしく見える。本当に頭が良いというのは彼らのことを言うのだと、《ぁゃ》に報告したかった。

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