07.熱い手

「浅日くんの方が状態としては危険だな。先にそちらを助けに行くとしようか。何か、変な事になっていなければいいけれど」


 年長者、紫門の言葉に従い大鏡を見に行く事になった。2階と3階の間にある踊り場にそれはあるそうだ。

 トキと南雲の事も気に掛かったが、紫門曰く「2人は多分一緒だから大丈夫だろう」、との事。確かにそう考えると大鏡に呑み込まれてしまった浅日の方が状況的には危険だと言えるだろう。


 紫門の後をカミツレと共に続く。彼はすでに校舎内の構造を記憶しているのか、その足取りに迷いは無い。変質者らしい言動さえ取らなければ、本当に優秀な人なのに。何て勿体ないのだろうか。


「ねぇ、ミソギ。今日はトキとは一緒じゃないの?」

「あ。いやいや、実は今はぐれてて」

「はぐれている? 大丈夫なの? あたしの都合ばかり押し付けてごめんなさいね」

「大丈夫だよ。あの南雲――ほら、救援のルームを作った新入り赤札も一緒だろうって紫門さんも言ってるし」


 カミツレの無駄な物が一切無い顔に疑問符が浮いた。小さく首を傾げる様は、気高い猫科の動物がきょとんとした顔をしているようで何だか可愛い。


「心配していると思ったのだけれど、そうでもないのね。赤札同士だと、そういう信頼関係のようなものが生まれるのかしら。あたしは浅日に迷惑を掛けてばかりだわ。まあ、彼も彼で無鉄砲な所があるけれど」

「信頼、関係……。そういう感じじゃ無いよ。私はカミツレ以上に、相方に迷惑を掛けていると思う。態度とかも含めてね」


 彼女と浅日の関係性は、自分達の関係性に似ていると思った。思っていた。しかし、それは恐らく間違いだ。自分とトキの関係性に似ているだなんて言ったら、失礼だとさえ感じる。

 恐らく彼女は、浅日がいなくなって「ああ煩い奴がいなくなった」、とは欠片も考え無いだろう。


「ミソギ?」

「え? ああ、どうしたの?」

「あたしは一人でももう一度、大鏡まで行くわ。貴方、紫門さんとトキ達を捜して来たらどう?」

「いや、本当に気にしなくて良いから。浅日くんの方が危険だし、トキは多分上手くやってるよ。手際良いからね」

「そう? 暗い顔をしているようだけど――あ」


 何かを思い出したように言葉を漏らしたカミツレは、途端悩ましい顔をした。その表情がころころと変わる。憐憫に満ちた、しかしどこか悲痛な面持ちへと。


「ミソギ、今はその事件について考える時じゃ無いわ。目の前の仕事に集中した方が良い。考えても仕方のない事は、仕方のない事でしかないのよ」

「うん、分かってはいるんだけどね。そういえば、センターまでお見舞いに来てくれたんだって? ごめんね、わざわざ」

「いいのよ。雨宮にはあたしも何度かお世話になったし。まだ意識が戻らないそうだけれど、貴方が気に病む事じゃない。冷たいようだけれど、貴方を心配しているトキや十束の為にも、今ここにいる人物の為に動いた方が良いわ。後で絶対に後悔する事になるもの」

「……そうだね」


 怪異との戦闘で意識が戻らなくなるような大怪我を負ったり、或いは殉職者が出る事などよくある事だ。少し大きな案件になれば何人も白札が失踪する事だってある。今目の前で起きている事も、『よくある事』の片鱗でしかない。

 元凶は対峙した怪異、それでいいだろう。

 しかし人とは割り切れない生き物であり、あの時何故こうしなかったのかああしなかったのかと悩み続ける思考回路を持っている。


「それでもやっぱり――あれだけ人数がいたのに、私には雨宮を助ける勇気も信頼も持ち合わせていなかったと思うと、上手く気持ちの整理が出来ないものだよね」

「それはあの場にいた貴方の同期皆が思っている事よ。一人で抱え込まない方が良いわ。それに自分の無力さを一番感じているのは、恐らくは十束よ」

「そうだね。……いや、やっぱり私は――最低だけれど」

「……?」

「カミツレは優しいね。こう、トキにそういう優しさがもう少しあったら、多分私はここまで融通が効かないような状況には陥っていなかったと思うけれど」

「はあ……」


 乾いた土に染み込む水のようなカミツレの言葉は心を落ち着かせてくれる。ついでに、トキを心配するような人として当然の感情が沸き上がってきて僅かに安堵した。

 彼女の言葉には力があるのだと思う。人を落ち着かせる力が。例えその言葉が――どんなに的外れであろうとも。


 十束に噛み付くトキの様子を見ていて思う事がある。


 ――ボタンを一つ掛け違えていれば、ああなっていたのは私だったのではないかと。

 立場がほんの少し違えば。逆説、そのままの立場であったのならば。顔を合わせる度に罵倒されていたのは自分だったかもしれない。トキが十束を嫌煙する理由と、自分が十束を倦厭する理由は違う。

 少なくとも研修時代のトキと十束は仲が良かった。今以上には友達然とした態度だったはずだ。


 雨宮奇譚――アメノミヤ奇譚と上司達が名前を付けているあの事件。あれが全ての元凶、歯車が狂った理由。どうにかしなければならないのだろうが、残念な事に解決法は未だ判明していない。


「うん?」


 先頭を歩いていた紫門が不意に足を止めた。その視線の先には、何故だか戸が半開きになった教室がある。


「どうかしたんですか?」

「いやね、ミソギちゃん。ボクは確か、ここを1回? か2回くらい通ったのだけれど、どの教室もピッタリ戸が閉まっていただろう? 誰か開けたのかな、これは」

「閉めましょうか。明日、学生が登校した時に開けたままになっていたら、学校側から苦情が来るかもしれません」


 言いながら、ミソギは戸に手を伸ばした。ちょっとだけ開いている襖とかが何となく苦手なので、早い所その不安を掻き消したかったのだ。


「えっ? ちょっと、ミソギ、待って――」


 止めた方が良いんじゃない、と続くはずだったカミツレの声は途中で途切れた。

 腕に黒い手のようなものが触れる。それは不自然に熱く、焼け付くような熱気が喉を焼いた。喉が一瞬だけ酷く乾燥するような錯覚に襲われ、上がり掛けた悲鳴は喉の奥に押し込められる。

 その躊躇いは結果的に言えば失敗だった。

 吐くのではなく呑み込んだ声の先。強い強い力に引き摺られるようにして、ミソギはその教室の中に引き摺り込まれた。

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