35 そういうことだから、愛って


 ――とても……、とても長い夢を見ていた気がする。


 身体の中に溜まっている色々を、全身から満遍なく、ゆっくりと外に押し出すように大きく息を吐きだすと、微睡むように霞みがかった頭の中に、水底から上がってくる泡沫のような淡い光景が浮かんできた。


 温かくて、賑やかで、それでいて穏やかな。誰もが笑っている、そんな夢。


 どこを見ても満面に笑みが咲いていて、花園で戯れているような香りが辺りを包んでいた。


 そこに争いはなくて、諍いもなくて、森のぽっかりと空いた場所に溜まっている春の木漏れ日ように、ただただ穏やかな時間が流れてもいないのではと思う程、ゆっくりと漂っている。


 ――ああ。


 吐きだした息と一緒に、全身から何もかもが流れていくような感じがした。


 緊張も、怯えも、昂ぶりも……。


 皮膚が内側から張り裂けそうなくらい溜まっていたそれらが、穏やかな流れに誘われるように霧散して、空っぽになった身体の内側に、新しく清らかな空気が充満していくような心地良さ。


 世界は、しっとりと温かなヴェールに包まれたんだろう。

 柔らかく降り注ぐ陽に細めた瞼の先で、視界は仄かに白と金とに滲んで。


「ふふっ」


 口をついて出た笑いはなんだったのか、自分でもよく分からなかった。


 ただ、なんとなく、そういこうとではないんだろうと、思う。


 誰にとか、なんでとか、そういうことじゃなくて。


 ただあまりにも、笑う以外にないんだ。


 ――いい、なぁ……。


 淡い光は全てを包み、そこに愛だけが残されていたんだ。


「……お、お姉ちゃん。さすがにそろそろ起こしてあげた方のでは?

 イディちゃん、あらゆるわだかまりから解き放たれそうな顔をしてますよ」


「え~。でも、ここで起しちゃったら、きっとイディちゃんは現実に押し潰されちゃって、顔を真っ赤にして転げまわって……それもアリだね!」


「ナシですよ。もぅ」


 なにやら下界が騒がしいようだけど、ワタシには関係ない。


 だって世界は光に包まれたから。


 ――愛は、ここにあったんだよ。


「まぁ現実逃避してるイディちゃんも可愛いけど、なんにもリアクションしてくれないのは寂しいしねぇ」


「どうしましょうか?」


「そうだね……。あっ、いいこと思いついた。ゼタ、耳貸して」


「なんですか?」


 何やら不信心者が良からぬことを考えているようだが、無駄なことを、愛を知れ!


 愛は全てを受け入れ、愛は全て包み、愛は、無限大なんだよ!


 100%愛。


 今日、世界は救われたんだ。


「えっ!? でも、そんな。さすがにそれは……」


「んふふ~、それだけじゃあないよ。さらにね……」


「ああ、駄目、駄目です。そんなことしちゃったら……」


 ――……。


 だ、大丈夫。心配なんてこれっぽっちもしていない、なぜなら愛があるから。

 森羅万象に有象無象が諸事万端で一切合財だから愛は無敵なんだ。故にワタシも無敵なんだ。


 だからそんな少し離れたところでヒソヒソ話したって無駄なんだから、もうちょっとこっちによって大きな声でお話しした方がいいと思いますよ。


 ほらワタシ、お返事は大きな声でしましょうって習ってるから、例え自分にまったく関係ない話でも、気にはならないんですけど思わず耳をそばだててしまうというか、見知らぬ人の口元を隠した忍び笑いに自分が気付かぬうちに何かやらかしてるんじゃって社会の窓を確認してしまうこと、誰だってあるじゃない?


 そういうことだから、愛って。


「で、イディちゃんが……するでしょ。そしたらね、最後の仕上げに……」


「でも、それだとイディちゃん泣いちゃいません?」


(泣くッ!?)


 なんてことだ、愛を知ったワタシに何をしようというんだ。


 確認したい、でも確認するには現実を見なきゃいけない訳で、それはこの愛からの別れ意味しているからワタシにはいささか刺激が強い気がしてならない。


 そういうのはやっぱり幼児教育上はよろしくないと思うんで、もう少しね、身体が大きくなってからじゃないと。

 ほら世間体とかもあるだろうし、なによりワタシは友人としてそんなことになってしまっては忍びないと思う訳で、


「ん~。ちょっと可哀想な気がしますけど、仕方ないですかね」


「まぁ大丈夫でしょ。じゃあ私は道具取ってくるから」


「平和への一歩は話し合いからだと思います!!」


 ――愛なんてクソの役にも立たないねっ!


 あんなあやふやなものに包まれたって障子紙を楯にするみたいなもんですよ、そんなもので何とかなる程、現実ってのは甘くないんだ。甘くないんだよっ!


「あっ、本当に起きましたね」


「ねっ、言ったでしょ。イディちゃんはヘタレだから、近くで内緒話しただけで不安になって確認せずにはいられない、って。もう、ホント可愛いよね!」


(F◯ck you!)


 元の世界に戻る時のために練習してたから少しだけ英語の発音が良くなった気がするよ、やったねちくしょう!


 昼を過ぎてもギラギラと降り注ぐ太陽光と一緒に、現実ってやつがリアルにワタシを追い詰にきていた。


 自分でも気が付かないうちに闘技会の会場からは少し離れたベンチの上に横になっていたようで、四つん這いで起き上がった辺りを見回しても観客は既に散り散りにいなくなった後で、ステージもあらかた解体され終っているところだった。


 つまり、あの場にいたあらゆる人々はワタシの痴態を目と脳裏に焼き付けたまま方々へ消えてしまって、もう全員を見つけることは叶わないということで、人の口に戸は建てられないからワタシは死んだ。


 ――何なんだここは、異世界だここは!


 あまりの現実感に自分の立ち位置が迷子になって自問自答したら至極まっとうな答えが返ってきて、リアルさんってばホント手厳しんだから。


 ――へへっ、涙が零れちゃいますよ?


「まぁ、実際には話すフリだけのブラフなんだけどね」


「あ゛ぁあああ!」


 慟哭と共に溢れた涙は涎掛けに吸い込まれていった。


「あ゛ぁあああ!」


 涎掛けは引っぺがしてベンチに叩きつけた。


 誰か取ってくれてもいいじゃない。もう食べる物なんてないのに涎掛けをしたまんまなんて、そんなのただ幼女じゃないか、ただの幼女なんだけども!


「――大丈夫ですよ。イディちゃん」


 涎掛けに覆い被さるように頽れて女の子座りなワタシの肩に、ゼタさんの手が優しく置かれた。


 涙に潤んだ視界のまま見上げたゼタさんは、口元に柔らかな微笑みを浮かべて、




「発売されていた映像は買っておきましたから。それなら始めから終わりまで、余すことなく今回の闘技会を見れますよ。――今度、一緒に見ましょうね」



 囁かれた言葉は、まさしく愛だった。



「えへへ」


「ふふふ」


「えへへへ」


「ふふふふ」



 グッバイ リアリィ――



「あれ? どうしたんですか、また横になって。ええっと、イディちゃん? もしもし? こんな暑い日に直射日光を浴びすぎるのはよくないですから、眠いならベッドに行きましょう? ねっ? イディちゃん。もしも~し」



 ――ラヴ イズ オーバー。




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