第二十七話 二人の富士
前にここに来た時も、眼下に広がる風景を眺めていた気がする。
あの時は確か修学旅行のバスを追いかけて鎌倉まで行く途中だった。神奈川県を目前に控えた御殿場に着いた時点で、何度かの寄り道をする修学旅行バスを追い抜いてしまったので、時間調整を兼ねた暇潰し気分で来たが、須走の長く険しい坂をカブの全力を振り絞って登った小熊は、ささやかな達成感と共に裾野の景色を楽しんだ。
今は少し違う。五合目の広い駐車場の端に立って麓を見下ろしていたのは、後ろにあまり見たくない物があったから。
小熊の背後には、三七七六mの壁が聳え立っていた。
これから小熊は、カブで富士山の頂まで登る。
試験休みと形だけの登校日が終わった頃、小熊の携帯に礼子からの着信があった。
「今ヒマ?」
都合を聞いておいて、忙しいと言って切る暇を与えないのは変わらない。礼子は夏の計画について一方的にまくしたてた。
「カブで富士山を登らない?」
小熊は迷わず電話を切った。
礼子が去年の夏を費やし、富士山ブルドーザ登山道の踏破に挑んでいたことは知っている。あの時の郵政カブからハンターカブに乗り換えた今年、頂上まで到達できなかった挑戦のリベンジを企んでいることも。
小熊が去年の夏、礼子からその話を聞いた時は、礼子がカブのパワー不足と自身の高山病で力尽きた経緯を聞き、自分のカブなら登れていたと見栄を張ったが、だからといって今年の夏に登ろうと言われてそうですかと承諾するわけにはいかない。
大学進学に向けた奨学金の給付手続きは概ね終わり、指定校推薦も無事受けられそうになったことで、夏休み中の雑事はようやく一段落したが、まだまだやる事は多く、そんな遊興にかまけている暇は無かった。
小熊が一度切った携帯に数秒でかけ直してきた礼子が話す内容に、小熊の耳が少しだけ奪われた。それがよくなかったのか、結局最後まで話を聞いた。
説明の最後に付け加えた言葉に釣られた小熊は、流されるままに承諾の返事をしてしまった。
「これはいいバイトになるわよ」
数日後、小熊と礼子は甲府にあるホテルの一階ティーラウンジで、ある人物と会っていた。
真夏だというのに長袖のライディングジャケットにデニムパンツ姿の女性を見て、小熊は実際に走ってはいない人間だということがわかった。
どこにも傷のついていない革ショートブーツや、まだ風雨にさらされたことの無さそうなジャケットを見るまでもなく、握手の時の柔らかい掌は、日々バイクに乗り、整備し、スタンド架けや引き起こしで力を絞っている手ではない。
差し出した名刺によると、東京の出版社が発行するオートバイ雑誌の編集者だという。
その編集者の話によると、彼女は取材先のバイクショップを通して耳にした、去年礼子が挑んだ富士山登頂に興味を持ち、伝手を辿って礼子に連絡してきた。うちの雑誌社による全面的なバックアップで、登頂を成功させてほしい、と。
今年も富士山に登りたいが、事前準備や資金作り等の面倒事を先送りにしていた礼子は、渡りに船といった感じで了承した。
それからのメールでの何度かの打ち合わせの末、礼子一人だけでは記事としての見栄えに欠けるということで、一緒に富士山を登ることが出来る女性ライダーの選別を頼まれた礼子は、迷わず小熊に連絡してきた。
当然断るであろう小熊の首を縦に振らせる方法も、礼子は今までの付き合いでよく知っていた。遠慮というものを知らない礼子は小熊の携帯を鳴らす前に、女性編集者にしっかり確認した。
この記事に協力すれば、高校生にとって結構な額になる謝礼が支払われるという事。
結局、礼子の目論見通り、小熊は真夏の富士山まで来てバイクで山登りをすることとなった。
自分のカブを出すまでもなく、家まで取材車がお迎えに来て、弁当まで出されるのは悪い気分ではなかったが、この服装だけはどうにかならないものかと思った。
編集部が用意したのは、礼子と揃いの派手なモトクロスジャケットとライディングパンツ、ブーツやヘルメットまでもがどぎつい赤青白のトリコロールカラーにペイントされている。
登山者や観光客の姿をちらほら見かける五合目でこんな格好をさせられるのは、見世物もいいとこだと思ったが、取材車の後部ゲートが開き、小熊や礼子よりも大事に運ばれてきた荷物が下ろされたので、意識をそちらに切り替えた。
ホンダ・クロスカブ
小熊の乗っているスーパーカブと基本構造は同一ながら、電子制御された110ccのエンジンとオフロード用の装備を付けた、全地形対応型のカブ。
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