4

 待ち合わせの時間までまだ二十分以上ある。余裕を持って出かけたがあまりにも順調に行きすぎて、時間がすっかり余ってしまった。遅刻するよりはずっといいが、それでも手持無沙汰だ。

(とはいえ、梓も待ち合わせには早めに来る方だし、そこまで待つことはないだろう)

 既に梓には待ち合わせの場所に到着したと連絡してある。返事はまだないが、きっとすぐに――

「――ごめん、なさい! 待った!?」

「……いや、さっき来たところだよ」

 正直ここまで早いとは予想していなかった。余程急いで来たのだろう。不安になるほど激しく息を乱している梓に、僕は言った。

「水でも買ってこようか」

「大、丈夫、です……すぐに、落ち着くから」

 そう言われては仕方がないと、僕は梓の呼吸が落ち着くのをその場でじっと待っていた。やがて梓の様子が落ち着いたものになり、普通に会話ができるようになった。

「……ごめんね。その、もう着いたって連絡が来て、焦っちゃって。急いできたら、その、心配させちゃって」

 申し訳なさそうにする梓の顔に浮かんだ汗をハンカチで拭う。梓は一瞬きょとんとした顔をした。その直後、みるみる顔が赤くなる。

「え、あ、えっとその……」

「嫌だった?」

「えぇ!? そんな、別に嫌とかじゃ……」

 何故梓の汗を拭ったのか。きちんと言語化できるような理由はない。ただ、あえて言うとすれば、彼女のような可愛らしい子が汗に塗れている、というのはあまりよくない気がしたのだ。よくできた人形に水滴がついていたら、同じように僕は拭うだろう。

「……楓は相変わらずだね。何を考えてるのか全然わからない」

「何を、じゃなくて何も、じゃないかな」

 楓が僕の顔を見つめる。楓は身長は一六〇センチだと言っていた。僕は一七〇センチだから、自然梓が僕を見上げる格好になる。肩までの長さの艶のある黒髪が、かすかな風によって揺れている。

「……何?」

「……なんとなく、憎らしいなぁ、って」

 憎らしい、とはどういうことだろうか。気づかないうちに梓の気に障ることを僕はしていたのだろうか。十分にあり得ることだ。恐らく僕は、無意識のうちに人を不快にさせる類の人間だから。

「ごめん」

 僕が謝ると、梓は困ったような顔をして黙ってしまった。沈黙が少しの間続いて、

「……あ、あの! 近くに素敵なお店があるの! 紅茶も、えっとケーキも、そう、ブラウニーが美味しかったの! だから――」

「うん。いいね、行こうか」

 沈黙を引き裂くようにまくしたてる梓に、僕はただ返事をした。梓は何かを言いたそうにしていたが、言葉を発することはなく、突然僕の二の腕をつねってきた。

「……お肉ないね」

「あった方がよかった?」

「……お肉がついてる楓って、想像できない」

「僕も想像し辛いな」

「うん――お店、行こっか」

「あぁ、そうだね」

 なんとなく、僕と梓の会話はハムスターの回す滑車のようだ、と思う。ただその場で回転するだけで、どこに行くわけでもない。一見何の意味もないように見えて、しかしそこには確かに心地よさというものが存在している。僕は人との会話が得意ではないけど、梓とならばよい会話ができる、という確信がある。

 梓のいう素敵な店は、本当にS駅の近くだった。梓について歩いた時間は恐らく二分もないだろう。小さなビルの地下にあるその店は何処か外国の酒場のような雰囲気で、それでいてアルコールの類は一切扱っていないということだった。

「私は、ディンブラと、ベイクドチーズケーキかな。楓は何にする?」

「ブラウニーが美味しかったんだよね?」

「あ、うん、そうだよ」

「それじゃあケーキはブラウニーを。飲み物は……この国産の紅茶を」

 僕は特に紅茶の知識はない。そもそも食事に対するこだわりがあまりない。その場その場でなんとなく目についたものを飲み食いするだけだ。注文を終えてから、紅茶とケーキが運ばれてくるのを待っている間に梓の近況を聞いてしまおう、と僕は思った。

「大学はどう?」

「えっと、色々大変だけど、楽しいよ。楓は?」

 楽しい――そう答えたかった。だが現実は違う。幼い頃から抱え続けてきた違和感。その違和感はどのような環境においても僕を縛り続ける。大学でならあるいは、と淡い期待を抱いたのは確かだ。そしてその期待は儚く消えた。

「――今はまだ、大変なだけかな」

 梓相手に誤魔化しても仕方ないか、と思い正直に答えた。梓は僕の事情を知っている。だから、僕の現在を沈黙で受け入れてくれた。とはいえ、流石に少しは安心させておいた方がよいだろうか。

「……バイトを始めたんだ」

「バイト? 楓が? どんなバイトなの?」

「喫茶店だよ。店長さんと、その奥さんがすごくいい人なんだ」

 これに関しては堂々と言える。梓は花が咲いたように笑って、

「楓がそう言うのなら本当にいい人達なんだね……よかった」

 梓は、僕がいい人達に巡り会えたことを心から喜んでくれている。そのことが嬉しくて、そしてどこかくすぐったかった。

「私も本当はバイトとかした方がいいんだろうけど……」

「ご両親から止められてるとか?」

「うん、そう。お金の心配なんてしなくていいから、お前は勉強に集中しなさい、って」

「いいご両親だね」

「うん、感謝はしてるよ。でも一度もバイトしないで社会に出て平気なのかな、って」

 梓の不安ももっともだ。ビベリダエでの仕事は、正直アルバイトというより知人の家に手伝いに行っている、という感覚だけど、それでも既に多くのことを経験させてもらっている。

「黙ってバイトするっていうのは?」

「……私の家、門限あるの」

「それは筋金入りだね」

「うん、私もそう思う」

 梓と雑談していると、ケーキと紅茶が運ばれてきた。紅茶を一口飲む。美味しい。それ以外の感想はない。

「どう? 美味しい?」

「うん。美味しいよ」

 嘘は言っていない。僕は確かに美味しいと感じた。ブラウニーを食べてみる。どっしりとしたチョコレート生地の中に硬い感触。

(ビスケットか。変わってるな)

 口の中の甘さを紅茶で緩和する。ふと梓の方を見ると、何かを言いたげな顔をしていた。

「どうしたの」

「……えっ?」

「言いたいことがあるけど言い辛い、みたいな顔をしてたから」

「……あ、うん。その通り、なんだけど」

 梓は割と色々なことを僕に相談してくる。その梓が言い辛いのなら、中々に深刻な悩みなのだろうと思った。

「話してくれないかな。大したことはできないけど、できる限り力になる」

「……え、えっと、その、そういうんじゃないの。言い辛いっていうのは、下らないから言い辛いっていう感じで」

「下らないから?」

「そ、その、ね。私……彼氏なんていないのに、彼氏がいる、ってことになっちゃって」

「……どういうことだろう」

 僕がそう呟くと、梓は顔を赤くしながら説明してくれた。なんでも大学で植物愛好会のようなサークルに入ったらしいのだが、新入生歓迎会で彼氏はいるか彼女はいるか、という話になったらしく、

「私はいないですって言ったのに、信じてもらえなくて……」

「なるほど」

 梓が周囲から寄ってたかって恋人について聞かれ、必死でいないと答えるも盛り上がりにかき消されて届かない様子が鮮明に想像できた。

「紹介して、とか写真見せて、とか……いないものはいないのに」

「梓が話し辛いって言ったわけがわかったよ」

 梓は僕との会話の際、恋愛に関する話題を避けてくれている。僕は自分が男であるのか女であるのか、はっきりした自覚がない。肉体は確かに女なのだが、心はどっちつかずだ。そのせいか恋愛感情を抱いたこともない。だからそもそも恋愛に関する話題には全くついていけないのだが、かといってその手のことを嫌悪しているわけでもない。

「よかったら、僕が彼氏になろうか?」

「――ひぇっ!?」

 梓が変な声を上げた。あぁ、考えてみれば彼氏になろうか? では説明が足りなかったか。

「ごめん。言い方が悪かった。彼氏の振りをしようかってことだよ」

「――あ、うん、そ、そうだよね。うん」

 何故か梓は顔を真っ赤にして、汗までかいていた。喫茶店の中の温度は特に暑くない。体調でも悪いのだろうか、と少し心配になる。

「大丈夫? 風邪気味とか?」

「違うから! 私は全然元気です!」

「……そう」

 そこまではっきり否定されては仕方ない。話題を元に戻す。

「それで彼氏の振りの件だけど、適当に2ショット写真でも撮って僕の顔を適当に隠すなり加工なりすれば誤魔化せるんじゃないかな。加工してない写真を見たいって言われたら彼氏が許してくれないって言えばいい。紹介してほしいって言われたらはぐらかして、時期を見て別れたって言えばそれで済むと思う」

 僕は頻繁に男に間違われるから、写真で男の振りをすることは十分可能だと思われた。僕にしては悪くない案だと思ったのだが、梓は乗り気ではない様子だった。

「気に入らなかった?」

「……ううん、そうじゃなくて、楓にそういう形で協力してもらうのが、その、楓の気分がよくないんじゃないか、って」

(――ふむ)

 気遣ってもらうのはありがたいが、かといって行きすぎた気遣いはかえってこちらが申し訳ない気持ちになる。ここははっきりと言っておこう。

「気にしすぎだよ梓。ただ友達と写真を撮るだけなんだから」

 梓はハッとしたような顔をしたあと、消え入るような声で、

「それじゃあ……ここで撮っても、いい?」

 と聞いてきた。喫茶店での彼氏との2ショット写真。説得力は十分だろう。

「いいよ。といっても、どう撮ればいいんだろう」

 思えばこういう形で写真を撮ったことはない。あまり適当に撮ったのでは疑われる危険性が増してしまう。

「……ごめん、私もわからない」

 計画は早くも暗礁に乗り上げてしまった。とりあえず携帯のカメラを起動し、アウトカメラからインカメラに切り替える。

(……2ショット写真だから、多分くっついた状態で撮ればいいんだろうけど)

 問題はどうくっつくかだ。肩を組む――わざとらしすぎるのではないか。キスをする――論外。頬と頬をくっつける――いいかもしれない。

「梓。写真だけど――」

「思い出した!」

 思わず動きが止まる。一体何を思い出したというのだろう。

「何を思い出したの?」

「あ、写真だけど、その、こういう写真は斜め上から撮ると上手く撮れる、っていう……それだけ」

(……斜め上、か)

 早速実践してみることにする。携帯を自分の顔の斜め上方向に持ち上げ、インカメラの方に視線をやる。携帯の画面に表示された自分の顔は確かに写りがいいように思えた。

「うん。確かにこの角度はいいと思う」

「……まぁ、でも楓の場合そんなに角度って関係ないよね」

「どうして?」

「え、その……顔が、整ってるから」

 梓はお世辞を言えるほど器用な人間ではないと思う。つまりこれは本心で言ってくれている、ということだ。

「ありがとう。そんなこと滅多に言われないから嬉しいよ」

 僕がそう言うと、梓は一瞬驚いたような顔をしたあと、視線を落としてしまった。僕も本当のことを言っただけなのに、何かおかしなところがあっただろうか。とりあえず、2ショット写真の話を進めることにする。

「梓、写真なんだけど頬と頬をくっつけて撮るっていうのはどうかな」

「……えええ?」

「そんなに嫌?」

「嫌じゃないよ! 嫌じゃないけど……いいの?」

「梓となら別に」

 梓の顔が酒でも飲んだように赤くなる。やはり体調がよくないのだろうか。

「梓。顔が赤いよ。やっぱり熱があるんじゃないかな。今日はもう帰って休んだ方が」

「撮りましょう! 大丈夫だから! 写真ぐらいすぐ撮れます!」

「わ、わかった」

 梓は今までに見たことがないほど素早い動きで僕の隣に移動すると、本当におっかなびっくり、という感じで僕の頬に自分の頬をくっつけた。携帯のカメラを再度起動して、斜め上に持ち上げる。

「梓。笑って」

「は、はい」

 ぎこちない梓の笑顔。それに合わせて、僕も口角を上げる。正直梓以上に不自然な笑顔になったが、口元などいくらでも加工できる。

「写真の加工は任せてもいいかな」

「え……あ、加工、加工ね。わかった。やってみる」

 梓の反応に若干の不安を覚えたが、これ以上は彼女自身に任せるしかない。あれこれやっているうちに紅茶はぬるくなってしまった。とはいえそれはそれで飲みやすい。残っていたブラウニーも片づけてしまう。僕に合わせてくれたのか、梓の紅茶とケーキも空になっていた。

「そろそろ行ってみようか。このあとはどうする?」

「えっと、それじゃあいつもみたいに服を見るのはどう?」

「いいよ。ちょうど新しいのが欲しいと思ってたところだから」

 僕と梓は高校生の頃も一緒に服を買いに出かけていた。梓と一緒に服を買う時は自分では服は選ばず、梓に選んでもらったものを買った。梓も僕が選んだものを買った。今のところ梓が選んでくれた服を気に入らなかったことはない。梓もそうなのかは自信がないが、気に入ってくれていると思いたかった。

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