第三十一話 テクニック
一時間ほどの休憩が終わり、小熊と礼子は再び二台のクロスカブで走り出した。
六合目からのブルドーザ登山道はそれまでの道と同じくくらいの勾配だったが、だいぶ走りやすい。
特に均等な砂利で整備したわけではない山岳業務用道路の状況は、富士山が本来持つ地形や地質によって大きく変わる。
五合目からここまで走ってきた時にはタイヤに食らいつくように進行を阻んだ
礼子はクロスカブのパワーとオフロード走破能力を存分に発揮できる機会にご機嫌な様子。ダートレーサーのような勢いで先行したキャタピラ車を追い抜いていく。
小熊はこれでは撮影どころじゃないだろうと思いながら、慎重なスピードでクロスカブを走らせていたが、走り去る礼子の背を見ているとついスロットルを開けたくなる。
思わず街中の舗装路を走っている時の気分で、ここではほぼ意味の無いスピードメーターに視線を走らせたが、口と顎のところにガードの付いたオフロードヘルメットのせいで視界が遮られ、下を見ないとメーターを確認できない。
スーパーカブに乗る人間がフルフェイスヘルメットより、顔面がオープンになっているヘルメットを被ることが多いのは、過剰装備が気恥ずかしいのではなく、通常のオートバイよりも下寄りにあるメーターが見えないから。
もっとも礼子のように速度超過など気にしない人間は、カッコいいからという理由で普段からオフロードタイプのフルフェイスヘルメットを被っているが。
礼子を追ってスピードを上げた小熊が、撮影の被写体になるという仕事を思い出してスロットルを戻そうとすると、ヘルメット内のスピーカーから声が聞こえてきた。
「そのまま」
せっかくの良好な路面。撮影スタップの乗っているキャタピラ車を颯爽と追い抜いていくカブというのもいい絵になるんだろうかと思った。どうやらこのクロスカブを本気で走らせていいらしい。小熊はスロットルを開けた。
小熊がキャタピラ車の横を走り抜け、順調にクロスカブを走らせていると、先行していた礼子の背が近づいてきた。速度を落としている。
追いついていくに従い、理由がわかった。さきほどまで平坦だった路面が、再びごつごつした走行困難な道になりつつある。礼子はクロスカブのシートから尻を浮かし、厄介な障害物となった石礫をひとつひとつを突破している。
小熊も礼子を真似るように石の凸凹を乗り越えていると、速度を落としていた礼子がクロスカブを停止させた。小熊も礼子に並ぶように停める。
クロスカブに跨ったまま前方を見ている礼子の前に、干上がった川のような溝が出来ていた。塹壕や国境線に掘られた戦車を停止させるための対戦車壕にも見える。
溝はブルドーザ道を横断していて、うまく渡れそうな場所は見当たらない。キャタピラ車が追いついてきた。
背後から撮影しているカメラの目を意識したのか、礼子は意を決したように溝に挑んだ。平地でもまっすぐ走るのがやっとの路面で、溝の底にクロスカブを突っ込ませ、その勢いで溝の向こう側に駆け上がろうとしている。
途中で力尽き、クロスカブごと溝の底にずり落ちた礼子は、借り物のクロスカブを拳で叩きながら言った。
「わたしのハンターカブなら登れてた!」
確かに礼子のハンターカブは同じ110ccながらクロスカブを大きく上回る馬力だが、あちこちに改造が施されたハンターカブでここまで来られたかどうかは怪しい。
悪戦苦闘する礼子を溝の上から眺めていた小熊は言った。
「このカブでも行ける」
溝の底でクロスカブのシートに座り込んだ礼子はヤケになった様子で言った。
「そこまで言うのなら小熊さんのスーパーテクニックを見せてもらいましょうか?」
撮影スタップのカメラが自分に焦点を合わせているのがわかる。それが少々煩わしいが、まだ先の長い富士登山、こんな事で躓くわけにはいかない。
小熊は溝の後ろに下がって助走距離を確保した、それからクロスカブを加速させて一速の高回転を維持し、溝に突っ込む。
溝を駆け下り、底についたクロスカブはそのまま溝の斜面を登っていく。そこまでは礼子と変わらない。礼子のクロスカブと同じように斜面の途中で失速する。そこで小熊は礼子がやらなかった事をした。
礼子の失敗を見るまでもなく、路面の構造と状態、そしてクロスカブの性能を考えれば思いつく、とても簡単なこと。
小熊はクロスカブを降り、そのままスロットルを回しながらカブを手で押して坂を登った。
さっきまで難物だった坂は、小熊一人分の体重を取り除いただけで、あっさりと登ることが出来た。
礼子が「ズルい!」と言う声が背後から聞こえたが、礼子はこの溝の底でクロスカブと共に暮らし続ける積もりは無いらしく、小熊を真似てクロスカブを手で押しながら登ってきた。
カブを押して少し疲労し、キャタピラ車に先行しすぎたので、二人で溝を越えた先にクロスカブを停めて待つ。キャタピラ車はV字の断面を持つ溝を、ゆっくりながら器用に通過していた。この山岳用キャタピラ車やブルドーザの原型となった戦車という兵器は本来、こういうことのために作られたらしい。
走行を再開させたところ、今度は畝のような盛り上がりがブルドーザ道を横断している。助走をつけて登ってみたが、走行するとごろごろした石が繰り返しタイヤに衝突することで勢いを削ぐため、登りきることは出来ず後退する。
今度は礼子のほうが早く突破法を思いついた。一台のクロスカブを二人で持ち上げ、そのまま歩いて畝を越える。
今まで日本が何度か見舞われた大震災の時、原付二種は被災地の足として活躍したらしい。
オートバイ初心者にも扱えて、自転車や五〇cc原付に積めない重荷や人間を載せて長い距離を走れるという理由もあったが、それだけでなく原付二種は、四輪駆動車や大型オフロードバイクにも突破不可能な瓦礫の障害を、車体を人力で持ち上げることで通過出来る。
壊れたりして自走不能になった時も、引き上げるのにトラックとクレーンが必要か、軽トラやリアカーに人力で載せて持って帰れるかどうかで被害の程度は変わり、それはサバイバビリティに直結する。
1960年代にスーパーカブとモンキーで構成された登山チームが富士山登頂を成功させた時も、道中のあちこちでカブ降りて押し、時に担いで登った。
スーパーカブの世界的な実用車としての実績と性能の一端を伺わせる話を、礼子はいまさら思い出したらしい。
女の子が可愛いクロスカブで頑張って山登りする場面を撮りたかったであろうスタッフには、二人でえっほえっほとカブを持ち運んでいる姿がどう見えているんだろうかと思った。
その後は走りやすい路面のまま、七合目に到着する。薄くなっていく酸素の影響か、礼子の顔が厳しくなっていくのがわかった。
ここから、富士登山の真骨頂が始まる。
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