sour vague boundary

 友情と恋愛って、何が違うんだろう。

 この頃、非口ひぐちはそう考える。




「最近ね、唇乾いちゃうの」

 中学校からの下校中、隣から聞こえたその言葉に何気なく顔を向け…… 息を呑んだ。デンス(Dens)の唇が、思ったより近くにあったから。

 慌てて顔を正面に戻す。一瞬はっとしてしまったのに感付かれはしなかったか。自身の心音の一つ一つが、嫌に大きく響く。

 

 少しの沈黙を挟み、デンスの声が続けた。

「皮が剥けちゃってね。今朝オレンジ食べたんだけど、汁が染みちゃって痛かったんだよー」


 はて、先程一瞬だけ視界を支配したこの子の唇は果たしてそれほどまでにひどい状態であっただろうか。オレンジ色にも近い、赤みがかった鮮やかな色彩であったのは確かだろうが……

 こんなことを思考する自分の頬は、今紅潮していないだろうか。

 ともあれ、会話を途切れさせてはならないと思った。

「大丈夫、だった?」


「うん、だからリップクリームでも買いに行きたいんだけど、一緒に来てくれる?」


 良かった。目を逸した自分の行動は特に不審に思われていないようだ。

 デンスとおそろいの麦わら帽子を少し目深に被り直し、自分勝手な安堵感と共に頷こうとした。


 すると。

 傍らの街灯をするすると滑り降りてくる影があった。


「呼びました?」

 日光を反射して輝く白髪。首から下の全身を覆う包帯。ボロボロの白衣。

 年齢も性別も下の名前も不明なこの町唯一の医者、目井めいさんに他ならなかった。


「呼んでません…… 何、してるんです?」

 引き気味に尋ねる非口。


「散歩です」

 義肢の四肢で街灯にしがみついたまま応じる目井さん。


「街灯、登る、散歩なんて、聞いたこと、ないです」


「ときにデンスさん、お話が聞こえてしまったんですが、唇が乾いてしまっていると?」

 いつも通りの笑みをたたえた目を向けられ、戸惑いながらもデンスは答える。

「ええ、まあ」


「でしたらどうぞこれを」

 白衣の胸ポケットから取り出されたのは、手のひらに収まるサイズの筒状の物体。


「知名度は高くありませんが、この会社さんのは効果が高いんですよ」


「え、もらっちゃっていいんですか?」


「どうぞどうぞ。では、私はこれで」

 そんな言葉と共に、先程滑り降りてきた映像を逆再生するような、不自然になめらかな動作で街灯を登っていく目井さん。


「……ありがとうございます」

 目で追いながら礼を言い、デンスはもらったばかりのものに目を落とした。小さな容器には、中身がリップクリームであることを示す表示がされていた。

 



「おー! 美味しそう、美味しそう!」

 自宅の冷蔵庫を開け、歓声を上げる非口。中では、昨日デンスと一緒に作ったコーヒーゼリーが固まっていた。

「本当だね! 綺麗な黒だねー」


「あ、でも、食べて、大丈夫? その…… 口……」


「これはしっかり固まってて染みるものもなさそうだし。さっきリップクリームも塗ったからたぶん大丈夫。……何より、昨日からずっと楽しみにしてたんだから」


 その言葉に、かすかに跳ねる心臓。

(違う。きっと、そんな、意味じゃない……)

 屈託のない笑顔になるたけ不自然でなさそうな笑みを返し、2つのゼリーを取り出した。


 リビングのテーブルにつき、「いただきます」をしてからスプーンを手に取る。

 ゼリーを一すくい。真っ白なホイップクリームを載せ、ぷるんと震える黒く柔らかな宝石のようなそれを、少し眺める。そうしてから、自身の後頭部に向けて運ぶ。


 長年ロングヘアーだったが、3年生になってから思い切ってデンスと似たようなショートボブに変えてみたそこには、


 プルプルとした紅赤の2対の大きな唇。

 それを割るように顔をのぞかせた28本ピシッと生え揃った米粒のように白い歯。

 ショッキングピンクのフェイスタオルのような長い舌が、スプーンに載せられたゼリーをべろり、と舐め取った。




 生まれつき非口の後頭に存在する、食事をするための口。顔にある口ではどんな飲食物も不味く感じて何も口にできないため、専らこちらの口で食事をする。

 小さい頃はこのことでいじめられた経験もあり、美容院以外で人前に出る際は帽子で隠し続けてきた。

 みんなに気持ち悪がられているような気がして、誰ともうまく接することができず、友人と呼べる存在がいなかった。

 けれど、中学校で出会ったデンスが「全然変じゃない」と言ってくれた。

 嬉しかった。たとえ本心ではなかったとしても。




 ふと気付いた。デンスがこちらを見つめている。

「どうしたの?」


「あっ…… ううん、なんでもない…… 美味しい?」

 両手を振り、慌てたように取り繕うデンス。

「うん、すごく、美味しい」


「よーし、では!」

 デンスは笑顔のままゼリーを大きくすくい、口へと運んだ。

 が、どうしたのだろう。

 口を閉じた途端、その表情から一切の喜色が失せた。どころか、両手で口を覆い、苦しそうな呻き声を上げ始めたではないか。


「デンスさん⁉︎」

 突如真っ青になって悶絶し始めた、目の前の大切な人。

 後で思い返してみれば、この時にすべきだったことは他にもいくつかあったはずである。

 背中を叩いてゼリーを吐き出させたり、すぐ横のキッチンから飲み物を持ってきて飲ませたりなど、より確実だと思われる方法があったはずである。


 しかし、この時の非口は何故か、


 デンスの荒れ気味の唇に、自身の唇を、それも後頭部の唇を重ねた。




 世界が無になった気がした。

 ただそこにあったのは、巨大な口唇が感じ取る小さな口唇の温もりとリップクリームのぬるりとした感触。そして、その小さな口唇から口移しされるゼリーの弾力のみだった……




 が、そんな瞬間も長くは続かず。

 デンスの口から移動してきたゼリーの一部を口にした非口は、思わず顔にある口で悲鳴じみた叫びを上げた。


「酸っっっっっっっっっっっぱ!!」


 なんで⁉︎ なんで同じコーヒーゼリーなのにこんな酸っぱいの⁉︎


 どうにかゼリーを吐き出したはいいものの口内の酸っぱさは収まらず、パニックになりつつうがいをしてみたら、うがいの水も酸っぱくて再度2人して悶絶し…… というすったもんだをしばらく繰り広げた末、タオルで唇を拭い、しばしじっとしていたらどうにか収まった。


「はあ…… びっくりしたねえ。大丈夫?」

 と、非口の部屋のベッドに腰掛けたデンス。


「うん、まあ……」

 隣に座ってそう答えつつ、非口はデンスの顔を見られなかった。

 どうしよう。とんでもないことをしてしまった。いくら咄嗟のこととはいえあれはない。謝らなきゃ。でもなんて言えば……


 ぐるぐると自分の中で逡巡し、だから始めは何を言われたのか分からなかった。

「ねえ、嫌だったらいいんだよ。だからその、もし良ければなんだけど、その…… もう一回だけしてもらってもいいかな? ……キス」




 友情と恋愛って、何が違うんだろう。

 この頃、デンスはそう考える。




 デンスの家族は、しょっちゅうデンスを否定する人達だった。

 デンスが自分達の望む通りの行動を取らないと、すぐに怒鳴った。デンスの行動を、というよりも、デンスの存在そのものを否定するかのように。

 その辛さを熟知していたから、デンスは誰かを否定することをしなかった。できなかった。そうしているうちに、自分が本当は何をどう感じているのかが分からなくなっていた。

 誰かの秘密を知ってしまっても、その人を否定することはなかった。とにかく無理矢理にでも肯定していた。それが本心なのかどうかは、自分でも分からなかった。

 けれど、非口はその事実を知ってもなお「デンスさん否定しない。肯定する」と言ってくれた。

 嬉しかった。


 大切に思ってはいる。けれど、具体的にどう「大切」なのかと問われたら迷う。友情と恋愛の境界線が、どこにあるのか分からない。

 さっきは混乱していてよく分からなかったけれど、もう一度したら。もしかしたら、この感情がどちらなのか確かめられるかもしれない……

 

 言ってから、動機が不純なことに気付いて、しまった、と思った。目の前の非口もきょとんとしている。今ならまだ取り消せる……

 口を開きかけたのと、非口が発言したのは同時だった。

「……いいよ」

 髪に隠されていない後頭部の唇がぐい、と接近する。

「……いいの? 食美はみちゃん」

 いつも通り下の名前を呼んでみても、返事は変わらなかった。

「……いいよ」

 

 

 

 再び無になる世界。

 今度は先程よりも克明に、唇のぬくもりを感じ取れた。

 自分の剥けた皮が当たって痛くないのだろうかと今更ながら心配がよぎったが、大きな暖かさは何事もなく吸い付き続けていた。

 ぼんやり霞んだ思考には、いつの間にか窓の外に現れていた夕紅が妙に印象的に見えた。




 どれくらい経った頃だったか、どちらからともなく静かに唇を離した。

 しばらくは互いに無言だった。ただ2人共、非口のキスできる方の口が後頭部にあって良かった、と考えていた。きっと外の夕紅と同じ色に染まっているであろう自分の顔を見られなくて良かった、と。


 分からない。

 自分にとって相手がどんな言葉で表すべき存在なのかが。「友達」なのか、「恋人」なのかが。

 どうしてだろう。無言の中、互いが同じことを考えていることだけは、はっきりと分かった。


 やがて、非口が不意に振り向いた。顔を見合わせ…… どちらからともなく微笑んだ。

「ゼリー、どうする?」


「うん、もう大丈夫だと思う。食べちゃおっか?」


 自分達の関係性は分からない。少なくとも今は。

 けれど、キスをしたことに対する後悔はない。大きく踏み出したことで、相手の一挙手一投足も少し落ち着いて見られるようになった気がする。

 やはり大切な人であることに変わりはない。それだけは分かった。

 だから、これまで通り続いていく。それは変わらない。

 2人は、ベッドからそっと立ち上がった。




 翌日。


「目井さん…… もしかしてこのリップクリーム」


「変なもの、だったり、します?」


「ああ、無くしたと思ってたら間違えてお渡ししてしまってたんですね!

 今ですね、患者様の治療のために味覚の研究を色々と行ってるんです。このリップクリームはその過程で試作したものなんですよ。

 これ自体は無味無臭なんですが、これを塗ってから飲食をするとどんなものでもものすごく酸っぱく感じるんです。どれくらい酸っぱいかと言うと、レモン100個をいっぺんに食べるのと同じくらいなんです。

 ……もしかして塗っちゃいました?」


「……目井さん……」


「ごめんなさいごめんなさい本当ごめ」


「ありがとうございます」


「はい?」

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