03.理科室の人体模型

 おい、とそれまで黙っていたトキが言葉を紡いだのは廊下の半ばまで来た時だった。その声音に含むものを感じたのか、顔色を再び悪くしたミソギが恐怖に怯えるように立ち止まる。


「ど、どうかしたの?」

「――理科室まで来たな」


 先程、アカリが漏らした不穏な噂話が脳裏を過ぎる。喋って紛らわせていた恐怖が、徐々に甦ってくる感覚に身震いしながらも南雲は周囲を見回した。今の所、何か異常が起きている様子は欠片も無い。

 しかし、やはり夜の学校は魔窟。

 もしかしたら何事も起きないかもしれない、という願望はすぐに打ち消された。


「ひっ!?」


 短く悲鳴を上げたミソギ。その理由は悲鳴どころか息を呑んで硬直した自分にもよく分かる。

 今、理科室の中からガシャンという明らかに人体が動くような音ではない音が聞こえた。走って通り抜ける、という考えが一瞬だけ浮かんだが、今現在における行動の主導権はトキが握っている。彼は逃げるつもりなど毛頭無いようで、出会った時から背に負っている細い筒を背から下ろした。


 ええ、とミソギが絶望的な声を上げる。


「応戦するの!?」

「走って追い掛けて来られては面倒だ。もし、音楽室に入れなかった場合、踊り場という狭い場所で迎撃する事になる」

「そうだね……」

「え? え? じゃあ、俺はどーすれば――」


 言い掛けた言葉を呑み込む。トキが下ろした筒からはどう見ても日本刀のような凶器が転がり出て来たからだ。銃刀法違反を完全に無視。なかなかどうして強か且つ恐ろしく強靱なメンタルの持ち主である。


「や、やっぱり止めとこう、トキ。最近、特定条件満たせてないじゃん……。返り討ちにされるかもよ?」

「なら、私の代わりにお前が頑張る事だな」


 ――譲る気は無いようだ。

 酷く心配そうな、不安そうな顔をするミソギに訊ねる。


「あのー、あの人の特定条件って何なんすか? 面倒臭い系?」

「いや、トキは……落ち着いている事が条件だから。ただ落ち着いているだけじゃなくて、こう、柔道とか剣道とか系のアレ」

「あ、あー。まあ、言わんとする事は理解出来ます」


 集中力が必要らしい。心に細波を立てず、静かに、穏やかに。そういった類の集中か。というか彼は出会った時からずっと苛々しているように感じるのだが、むしろ条件を満たしている事があるのだろうか。謎である。


 どうしたものかと思考を巡らせる余裕も無く、再び理科室からガシャンという音が響く。床から僅かに両脚が浮いているアカリが慌てたように首を振った。


「ね、逃げた方が良いよ! あの人体模型、生きている人間が大嫌いなんだって!」

「ええ? 教材として使われてるのに? 人が多い学校に設置されてるとか拷問じゃねぇか」


 締め切られた理科室の中を伺う事は出来ない。

 極々自然な動作でトキが例の凶器を鞘から抜いた。小さな明かりに反射して、刀身が鈍色の輝きを放つ。


 それと同時に、理科室の中からプラスチックの足音が聞こえて来る。まるで人間が50メートル走をするような、軽快なリズムだ――


「ぎゃああああ!?」


 バンッ、と教室の磨りガラスに両手の影が映る。その人体模型とやらが突進し、ガラスに激突した事は明白だ。思わず南雲は悲鳴を上げたが、ミソギの方は驚き過ぎて声にならない声を上げている。

 続いて、教室前方のドアが音を立てて開け放たれる。


「ひいいいいいっ!? エッグい、人体模型エグいいいいい!?」

「ああああ!? ビックリするでしょ、急に叫ばないでよっ!! 耳元で煩い!!」


 何故かミソギその人に怒鳴りつけられた。盛大なブーメランのような気がしないでもないが、それを指摘する余裕は無い。


 怒声も叫び声にカウントされるのか、折角ドアからこんにちはして出て来ていた人体模型くんは何者かに押されたかのように、大きく傾いた。

 すかさずトキが模型との距離を詰め刀を振りかぶる――こと無く、華麗な跳び蹴りを見舞う。日常的にはなかなか聴く事の無い致命的な破壊の音、後ろ向きに倒れた人体模型にトキがトドメと言わんばかりに両足で着地した。

 人体模型の腕が外れ、あらぬ方向へ飛んで行き、重要な内臓部分は分裂して床に散らばる。ああ、完全に壊れたなとそう感想を覚えるような有様だ。


「……いや、ていうか、刀の意味は……?」

「支給品だが、これもタダではない。こんなガラクタを殴りつけようものなら折れてしまうかもしれないだろうが。そもそも、本体はプラスチックのガラクタ。壊してしまえばどうという事も無い」

「そうだけど! つかアンタ、俺に対して器物損壊がどうの、つってたじゃん!」

「煩い、黙れ」

「理不尽!!」


 どうにか直らないものかと人体模型に目をやるが、どう足掻いても元の状態には戻せそうにない。がっくりと項垂れていると、横合いからミソギの手が伸びて来て、肩を叩いた。


「大丈夫。相楽さんに事情を話して、経費で落とそう?」

「何も大丈夫じゃねぇっす! つまり、弁償はしなきゃならねぇって事じゃないすか!」


 ああ、とアカリが至極残念そうな顔をする。


「壊れちゃった。次に来る人体模型さんは、もっとフレンドリーだったらいいのになあ。でも、不気味だしもう要らないや!」


 流石、元女子中学生。縦社会が確立していないのか、言いたい放題である。一応この人体模型もまた、彼女より長くいる夜の学校の愉快な仲間だっただろうに。

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