#34 Stuffy
四月になって私は、都内のキャンパスに通うことになりました。
今まで通っていた、横浜の郊外のキャンパスから、ずっと離れて。
サークルは、変わらずずっと郊外のそこを拠点にしていて。私は時々は行こうと思っていましたが、椎名と会うのも、少し気まずくて。新学期が始まって一週間が経って、まだ私は一度も行けていませんでした。
アカネは進級して、そこから少しだけ離れた場所に通うことになったようでした。最寄り駅も、何も変わらないような、本当に少しだけ離れた場所に。
私は一度もそこには行ったことがありませんでした。理工学部だけが使う研究用のキャンパスなのです。
三月の真ん中の、その進級したという知らせから、アカネは私にメールをくれなくなっていました。けれど、私たちは特にメールのやり取りが激しいわけではなかったし、私はそれを大して気にしていませんでした。
けれど、それはきっと彼女の覚悟と迷いの結果だったのです。
新学期のガイダンスの終わりの日。私は彼女からメールを受信しました。
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From: Nibukawa Akane
To: Ai Akikawa
突然、こんなことを伝えることを、許してください。
これがひどいことだということを、私は明白に分かっています。けれど、これを伝えないということも、同様にひどいことだということも、私は知っています。
これが結局は私たちに待っている結末なのだと、そういうことなのです。
恐らく、私が今あなたを傷付けないで、このままにしてしまえば、もっとあなたを傷付けてしまうことになるのだ、と思います。関係の深さと、心の依存度の深さは、ほとんどの場合、比例していますから。
本当に、何を言っているんでしょうね。浮かぶのは言い訳ばかりで。私は今この際になっても、恐らくはあなたから嫌われることを恐れているのです。恥ずかしいことなのですが。いつか、嫌われる時が来るだろうと、最初はそれをポジティブな意味合いで受け止めていたくらいなのですけれど。でも、もう何だか私はあなたのことを本当に好きになってしまったみたいで。
ごめんなさい。もう、端的に言ってしまおうと思います。私の覚悟を決める意味でも。
私は、もうあなたに会うことは、できません。
私には、あなたに対して隠し事があります。
それは本当に大きい隠し事なのです。私たちは、もしあなたがこれを知っていれば、恐らくこんな風になることはなかったのではないか、と、そう思えるほどに。そんなもの、どうやって隠し通せたのかと、あなたは思うかもしれませんが。私は隠し、そしてあなたは勘違いをして、だからこんな大きな虚構が、きっと成立したのです。
私は、誰とももう深い人間関係を築くつもりは、ありませんでした。
基本的に一人で生きていける種類の人間ですし、それに人と接すると、私はその相手を傷付けてしまいそうで、それがとても怖くて。あるいは正直に言えば、私は自分が傷付くのが本当に、本当に怖いのです。
私は高校生の時、人との関係を本当に碌に構築できませんでした。
不思議な話で。特に話したこともないような、でもクラスの中心にいるような人から、一度嫌われてしまうと、リカバリーというものが、本当に難しいのです。今の時代、直接顔を合わせて話さなくても、ネットを通せば、他の誰にも基本的にはわからない、秘匿的なコミュニケーションが、いくらでも取れるのだから、仕方がないのかもしれませんが。
でも、私は一人、恋人を作ることが出来ました。
その経験は、私にとって本当にいいものでした。私はその人のことが本当に好きでしたし、それにその人も、私のことを好きと言ってくれました。傍に居てくれました。
私にとってはそれだけでよかったのです。それが虚構であろうと。
だけれど、その人は結局その虚構も全て壊してしまいました。私は今思うと、私は最初から騙されていただけのような気すらしてくるのです。あるいは私と付き合っていたのは、ただのフェイクか、あるいは罰ゲームのようなもので、笑われていたのかもしれません。
そんな風に考えてしまう私自身も、本当に嫌いなのですが。
高校時代、私は塾に通っていたこともあります。
塾は気楽でした。成績さえ出せば何も言われないのです。けれど、そこはそこでひどく歪んでいるということも、私には分かっていました。そもそも、何というか不思議なことですよね。新幹線の駅前には、ほとんど絶対に予備校があって。大学受験というのは、どういうものなんでしょうか。頭がいい人を、選別する、ためのものなのでしょうけれど。
私には頭のいい人というその定義も、よくわからなくなってしまいました。
社会に貢献できる、発想力と論理的思考力のある人?
それなら、試験のパターンを覚えて、お金を払って教師を雇って。そういうものって、目的に合っている解法なんでしょうか。
もちろん、過去の試験問題を見て、より法則を深く理解する、なんて経験を、私自身したこともあるし、全面的にそれを叩くことなど、出来やしないのですが。
さて、私はあなたに感謝しないといけません。
あなたは私を追ってくれました。
私は埋没するつもりでいました。正直に言って、私はもう何というか道から外れないように生きていくのに疲れていたのです。ひどく婉曲な文章かもしれませんが、きっとあなたなら分かってくれると信じています。私は、疲れたのです。まともに生きていくことに。
でも私はそんなにその道から外れられないだろうということも、同時に分かっていました。私は板挟みになりました。どちらにももうなれる気がしませんでした。
あなたと会ったのはそんな時でした。
あなたは私が思ってもみないことをしてくれました。本当に、私はあなたのような人が現れるなんて、想定していなかったのです。
最初の時、良い反応をしてあげられなかったこと、許してください。
私は本当に驚いていたのです。名前を叫んでいたあなたの声、今でも覚えています。今となっては本当に素敵な思い出です。あなた、声が綺麗ね。思い出すと、落ち着きます。
私はでも、前に言ったように、隠し事をしていましたから、あなたと何か友達になること、より深い友達になることを、避け続けていました。
夏休み、水族館に行った時、あなたは私が楽しんだか聞いてくれましたね。
私、あの時本当に申し訳ない気持ちになったのです。半ば騙しているような私を、心配してくれるなんて。私はだから、もうあなたとは関わらない方がいいと、そう思ってしまったのです。それも、あるいは結果的にはあなたをより深く私と関わらせる結果になってしまったかもしれませんね。本当に、申し訳なく思っています。
今思えば、あの時に何か理由を付けてあなたとはっきりとさよならしていれば、今するより、ずっと二人ともの傷が減ったのかもしれません。でも、私はそれを後悔できないのです。あの時の私には、あなたとの関係をバッサリ断つ勇気なんて、全くありませんでしたから。今だって、本当に勇気を振り絞って、やっとこれを書いているのです。
そういえば、あなたはいつか、マルクスが自分は共産主義者じゃないと言っていたと、そう私に教えてくれましたね。調べてみれば、彼の理論はあくまで経済と社会システムの移行についてのものであって、決して社会主義を打ち立てろとかいう、そんな攻撃的な種類のものではなかったようです。
あるいは、彼はだからそういう風に言ったのかもしれません。
論文でさえ、そんな風に間違って解釈されるんですから、文章なんて基本的に誤解で出来ているんでしょうね。私は、それを見ていてそんな気持ちになりました。書かれていることなんて、きっとそんなに重要ではないのでしょう。それが、どれだけ自分に合っているか、大切なのはそれだけなのです。そんな風に思い始めると、この文章を書く気力が、本当にそがれていくようですが。
マルクスを調べて、私は一つだけ、心に響いたことがあります。
資本主義社会においては、必ず失業者が出るということを、彼は論理的に解き明かしたそうです。考えてみれば、人を自由に雇えるということは、無職の人たちが作る労働市場が、どうしても必要だということなのですから、当たり前のことなのかもしれません。
私たちの社会は、宿命的に誰か生贄を必要としているということなのでしょうか。
私は、もう何だかこの世界で上手に生きていくことが、出来そうにありません。
でもきっとこの思いは、私に特別のものではなくて、この社会に住む人たち全員が、多かれ少なかれ、そんな風に思っているのでしょう。きっとそれは甘えでしかないのです。私はそれも分かっています。
とりあえず、私はもうこの大きな隠し事を止めようと思います。
あなたに、抱きしめられて。私はもう隠し通せる自信と、それからその意味を、見失ってしまいました。私にとって、この隠し事は、逃避の象徴でした。けれど、他の人を傷付けてまで、逃げ続けることは、もうできないと、私はそう決めたのです。もう私はこれが限界であることに気付いてしまいましたし、それにもうきっと、この形で逃げることは、社会にも許されないと思います。
私は、何とかまともに、与えられた役割を演じてみることにします。
あなたから、こんな形で、逃げるようになってしまうことを、許してください。私は、あなたに嫌われることが、あなたに会えなくなることよりも、もっとずっと怖いのです。それにもし、あなたが私を許してくれるとすれば、あなたは私に逃げてもいいのだと、言ってくれそうで、私はそれも怖いのです。このままでは、あなたとの関係には、ずっと壁が出来てしまうような気がして。この社会には、まだ同質を求める文化が、根強く残っていますから。批判的な意味では、ないのですが。
そもそも、国家というもの、社会というものの同質性は、同質な人が集まって形成されたからあるのではなく、あくまで矯正によって担保されているのです。今も、昔も、どこの国にしろ、どこの社会にしろ。だから、仕方がないのです。
本当に、長くなってしまって、ごめんなさい。けれど、私はせめてあなたに私の心を伝えたいと思うのです。あるいは、本当に自己満足かもしれないけれど。せめて。
あなたに会えて、本当によかった。
私は最後にこう言いたいと思います。あなたに会えて、本当によかったと。そして、私はあなたのことが本当に好きだったのだ、ということを、添えたいと思います。
P.S
私は、あなたとのやり取りが、前時代的なメールだったことにも、感謝しています。
もしこれが、SNSであれば、きっと文字数の制限が、私を大きく縛ったでしょうから。今のこの世界は、言葉にとってひどく窮屈な時代かもしれませんね。短文、百四十文字以内の文が、一番もてはやされてしまう時代なのですから。
私は、せめてこの文章をクリアな形で、文脈的な形であなたに送れて、本当に安心しています。最後が、息苦しくなくてよかった。
さようなら。私が、鈍川 茜が、もうあなたの前に訪れることは、ないと思います。
勝手で、ごめんなさい。けれど、これしかないのです。
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