第四十九話 スーパーカブと私
進路指導担当の教師は、小熊が提出した書類の内容をもう一度確認した。
「本当にそれでいいの?」
「はい」
小熊は特に迷うことなく返答する。つい先ほど進路指導室前の廊下で済ませた書類への記入は、既に自分の中で決まっていたことの確認に過ぎなかった。
決まったのは、つい最近。
教師は書類に添えられた学生寮の資料を摘み上げながら言う。
「こんなにいいお話はそうそう無いと思うわ。多摩の里山が一望できるマンション寮。デザイナーズブランドの家具にIHキッチン。光回線に洗濯乾燥機。おまけに光熱費は定額。先生の住んでるマンションよりずっといい場所よ。自分で借りたらどれくらいの家賃を取られるか」
それがどれほどの価値のあるものかは、とっくにわかっている。でも小熊は自分にとってもっと貴いものを知ってしまった。
「バイクに乗れませんから」
小熊はが独自に調べたマンション女子寮のバイク禁止規則は、イヤになるほど徹底されたものだった。近隣に自費で駐輪場を借りようと、バイクに乗っていることがバレた時点で退去となる。
新設の公立大学。その寮管理を一括する部署の中には、よほど我が校の女子かくあるべしというイメージに固執している人間が居るらしく、バイクを始め、公共スペースでのスマホ使用や飲酒喫煙、ファストフードやインスタント食品、清涼飲料の自室外での飲食、門限破りや届出の無い外泊が禁じられ、他県への外出にすら届出が必要だった。
カブに乗っていればそんな禁則など初日に全て破ってしてしまうだろう。少なくとも都県境すら跨がず夕飯までに帰ることしか出来ない自由は、小熊にとって牢獄の金網に囲まれた運動場と変わらない。
きっとこの規則を作った人間は、我が大学の寮に住まう女子には屋根裏暮らしの小公女であることを求めているんだろう。
小公女だってカブに乗るようになったら屋根裏から工具の整ったガレージに引っ越す。
「自力で住む場所を探すのは、あなたが思うよりずっと大変なことです。保証人も資力も無い人間が賃借できる部屋なんてほとんどありませんよ」
「何とかします」
小熊は高校生活の残り時間を費やして、カブを保管し整備できる場所を備えた住処を見つけることにしていた。カブに乗ることで生まれた人間関係で少々のコネもある。
受験に合格すれば春から千代田区の大学に通う予定の椎は、既に世田谷にある父親の知り合いが所有するマンションに住むことが仮決定していて、その部屋に小熊が転がり込んで来ると思い込んでいる椎は、もうお揃いのパジャマやカップを買っているらしい。
小熊が高校二年の時に修学旅行のバスをカブで追いかけて以来の顔見知りで、小熊の性根を多少なりともわかっている教師は、半ば諦めたような顔をしながらも、自分の義務だけは果たすように念を押した。
「もう一度言います。今あなたが、たった一つのことを我慢すれば、あなたは今までとは大きく異なる、安定した幸福な暮らしが出来ます。今のあなたにとってオートバイというものは便利な道具でも楽しいおもちゃでもありません。あなたを押し潰す重荷です」
小熊が今カブを自分の生活から切り捨てれば、きっと春から何不自由ない暮らしが出来る。でも、もしそうすれば、これから先も自分の大切な物に同じ事をする。カブの維持くらいで膝をつくような人間には、きっとこれから先の人生で、心から欲した物を手に入れらない。多くを望まず自分の手に届く物だけで満足する。それは小熊自身にとって許せるものではなかった。小熊は教師の目を正面から見据えて言う。
「承知で担ぐ荷物は重くない」
教師は理解できないといった顔で、小熊に問うた。
「あなたの乗っている、スーパーカブというバイクは、一体何なんですか?ただの乗り物でしょ?機械は友達にも恋人にもなれないわ」
小熊は高校三年になって間もない頃、カブの維持を迷い始めていた時からずっと、そのことについて考えていた。今は答えがある。
「カブはお金を払えば誰にでも買える。私のカブもいい値段をつけてくれれば、いつでもお売りしますよ。でも私はそのお金で、きっと新しいカブを買う」
教師は諦めたように書類を引き寄せた。もしかして最初から結果はわかっていたのかもしれない。目の前に座る地味で目立たない野辺に咲く花のような少女は、こういうふうにしか生きられない、アスファルトを割って咲く花だということを。
教師は最後に進路指導担当としてではなく、個人的な興味を抱いたような顔でもう一つ小熊に質問した。
「そんなにカブが大事なんですか?」
小熊は首を振った。去年の初夏にカブを買って以来、ないないの女の子だった小熊にカブがもたらしてくれた物は数え切れない。それはカブに乗るようになったから、カブに乗り続ける自分で居続けたからこそ手に入ったもの。
「大切なのは、カブに乗る私です」
それは宝石にように大切で愛おしく、何物にも代えがたいもの。
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