Autumn

#10 (Ir)reversible

 十一月の半ば、梨紗は髪を別の色に染め直しました。

 それは濃い栗色でした。私はその色彩に何となくアカネの姿を重ねました。彼女たちの髪はとても似ていました。違いは、ボブカットかロングか、地毛か染めたか、それくらいでした。でも、私にはそれは果てしなく大きな差に思えました。染めるのが悪いなんて言うつもりは毛頭ありません。ですが、梨紗の髪には、酷く繊細で壊れやすい何かを、不可逆的に壊してしまった後のような、退廃的で致命的な違和感を抱かざるを得ませんでした。

「髪、染めたんだね」と私は言いました。

「どう? 似合ってる?」と彼女は返しました。

「似合ってることには」

 彼女は私のその言葉に少しため息をついて、「そう、あまり好きじゃないのね」と言い、それから私の隣に座りました。

「でもたぶん私が変なだけ。よく似合ってると思う」

「お世辞が下手ね」

 彼女は茶化してそんな風に言いました。「正直者は嫌われるわよ」

 それから私たちはいつもと同じように授業を受けました。私は時々思い出したようにノートを取り、彼女はずっと手元のスマートフォンをいじっていました。通例と同じく、信じられないくらい長い講義は、最後にコマーシャルの音楽のような本当に威厳の無いチャイム音だけを残して、終わりを迎えました。

「じゃあ」と彼女は荷物をまとめながら言いました。「またね」と。

「あと、この色を選んだの、彼なのよ」

 彼女は最後にそう言い残して、私の視界から消えて行きました。

「マネキン」と私は呟きました。無意識的な、小さな声でした。


 その週は金曜日まで全て正常に終わりました。

 火曜日に会ったアカネは、珍しく丼ものを食べていました。親子丼か何か。私はそれを見てやはり同じものを買い、それから彼女と並んでそれを食べました。決して素晴らしく美味しいというわけではない、ごく一般的な学生食堂の味。

「よくできてる」と彼女は言いました。「でも少しぱさぱさしてる」

「確かに」と私はそれに返しました。

 私はその表現が気に入りました。少し乾きかけのお米。水分の足りない空気。あっさりとした関係。確かに、その場にあるものは全て少しだけぱさぱさしているように私には感じられました。

 それから土曜日が訪れました。

 私はその日も椎名と待ち合わせをしていました。今度も渋谷駅で。私が着いた時には、彼はモヤイ像の前にずっと立っていました。モアイを模したその巨大な石像を見ながら、私はずっと遠い南国のことを考えていました。何かが起きると、木材と国力と人命をすり減らして、意味もなさそうに大きい、巨大な石像を作る国家。歪だ、と私は思いました。私たちはクレーンやら車やら船舶を持ち出して、手軽に像を遠く伊豆諸島まで運んでいける。彼らはそうではない。そうではなかったのです。

 そして、渋谷区の文化センターのプラネタリウムを、私たちは見ました。それは彼の推しでした。私はプラネタリウムなんて十年ぶりのことでした。席に座り、照明が消され、すると丸い天井の全域に、星空が投影されました。それは確かに信じられないくらいに綺麗で、それから限りなく壊れやすそうに見えました。光は揺れて、焦点はずっと合わない。

 私は、その最後に解説の女性が静かに発した言葉をまだ覚えています。

「今の渋谷からは、この空を直接は見ることが出来ませんが、一方で星たちはそれでも確かに、しっかりと光り輝いているのです」


 私たちはそれから駅の北東に行き、五右衛門でパスタを食べました。彼はシラス入りを、私は帆立入りのを。そして二人で代々木公園を散歩し、ただ歩道を歩いていました。季節は十一月のまだ半ばで、従って木々は殆どのその葉を未だ染め残していました。

 高くなった空はうろこ模様に化粧をして。この一週間でぐっと低くなった気温は公園から人を追い出し、私の体温を奪っていました。

 私はそして彼と手を繋ぎました。

 彼の手は私より随分熱を持っていました。私たちは初めて指を絡ませ、それは私に彼の体温をダイレクトに伝えました。人の熱。随分と微かで、柔らかい熱。私はそれに包まれ、それから、ロケーションは私にちょっとした勇気をもたらしました。

 帰り道の、四車線道路を跨ぐ歩道橋で、私は欄干に彼を引き寄せ、それから彼の肩に寄りかかりました。人に寄りかかるということで得られる多幸感を、私はただひたすらに感じていました。重心の移動、人の躰の弾力、粘着的な熱の伝達。それがもたらす麻薬性。

 私たちは結局手を繋いだまま駅まで戻り、それぞれに別れて帰りました。

 全体として彼に対するその日の私の行動は、理性的というよりは、ずっと衝動的なものでした。だから私はそれに少し後悔し、でもそれを完全に消し去りたい過去としては見れませんでした。私は、実際にそれでも心地良さを感じていたのです。たとえ、彼に何か激しい恋愛感情的なものを持っていなかったにしろ。

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