第十八話 紙切れ
テーブルの上にある紙片と、向かいで自分を見つめてくる礼子。どっちを見ればいいのか迷った小熊は、手を上げて店員を呼んだ。
「鳥もつ定食をください」
用心棒の三十朗を気取って飯を食べながらよく考えようというわけでも無かった。正直なところ目の前に居る自分自身の将来という大事を決定できない奴を見ていると、月単位の食費や残金のような些細な事を気にするのが馬鹿らしくなった。礼子も真似るように同じ物を注文する。
すぐに届いた定食を食べながら、小熊は礼子に聞いた。
「高校を出て、何になりたいの?」
醤油で煮詰めた鳥もつを頬張っていた礼子は窓の外を見る。視線の先には赤いハンターカブがあった。
「何にもなりたくない」
礼子は小熊から視線をそらしたのか、それとも正面の表情よりも人の内面を表す横顔を小熊に見てほしかったのか。少なくとも今の礼子の目には、小熊も鳥もつ定食も、窓の外の世界すら映っていない。
「わたしはカブで走り続けたい」
小熊はお茶のおかわりを貰い、一口飲んで答える。
「わかりにくい」
俯いて考え込んだ様子の礼子は、自分のカブに答えを求めるように再び窓の外を見た。それから自身の中でもよく整理出来ていないことを手探りで組み立てるように呟く。
「少なくとも私は『趣味は週末にカブに乗ることです』なんて女になるのは絶対イヤ」
小熊にはまだよくわからなかったが、たぶん礼子はわかっている、ただ口から言葉に出来るような形になっていない。それを理解できるのは教師じゃなく、もっと近い立場に居る相手。
その役回りが自分になるのははっきりいって面倒くさかったが、まぁ貸しもあるけど借りもある相手なので、黙って話を聞く。
「私のカブは生活の道具じゃない。仕事の片手間に乗るものじゃない、趣味なんかじゃない」
礼子は感情的な目で小熊を見て言った。
「私はカブに乗るために生きている」
小熊は白い紙を指しながら言った。
「これにそう書ける?」
礼子の視線が落ちる。書けるわけないし言えるわけない。きっと誰にも理解出来ない礼子の望み。
礼子はついさっき、進路指導室で行われたやりとりを思い出しながら答えた。
「まだ何も決められない、先生にはそれくらいしか言えなかった。今月中にに決めてくるようにって言われた」
ここまで話を聞いても、小熊には礼子の言うことや考えていることがよくわからなかったが、わからないものへの対処ならカブに乗っていれば少しは覚える。今まで走ったことのない道。経験したことの無いトラブル。そんな時に自分はどうしたか、礼子ならどうするか。小熊は進路希望用紙を摘み上げた。
「この紙は何?」
礼子は自分を苦しめる紙切れを忌々しげに見ながら答えた。
「進路を書く紙」
「違う」
小熊は進路を記入する項目より上の段にある、書類の表題部分を指しながら言う。
「これは進路を知りたい人間を、納得させる内容を書く紙」
礼子が少し答えを得たような顔をした。
「正直に書くなってこと?」
カブに乗っていても登録や許認可で書類を作成し提出することは多い。それらをスムーズに受領、処理して貰うために、全てを事実の通り書くことが最善とは限らない。
「嘘、建前、時間稼ぎ。後でバレても命を取られるわけじゃない」
礼子の表情が明るくなった。小熊の知る限り礼子がもっとも活気あふれた状態になる悪だくみをしている時の顔。普段はあまり見たくないが、さっきまで礼子が見せていた、せっかくの蕎麦と鳥もつが不味くなるような顔よりはマシだった。
「何て書こうか?」
「自分で考えて」
その後、小熊と礼子は二人して、何とか教師を騙す方便を思案した。後でいかようにもなる曖昧で婉曲な用語として留学準備という答えを捻り出した礼子はご機嫌な様子で、小熊は帰り道を飛ばしまくるハンターカブを押さえるのに苦労させられた。
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