上は大火事、下は人間

 安普請の玄関ドアから、激しいノックの音が部屋中に響き渡る。今にも破られんばかりの勢い。


「大変です! お家燃えてますわ!」

 違う。


「お逃げください! いや、消防車呼ばないと! あれっ、何番でしたっけ!?」

 違うんだ。


「と、とにかく早く出てきてください! 窓から火が見えたんです!」

 違うのに。


 …この人はこんなにも…。


 意を決し、ドアを開いた。




 一里間ひとりまは平凡であろうと努めてきた。

 傍からはクールに見えるが本質はシャイなため、目立たぬよう、注目されぬよう、人の中に隠れるようにして生きてきた。

 自分の本音は心の中にしまい、人に言うべきものではないと思っていた。

 町中で時折見かける、目井めいさんの手術を受けたと思われる人々は、だから自分からは最も遠い存在だと考えていた。




 その日の一里間は、無性に眠かった。


 アパートに帰宅してすぐ、着替えもせずにベッドに飛び込んだ。


 何も気にせず眠り続けた。


 人々が口々に発する悲鳴やウーウー唸るサイレンが耳に入っても、一人暮らしを始めたばかりの頃にフライパンいっぱいの鶏肉を焦がしてしまった時の何十倍も焦げ臭い匂いが鼻腔に届いても、1月という時期に不釣り合いな、熱帯夜をも上回る熱を感じても、気にせずただただ眠り続けた。




 目が覚めた時には病院のベッドに横たわっていた。


「気が付かれましたか」


 目井さんがほっとした笑顔で覗き込んでくる。


「…何ですかこの状況」


「覚えてらっしゃいませんか? おたくのアパートが火事になって、あなたのお部屋も焼けてしまったんですよ」


 言われて、あの夢うつつに感じた騒ぎはそういうことだったのかと理解する。

 もっと動揺したり嘆息したりしていい場面なのだろうが、急に言われても現実感が湧かなかった。


 それにしても、頭から腰の上あたりにかけてが妙に熱い。燃えるように熱い。


「…もしかして一里間、火傷でもしてるんですか?」


「火傷… とはまた違いますね。重症ではあったんですが、治療はさせて頂いたので命に別状はありません」


「そうですか」


「で、ですね。ちょっとこちらご覧になって頂けます?」


 目井さんが示す姿見に目をやった。




 炎が映っている。

 オレンジと赤が複雑に混ざり合い、微細な火の粉を撒き散らしながら眩いばかりの明かりを灯している。


 初めは目井さんの意図が分からなかったが、よく見ると、炎の下には人間の下半身があった。

 炎とその下半身はつながっていた。

 姿見が反映していたのは、上半身――ちょうど頭から腰のすぐ上まで――が炎、下半身が人間という生物の姿だったのだ。

 そして、一里間はその生物の身につけているズボンに、ひどく見覚えがあった。




「…これ、一里間ですか?」

 問うた声は震えていた。あれほど熱かったのに、スーッと全身の体温が下がっていく気がした。


「ええ、あなたです。火事の現場から助け出されてうちに運び込まれた時には既に上半身は炎に包まれてらっしゃって、皮膚とお肉は焼けてなくなってしまっていました。

 ですが、骨や内臓や脳はまだ火が達していなくて無傷だったので防火加工をさせていただきました。これでもう大丈夫ですよ。これからは炎があなたの皮膚やお肉の代わりに体内のものを保護してくれるので。

 ただ、その上半身は普通の炎同様、水に触ると消えてしまうので雨の日なんかはこの防火加工されたレインコートを着ていただいて…」


「ま、待って! どういうことですか!」


 こともなげに理解の範疇を超えた説明をされてやっと動揺した一里間は慌てて目井さんを遮った。


「えー、つまり中身を防火加工させていただきまして…」


「治療法やら何やらの話ではなく! 何なんです! なんで生きているんです!?」


「身体の内容物に防火加工を施し…」


「だから!」声を荒げる。


「何故こんな奇異な状態にしてまで生かしたんですか!? 普通、ここまでなっていたら諦めるでしょう!」


「そうなんですか? 私はどんな状態でも命を諦めるなんてことできませんが」


「人をこんなわけの分からない状態にしておいて、今後どう生きていけと言うんです⁉︎」


「身の回りのものを防火加工させていただいて…」


「そうではなくて!」


 激昂した。途端、冷めていた体温が一気に上昇したように感じた。

 新たな上半身となった炎が膨れ上がり、意思を持った獣のように目井さんに襲いかかっていく。


 ダメだ、やめろ。


 反射的に思ったと同時に、炎は元の大きさに戻った。


「そうそう、感情によって炎の大きさや色が変化する場合もありますよ。今見た限りご自身でコントロールしていただけるようですがね」


 何事もなかったように続ける目井さんの白衣はしかし、右の袖口にまだプスプスと音と煙を上げる黒い焦げ跡がくっきりと付いていた。




 一里間がやったんだ。たった今。もし、冷静になるのが少しでも遅かったら目井さんに火傷を、あるいはさらに酷いことを…


 たまらなくなって、レインコートを着て上半身を隠し、病院から逃げ出した。




 それから数か月、一里間はアパートに引きこもり続けていた。

 

 目井さんはあの日、逃げた一里間を追いかけてきてまで一里間の新しい住居としてここを教えてくれた。


 既に防火加工済みの内装や家具はもちろんのこと、身体の炎を維持し続けるために通常の食事(水分のない乾燥したもののみ)だけでなく火を摂取しなければならなくなった一里間のために大量のライターも用意されていた。深呼吸のように息を吸うと、火を体内に吸収できるようになっていた。


 でも、謝罪もお礼もできなかった。

 命を救ってくれた人に取り返しのつかないことをしそうになった。なんて最低な人間なんだ。

 そう思ったら、言葉が出なかった。謝る権利もお礼を言う権利もない気がした。


 仕事も辞めてしまい、誰とも会わず、一人で過ごした。

 罪悪感と羞恥心が、内心に渦巻き続けていた。

 泣きたくても泣けなかったのは、涙腺が焼失したからというだけの理由だったのだろうか。


 つけっぱなしのTVからは、首斬りスパロウは茶色を基調とした服装と、小学校低学年の子どもほどの小柄な体躯が雀を連想させることから首斬りスパロウと呼ばれるようになったのだという、この町の住人にとっては今更な豆知識が聞こえてきた。


 ああ、食糧やライターがもうすぐ底を尽きる。どうしよう…




「こんにちは」

 ドアの外から聞こえた声に、ビクッと身をすくませた。


 時々話しかけてくる、一里間よりも前から住んでいた隣の部屋の住人だ。たしか狗藤くとうとか言う名前だった。

 何度も挨拶をしようとしているのに一向に出てこない一里間を気にかけているらしく、仕事に行く際などにこうして声をかけてくるのだ。


 気にしないでほしい、見られたくないんだから。


 初めのうちはそう思っていた、けれど、誰ともコミュニケーションを取らない生活の中で、少しずつ、その声を聞くことに安心感を覚えるようになってきた。




 その日、ついに耐えられなくなった。声を聞くだけであることに。


 朝、いつものように狗藤の声を聞いた直後、窓辺へ駆けた。そして、越してきてから閉め切っていたカーテンを初めて開いた。

 ほんの数cmほどの隙間が見せる、外の世界。

 やがて、1人の人物がアパートから出て歩き去っていく背中が見えた。なぜか右腕には手錠を付けていた。


 ああ、きっとあの人が…


 まるで視線を感じ取ったかのように、その人物は振り返り… 顔を引きつらせた。


 しまった!


 慌ててカーテンを閉じた。終わった、と思った。




 そして、話は冒頭に戻る。


 どうやら狗藤は、一里間の外見を怖がったわけではなく、火事が起こっていると誤解したようだった。


 そうだよな、「普通」は…


 苦笑をもらしながらも、これ以上狗藤にあらぬ心配をかけるわけにはいかない。

 拒絶される可能性はもちろん怖かったが、玄関のドアノブを握った。長いこと触れていなかったそれは、妙に冷たかった。




「そうだったのですね… 大変失礼致しました」

 現れた一里間の容姿に最初こそは目を見開いたものの、すぐに冷静さを取り戻し、一里間のたどたどしい説明から事情を理解した狗藤は丁寧に謝罪した。


「いえ、別に、こっちこそ本当すいません…」


「でも、やっとお会いできて嬉しいですわ。こちら、私の名刺です。良ければ今後宜しくお願い致しますね」


「はあ、どうも…」

 こんな自分が何を宜しくしてあげられるだろうかと疑問に思いつつ、防火加工されていないものでも気を付ければ燃やしてしまうことはないからと、小さな長方形の紙片を受け取ろうと腕の形状にした炎を伸ばした。


 あと1cmほどで到達する、というところで、名刺は突然黄色いバラの造花に変わった。

 何が起こったか分からずにフリーズした一里間の前で、造花はさらにハンカチやコイン、シルクハット(中から鶏が飛び出してきた)などへと次々と姿を変え、最後にやっと名刺に戻った。


 混乱する一里間に、狗藤は柔和な笑顔のまま告げた。

「私ね、最近出所したばかりの前科持ちなんですよ。窃盗しまくったあげくに人を殺しそうになったんです」


「!」


「そんな反応になりますわよね。当然ですわ。私は責められても仕方ないことをしたんですもの… この手錠もおもちゃなんですが、いつも身に付けてるんです。自分の罪を常に忘れないようにするために」


 一度言葉を切り、狗藤はまた続けた。

「ですが、盗みを繰り返すうちに気付いたことがあったんです。どんなに神経を張り詰めているつもりでも、片時もほんの少しの油断もしていないという人はいらっしゃらないんですわ。必ずどこかに隙が生まれます。

 以前はその隙をついて窃盗をしていたわけですが、今は違うことに利用しています。マジックです。隙をついてタネを仕掛ければ、突然不思議なことが起こったように見せられるんです。

 自分の力はもう誰かを悲しませたり殺したりするようなことじゃなく、誰かを笑顔にすることに使いたいんですの」


「…」


 一里間に黙って見つめられ、我に返った狗藤は焦ったように「あ、いえ、犯罪者のくせに偉そうなこと言うなとか、そんな簡単なことじゃないとか真面目にマジックやってる方に失礼だとか思われても無理はありませんし、マジックもまだまだ初心者ですし会社の人何人かに披露したことがあるくらいなのでまだまだアレですが…

 もしかしたら自分では良くないと思ってしまっていることも違う風に使えるとかそういう考え方もできるかもしれない程度に思っていただけるといいかなと個人的に思っただけですわ… お邪魔致しました」と言い訳のように早口で言い、抱きかかえた鶏に「帰りますわよゴールデンエッグさん」と話しかけてそそくさと去っていった。名刺を近くのテーブルに置いて。


 前科なんていう、自分なら決して口に出さないような本当のことを、あの人は一里間のために教えてくれたんだ。




 そんなことがあってからまたしばらく経った6月上旬。

 狗藤は一里間の部屋に来ていた。


「どんな感じですの? 消防士さんの試験」


「やっぱり難しいですね、頑張るとは決めましたが、たまにものすごく自信なくすことがありまして…」


「簡単ではありませんわよね… 私も何か力になれることはしますわよ。

 でも本当にご立派ですわ。炎を吸い込める体質を活用できる上に、ご自身のように火事で大変な思いをする人を救えるお仕事に就きたいなんて」


「狗藤さんのおかげでそう思えたんですよ。まだ人目は気になりますしこれからのきせつは嫌われ者になりそうですが… ところで、なんですがね」


「?」


「変なことなんですが、目井さんのところに行くのに同行していただけませんでしょうか? あの時、白衣焦がして申し訳なかった、救ってくれたのにお礼の一つも言わないで申し訳なかったと… 情けないんですが、1人だと勇気が出なくて…」


 狗藤は笑って応えた。

「ええ、もちろん」

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