116 Re:親方、空から獣っ娘が!
ゴウゴウと音を立てながら、風が全身を切りつけるみたいに吹き抜けていく。風に混じった水滴が、顔の表面でビシビシ弾けていくのにきゅっと目を細めた。
視界が白くけぶっているのは、ワタシが雲の中を突き進んでいるから。
一メートル先も定かじゃない世界を凄まじいスピードで駆け抜けていく……生きるってこういうことなんだよなぁ。行き先が死に近づくことまで同じなのは、ワタシへのイジメってことで疑いようもないですね。
――ワタシは人生立ち止まってばっかだけどなぁ!
頬を流れていくのは涙じゃない、水なんだ……水なんだってばぁ!
頬の冷たさにさめざめとした気分で身を地締めているワタシの頭上で、ミニルムさんの昂った笑い交じりの声が響いた。
「生まれてこの方、翼を広げ、風を切って進むことを夢見てきたが……これが、飛ぶ、という感覚か……実に、実に気分がいいものだ!」
(夢が叶って良かったですねぇ! ワタシも現在進行形で悪夢の中ですけどねッ!!)
……っていうか、待て待て。聞き間違いですよね? この幻獣さん、今、空を飛ぶことが夢だって言いましたか?
……はっはっは! まさかまさか、あり得ませんよ。
だってレオゥルムさんの上半身は鷲ですよね。鳥属性を持っていて、しかも生まれたのは大分昔ときている。
そんな方が、これまで一度もそのご立派な翼で大空を思うままに駆けたことがないなんて、冗談にしてもおもしろくないですよ。
これは、下に着いたら真っ先にお笑いのなんたるかを教える必要がありますね。人に寄りそいたいなんて言いながら、笑いのことを知らないのは致命的ですからね。
――はっはっは!
「初めてなんですか?」
「んん? 何がかの?」
「これが初フライトって……マジですか」
緊張に強張るワタシの顔をキョトンと丸くした目で数秒見つめたミニルムさんは、流れていく風の轟音にも負けない音量で弾かれたように笑った。
「はっはっは! 何を言うかと思えば」
その笑い声にホッとして、思いのほか太いミニルムさんの前足を無意識のうちに縋るように握っていた手を緩めた。
「で、ですよねぇ! そんな訳」
「此方は生まれてこの方、アーセムの頂より動いたことがないと言ったであろう。もちろん、これが記念すべき此方にとっての初飛行である!」
「今すぐ下ろしてぇ!」
マジかよ、この幻獣様!? 訓練もしないで客をとって飛ぶとかふざけてるだろ!
お代はワタシの命でお願いしますとでも言うつもりかぁ!? 止めるんだ馬鹿、ワタシの命じゃあチップの足しにもなんねぇぞ!
慌てて外れかけていた手をギュッと握り直した。
「コレ! 暴れるでない。落してしまうやもしれんだろ」
「い゛や゛ぁあぁああ!」
こっちだって暴れたくって暴れてる訳じゃない。ただ、尻尾が勝手に股で丸まって、耳がペタして、震えが止まらないんだから仕方ないじゃない!
しかも命を握ってるからって、落すとか落さないとか、これはもう脅迫ですよ。
持ち上げておいて落とすなんて……まさしく畜生の所業!
一向に落ち着きを取り戻そうとしないワタシを見かねて、ミニルムさんがグッとワタシの身体を持ち上げて覗き込んできた。
「そう怖がらずとも心配はいらん。此方は幻獣として生まれた時より、この形で生じているのだ。故に訓練など積まずとも、飛ぶことになんら支障はない。
他の生物とて、息の吸い方を教えてもらわずとも呼吸はできよう。此方にとって飛ぶということはそういうものなのだ」
「そ、そうは言ってもですねぇ!」
「ほれ、速度を上げるぞ!」
「あ゛ぁあぁあああ!」
もう駄目だ。ミニルムさんってばテンションが振り切れちゃって、ワタシの言葉が届いてない。こんなにも震えている幼女が恐怖を叫んでるっていうのに、スピードを上げるなんて正気の沙汰じゃあないですよ。
きっとレオゥルムさんは車のハンドルを握ると性格が変わる系に違いない。
――今握ってるのはワタシの命なんですけどねッ!
顔に打ち付けられる水滴の勢いが一層強まって、ビシビシからバチバチという音に変化した。まったく痛みはないけど、恐怖は比例して加速度的に増していくから、目を開けてられなくて、祈るようにギュッと目蓋を固く閉じた。
――けして
でも差し伸べられた手に唾を吐く気もないので、今すぐワタシを救い上げて地面に下ろしてくれるなら縋りつくのも吝かではないですよ。
天に向かって唾しても自分に返ってくるだけですしね。さすがのワタシもそこまで愚かではありませんよ。
まぁ、握るための手はミニルムさんの足を摑むのに使っているんで、どっちみち手は取れないんですけどね。……こうやって人々は袂を分かっていったんだなぁ。
とういうか、目をつぶったら余計に恐怖が増したんだけど、どうしてくれるんですかね?
しかも一回目をつぶっちゃうと開けるタイミングが分かんないよぉ!
――どうすんのさ、どうすればいいのさッ!?
視覚が閉ざされたせいで、吹き抜けていく風と顔に打ち付けてくる水滴の音が余計に鮮明になって迫ってくる。直滑降しながら微妙に左右に揺れる度に、浮き上がった内臓が一緒に揺られて今にも吐きそうだ。
ワタシはもう駄目かもしれない。一回やらかしてるからね、一回も二回も同じな気がして我慢しなくてもいいじゃないかって身体が強張っているのに、食道だけが弛緩していきそうになるのを感じていた時、ミニルムさんの鋭い一鳴きが、風の爆音を切り裂いて耳に届いた。
「雲を抜けるぞ!」
全身で風の塊を突き抜けたような感触があった。
ミニルムさんの抑えきれない期待に溢れた声色に、思わず目を開いていた。
「見よ、イディ! 灯りだ! 人々の灯りだ!」
いつの間にか、暴風も飛沫も、雲の中に置いてきたみたいに収まっていた。
暗く染まっていた視界の中にオレンジ色の光が滲んだ。
――眼下は光の海だった。
まるで地表にも星々が瞬いているみたいに、夜の帳の中で建物から漏れた温かな灯りと、道々を静かに照らす街灯が街を彩っていた。
「……遠く、遥かアーセムの頂より、眺めるほかなかった人々の営みが、こんなにも間近できらめている……。此方は、此方は……!」
ミニルムさんが感極まったように言葉を詰まらせる。そっと下から覗いた瞳は、街の灯りを反射して、湿っぽく輝いていた。
長い歳月を、ただひたすらに見守ることに費やしてきたんだ。ワタシなんかじゃ思いも及ばない、いろんな感情が渦巻いているんだろうな。
話しかけて邪魔をするのも、その何かを言葉にするのも野暮な気がして、しばらくの間、ミニルムさんの感動を分かち合うみたいに、夜空の遊泳に浸った。
「……さて。まずは着地する場所を決めねばな」
「もういいんですか?」
「うむ。それに、これからはいるでも見ることができる。いや、見るだけではない。この光の中で共に過ごせるのだ。一度に楽しんでしまってはもったいなかろ?」
「ふふ、そうかもしれませんね。じゃあ、着地場所はあそこにしましょう」
オレンジの光に照らされたミニルムさんの笑顔に笑みを返しながら、一段と強く温かな光が集まっている地点を指差した。
そこはアーセムの根元、大広場からまっすぐ正面に構えられた建物。半分根っこに飲み込まれているような佇まいのそこ、アーセム協会本部の前に、多くの光が集まっていた。
リィル、ゼタさん、アミッジさん、オロアちゃん、シュシュルカさん。それにアーセリアさんやバロッグさんまで。
他にもたくさんの人たちが、手を組んだり、胸に手を当てたり、アーセムを見上げたり。それぞれがそれぞれのやり方で何かを一身に祈ってるみたいだった。
――なんとなく、予感があった。
きっと、あの光は導なんだ。ワタシが迷わず、みんなの元に帰れるように。
冒険なんて聞こえのいいものでもなければ、波乱万丈な出来事もなくて、ワタシはただ用意されたレールの上に座っていただけだけど。
それでも命がけの行いであることには変わりなくて、それを完遂できたんだって実感が今になって湧いてきたワタシは、ようやっと一息ついて、すぐに大きく息を吸った。
「――ただいまぁ!」
夜を揺るがす、大きな声だった。
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