15

「――あ」

 例えるなら、コップを落として割ってしまった時のようだった。それほどはっきりと、決定的に、世界が変質した。

「……え? ちょっと待って、どうして?」

 梓の声は震えていた――無理もない。何せ、僕達以外の何もかもが、止まってしまっているのだから。

(……そんな、まさか)

 確かにトカゲの力は常識の外にある。喪服の女然り、顔の動かない女然り、鎖と腐った男の顔然り、それらの持つ常軌を逸した力は僕自身が既に体験している。

 だが、今目の前で起きているそれは――時間を意図的に止めた。そうとしか思えなかった。

(そんなことが、本当に)

 ――交差点に立っていた影が、僕達に向かってゆっくりと歩き出した。

 ゆっくりと、だがまっすぐに、歩いてくる。

(あいつと僕達だけ、時間が止まって、いない?)

 ――総毛立つ。つまり僕達は、あいつの標的に選ばれてしまったということ。

 梓の方を見るが、状況がまだ飲み込めていないようだ。ただぽかん、と近づいてくる黒い影を見つめている。無理もない。だがこの状況では確実にそれが命取りになる。

(――ニャン太は)

 周囲を素早く見回すが、見つけられない。さっきまでは確かに梓の膝の上にいたはずだ。それにこれほどの異常事態に何も言ってこないというのは不自然すぎる。

(逃げた? それとも――消された?)

 たとえどちらであっても、まずは逃げることが先決だ。

「――行くよ、梓」

 僕は梓の手を引っ張り、走り出す。

「ちょ、ちょっと待って楓! どういうことなの!? どうして皆止まってるの!? あの黒い影は!?」

 疑問に思うのは当然だ。できるなら答えてあげたいが、その時間がない。僕は梓の手を引いて静止している人達をよけながら走った。本来なら痛みで十メートルと走れないはずなのに百メートルほど走っても痛みはまるでなかった。途中で一瞬振り返り、黒い影の様子をうかがう。

 僕が振り返ったのと、黒い影がガードレールに触れるのはほぼ同時だった。

 ――ガードレールは、消えた。黒い影が触れたところだけが、綺麗に。

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