十数年ぶりの再会④汚いものは下に溜まる
川の水は上流から下流に流れる。もちろんオイルだって上から下に流れる。潤滑するためにヘッドへ送り出したオイルも役目を終えればクランクケースに流れ落ちる。流れ落ちたオイルに含まれた汚れの一部は分離してクランクケース底部に沈殿する。
要するにこれから分解するエンジン下部、通称『腰下』に汚れが溜まるって事だ。
「さて、いよいよ腰下の分解やな」
「さぁ大島ちゃん、クランクケースをくぱぁしてくれ」
「うわぁ、大島ちゃん、これは手間やで」
「そうよ、だからオーバーホールするんや」
とにかく全ての部品が茶色いオイルにまみれてドロドロになっている。ブローバイガスとオイルが混じった嫌な匂いが工場内に広がった。
「臭いのはわかってたけど、これってG1の匂いじゃないよな」
※ホンダ純正G1オイル 二輪四サイクルエンジン用
「そうやな、多分やけど安い四輪用のオイルと違うか?」
ギヤオイルは独特な匂いが有るから俺でも違いは分かる。四輪用のエンジンオイルについて詳しくないが、四輪のメカニックをやっていた中島が言うには二輪用とは匂いが違うらしい。
「俺がメカやってた頃に嗅いだ匂いや。安~いオイルが焼けた匂いやな」
「四輪用やと、クラッチ滑りを起こしてたかもしれんな。でも何で四輪用やとクラッチ滑りを起こすんや?」
自動車の場合、エンジンはオイルで潤滑する。クラッチはバイクと違って乾式なのでオイルは関係ない。エンジン潤滑のみ(ってわけでもないが)を追求する四輪用エンジンオイルは摩擦を減らす『減摩剤』って奴が含まれているらしい。
「って訳で自動車用と二輪車用でオイルが違うんや」
「バイクに四輪用オイルを入れるとクラッチ滑りを起こすのは減摩剤が原因か、お前、よう知ってるな。プロの整備士になれるで」
冗談半分で言ったら「
「じゃあ次はクラッチやな」
ビス四本を外して遠心クラッチの蓋(正式名称はクラッチアウターカバーらしいが、こんな物は『蓋』で十分だ)を外すと、クラッチのロックナットが見事にスラッジで埋まっていた。エンジンオイルに含まれた細かな塵がアスファルトのように固まっている。
「凄いよな、こんな状況で動くカブって」
「いや、カブやから無事って訳じゃないと思うぞ」
中島が言うにはカブだから今まで無事に動いていたのではなく、乗り手や環境が上手く働いて何と普通に動く状態が維持できていたのだとか。
「それに、大島ちゃんは丁寧に組むもん。このエンジンは『カブだから』今まで無事に動いたわけやない。これは『大島が手を入れた』から平気な顔で動いてたんやと思う」
スーパーカブのエンジンは適当に組んでも動いてしまうとんでもないエンジンだ。もちろん丁寧に組めば丁寧に組んだなりに調子よく動くし長持ちする。
「でもな、このエンジンを直して商品化できるかは微妙や。色々なところが微妙に消耗してるから全部に手を入れにゃならん」
困ったことに三屋さんのカブから降ろしたエンジンは万遍なく消耗している。クラッチやオイルシールなどの消耗品だけではなくて、ベアリング類やロッカーアームシャフト等も摩耗して交換時期だ。交換できる部分だけならまだ良い。内燃機屋に外注じなければいけない部分も怪しい。
「どうする大島ちゃん、見ちまった以上後戻りはできないぜ」
「わかってる、このエンジンは直さんと部品取りに回す」
スーパーカブのエンジンはボロでも分解して清掃しておけば使える部品が多く出る。今回のエンジンは直しても採算が合わないだろうから部品取りにしようと言ったその時、中島が「じゃあ俺が買う。ウチにある部品で直す」と言い出した。
「クランクケースのクラッチ側はCD五〇の中古に換えて、凸(クランクケースにあるギヤシフトアームが当たるところ)が削れたケースはマニュアルクラッチ車に使う。クランクやミッションもマニアックな人が出してる奴をネットで買った。仕事でやると採算が合わんでも趣味の素材なら全然OK。だから俺に売ってくれ」
中島は昔からボロボロの物を腰を据えて直すのが好きな奴だ。ボロでダメージが大きいほど燃えるらしい。
「エエけどよ、これを直すのは見た目以上に手間や。文句と返品無しやったら売るで」
「よっしゃ、じゃあ値段交渉やな。こんなもんでどうや?」
最近はスーパーカブのレストアベースのエンジンが減っているらしく、ネットオークションでも高値安定中。思ったより良い値段で買ってくれた。こちらとしては手間のかかるエンジンを直すより利益が出るからありがたい。細かな部品も買ってくれるだろう。
「ん~、あとで『金返せ』は無しな」
「わかってるって、クックック……整備士の血が騒ぐぜ。で、頼みがあるんやけどな」
◆ ◆ ◆
十二月に入って急に寒さが増した。リツコさんは帰宅して食事前に風呂に入り、風呂から上がって部屋着に着替えると一瞬で缶ビールを一本空けた。
「イイ匂いがする。今日の肴は何かニャ?」
リツコさんは徐々に猫化している気がする。今日の肴はタコのアヒージョもどきだと伝えると、「道理でイイ匂いがするはずね、合わせるのは……」と冷蔵庫を開けた。
「ビール!」
「結局ビールかいな」
オリーブオイルに潰したニンニク・輪切りにした鷹の爪を入れて風味を出しながら煮る。本当ならアンチョビを入れるところだが、そんな洒落た物は無いので塩辛を入れてからタコを投入。白ワインに合いそうだがビールにも合うと居酒屋を舞台にした小説で書いてあった。
「今日な、カブのエンジンが売れたんやけど、客が頼みごとをしてきてな」
中島の頼み事は二つあった。
「頼みごと? レイちゃん、パパに頼み事って何でちゅかね~」
「二つあってな、エンジンの修理を見てくれって」
正直言えば店で作業スペースを提供するのは良い事ではない。工具を壊されたりする事が無いとは言えないからだ。速人は言う事を聞く良い子だったが、中島は決して良い子ではない。
「本田君の時も見てたよね? ね~ってレイちゃんは知らないか」
「あいっ!」
会話の意味がわかって答えたならレイは天才だ。多分だがリツコさんが喜ぶから反応しただけだろう。
「工具は持参で、部品は手持ち以外をウチで買うって条件でOKした」
「で? もう一つの頼み事は? どうしたの? 変な顔して」
もう一つの中島のお願いは非常に話し難いのだ。
「リツコさんの脱ぎたてパンストをくれやってさ」
「うむ、ちょっとゼファーちゃんで轢き〇してくる」
「やめれ」
中島は世に出しておくのが憚られるド変態だが、リツコさんを罪人にするわけにはいかない。リツコさんと話し合って「住居スペースに入れない様に」「レイちゃんには決して会わさぬ様に」と決めた。
明日から中島が仕事帰りに店に寄る。あの変態を決して家族に会わせない様にしようと決意したのであった。
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