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「楓ちゃん、大丈夫? なんだか顔色よくないけど」

 雪子さんからそう言われて初めて、僕は自分の調子がよくないことを自覚した。まさか大学で少し不快なことがあったくらいで顔色が悪くなるとは――改めて自分の虚弱さに気づかされ、更に気分が憂鬱になる。

「大丈夫です、このところ、その、ちょっと夜更かしが続いていて」

 嘘は言っていない。元々僕は夜型だ。ただ、体調を崩すほどの夜更かしはしていない。不調の原因はやはり、今日の大学での一件だろう。あそこまではっきりと自分の異常さをネタにされることはあまりない。

(まぁ、あんなことくらいで一々落ち込んでもいられないけど……)

 社会に出ればあんな程度は、いや、恐らくあれ以上のことが日常茶飯事になるだろう。それを思えばこんなことで一々体調を崩してはいられない。自分が不利益を被る以上に、何より雪子さんを心配させたくない。

「いや、僕から見てもちょっと調子が悪く見えるよ。楓ちゃん、無理はしちゃあ駄目だ。お給料は全額出すから、今日は早く帰りなさい」

 猛さんからもそんなことを言われてしまった。名前と顔つきに反して、猛さんはひどく穏やかで優しい。流石は雪子さんの旦那さん、と思わず納得させられる。だからこそ、僕はその好意に甘えたくなかった。

「猛さん、心配しすぎですよ。気持ちは嬉しいですけど、そんなに甘やかさないでください」

 僕がそう言うと、猛さんと雪子さんは顔を見合わせた。猛さんは小さくため息をついて、

「わかった。でも絶対に無理はしちゃ駄目だ。ちょっとでも辛いと思ったら、すぐに言いなさい」

 働き続けることを許可してくれた。

(ただでさえよくしてもらってるのに、これ以上迷惑をかけるわけには)

 元々色白で血行がよくないから、ちょっとした不調でひどく調子が悪いように見えてしまうのだ。動けば少しは血色がよくなるだろうか、とも思うがそもそもビベリダエは大勢お客が来るような店ではない。今も常連のお客さんが三人いるだけだ。皆特に喋るでもなくコーヒーの味に浸っている。

(居酒屋のバイトとかだったら嫌でも体力が……いや、その前に倒れているか)

 自分の体の弱さにうんざりしつつ、何かできることはないかとお客さんのお冷の確認に行く。何気なく窓の外を見て――喪服の女が、いた。

(――何だ。あいつは何を指さしている?)

 ビベリダエの窓から見える遠くのビルの屋上に喪服の女は立って、指さしている。何を? 早く、早く気づかなければ。喪服の女が指さしているものは必ずわかる。わかるが、いつもすぐに気づけるわけではない。その時によって気づくまでの時間はまちまちだ。そして、ここで喪服の女を見たということは、恐らく、

(――あいつが指さしているのは、ビベリダエの中にある何か)

 駄目だ。それは駄目だ。ここは大切な場所だ。僕を救ってくれた場所だ。そこで不幸なことなんかあってはならない。猛さんと雪子さんを巻き込んではいけない。僕が気づけば、気づきさえすれば、止められる。不幸なことは止められるのだ。あいつが指さしているのは――厨房の天井だ。厨房には猛さんがいる。説明している時間はない。

「猛さん、ちょっと」

 それだけ言って僕は猛さんの手を引っ張り、厨房から退避させる。当然だが突然そんなことをされた猛さんは混乱した様子で、

「え、ちょっと楓ちゃん、どうしたの」

 そう僕に言う。説明はしたい。説明はしたいが、それはできない。僕だけに見えるあの女をどうやって納得がいくように説明しろというのだろう。もしこれで何も起きなければ僕は完全にただのおかしな人間だ。だが僕は確かに信頼している。あの喪服の女が指さした以上、必ず悪いことが起きる。それだけは間違いがない。そして――それは起きた。

 バアン!! という、何かが破裂したような音だった。ビベリダエの厨房の天井はそっくりそのまま落ちてきた。もし猛さんを避難させていなければ、そして自分も避難していなければ、間違いなく二人とも怪我を負っていただろう。

「――あなた! 楓ちゃん!」

 悲鳴を上げて雪子さんがこちらに来る。血の気の失せた顔はしかし、怪我一つない僕と猛さんを見てすぐに血色を取り戻す。

「よかった……二人とも、怪我はないの?」

「あ、あぁ。楓ちゃんが引っ張ってくれたから、天井に当たらずに済んだんだ」

 猛さんは何が起きたかわからない様子だ。まぁ当然だろう。傍目から見れば天井が落ちるとわかっていた僕が猛さんを引っ張った、としか言えない状況だ。事実その通りだが、そんなことはそうそうありえることではない。

「……楓ちゃん」

 雪子さんが僕を見つめる。心の中に恐怖がわき上がる。もしこのことで、雪子さんからも拒絶されたら――心の中を言葉が駆け巡る。別に構わない。ただ元に戻るだけだ。そもそも僕を受け入れてくれる人間なんていないんだから。一人で生きることには慣れている。

僕は平気だ。

(――嘘だ)

 駆け巡る言葉は全て防壁だ。これから訪れるかもしれない最悪の現実に対する。防壁を築いておかなければ、僕はそれに耐えられない。耐えられなければ崩れるしかない。だが、脳裏に浮かんだ最悪の現実は、

「ありがとう――本当に、ありがとうね」

 雪子さんの両腕が僕の背中に回される。胸の中で雪子さんは泣いている。あぁ、この人は本当に泣き上戸だ。こんなことは大したことじゃない。本来なら気持ち悪いと拒絶されて然るべきだ。それを、こんな、こんな、

「……なんとなく、嫌な予感がして、それで猛さんの手を引っ張ったんです。虫の報せってやつだったのかもしれません」

 誤魔化しの言葉を、雪子さんに投げかける。したくなかったけれど、仕方なかった。そんなことでもしなければ、僕ももらい泣きしてしまいそうだったからだ。いつの間にかお客さん達が僕達のことを心配そうに見ている。猛さんも同じように見ている。

(――今日ばかりは、素直に感謝しよう)

 正直僕はあの喪服の女にいい感情を抱いていない。正体のわからない、僕にとっての災いを指さす女。はっきり言って不気味だ。だが、あの女のおかげで猛さんが傷つかずに済んだ。雪子さんが悲しまずに済んだ。ならばあの女はどんな神様にだって勝る存在だ。あの女のおかげで、僕を暖かく包んでくれた人達をこうして助けられたのだから。

 思考が現実に戻る。厨房の天井が落ちた以上、ビベリダエの営業は困難だろう。案の定猛さんはお客さんに対して今日の営業は終了すると案内をした。それに対して不平不満は一切上がらず、それどころか、

『天井が落ちて後片付けが大変だろう、手伝うよ』

 そのような申し出があり、結局店内にいた人間全員で落ちた天井の片付けが行われた。片付けを手伝ってくれたお客さんには後日店で一番高いコーヒーをご馳走することで決着がついた。

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