第十四話 トートバッグ
小熊は帰り道で甲州街道の事故渋滞に引っかかった。
家に帰って夕飯の支度をするのが面倒になり、甲府昭和で旧道に入ったところにある、名物の鳥もつ煮込みを観光客向け値段じゃない価格で食べられるトラックドライバー向けの食堂で食事を済ませたせいで、地元の北杜に着いたのは、もうすぐ夜十二時になろうという時間だった。
中学生くらいまでは、こんな夜遅くに自分の家の外に出るなんて考えられなかった。あの頃は未知だった夜の世界も、今では通勤の混雑が去った後の快適な走行が出来る道路。自分の世界の一部。
高校生が夜遅く出歩いていると問題になる補導というものも、以前なら自分が道を踏み外した犯罪者になってしまうかのような恐怖を覚えるものだったが、原付に乗るようになって、警官からの獲物を狙うような目に慣れて以来、面倒だとは思うが交通違反のような金銭や点数の実害は無いものと割り切っている。
こんな皆が寝静まっている夜中でも、人々や車で混雑している世界があるんだろうかと思い、小熊は走ってきた道を振り返った。この先、東京の中心ではそうなんだろう。来年から暮らすことになるかもしれない場所。そこからならカブで見に行ける世界。
別に今からでも不可能じゃないと思った小熊は、ガソリンの残量と明日の睡眠不足のことを考え、そのまま日野春の自宅アパートまでカブを走らせる。
十二時を少し過ぎた頃にアパートに帰り、シャワーを浴びてベッドに入った小熊は、日付けでは昨日になる数時間前に見た南大沢の街について考える間もなく眠りに落ちた。
翌朝、焼かない食パンにピーナツバターを塗り、缶詰のサーモンパテを乗せた朝食をインスタントのカフェオレと共に食べた小熊は、カブに乗って学校へと向かった。
駐輪場には水色のカブがある。進級してしばらくは妹の登校に付き添っていて遅れがちだった椎は、自転車通学だった頃の登校時間に戻った様子。
小熊は椎のリトルカブを観察した。まず駐輪場の柱にしっかりワイヤーロックを掛けていることを確かめ、それから後部荷台の上に起きた変化に気づいた。
小熊がプレゼントし、椎はあまり気に入っていなかったらしきプラスティック製の資源ゴミ回収ボックスは、別の箱に取り替えられているように見えた。
よく見ると箱はそのままで、全体に布製のカバーがかかっている。帆布と呼ばれる分厚く固い木綿布で、生成り色の生地に水色の細いラインが入っている。
興味を駆られた小熊が近寄って見たところ、ボックス全体を特大のバッグで包むような形になっているらしい。ボックスは太径の結束バンドで止めただけなので、たぶん一度外して帆布バッグを被せ、もう一度荷台に着け直したんだろう。
指で触れると皮膚が擦りむけそうに固い帆布バッグは、小熊もネット通販サイトやアウトドア用品店で見覚えのあるものだった。トートバッグと呼ばれるシンプルな手提げ袋。LLBeanというタグが付いている。
資源ゴミのボックスを丸々呑み込んだトートバッグは、小熊がアウトドア用品店やリサイクル店で見慣れたものより一回り大きかった。上部がオープンな普通のトートバッグと違い、丈夫そうな真鍮のジッパーで閉まるようになっている。
北米資本のアウトドアメーカーLLBeanによって作られているグッズには、日本では発売されていないバージョンやサイズ、オーダーメイド品が多数あり、ネットの普及以前から海外通販を積極的に行っているLLBean製品は、多少の英語力があれば日本での入手も可能だと聞いたことがあった。
後部ボックスの便利さを実感しながらも、美観には納得していなかった様子の椎は、ボックス全体にジッパー付きトートバッグを被せることで折り合いをつけたらしい。
スカイブルーのリトルカブを含め、身に着けるものは水色の多い椎のために小熊はカブと同色のボックスを見立ててあげたが、リトルカブの後部ボックスを見た小熊は、椎のことで一つ、今まで意識していなかったことに気づいた。
椎は制服には水色の小物、私服ではセリエAラツィオのジャージ等、水色の服を好むが、水色の服に水色のインナーを合わせることは無い。
上に着るものが水色の時は、下に着るシャツは白や椎が水色の次に好きらしいグリーンを選ぶことが多く、その下に着けているものもパンツは水色ならブラは白、あるいはその逆。
椎のことをもう一つ知った気になった小熊は、少し離れて椎のリトルカブを見た。水色のリトルカブの後部に生成りのトートバッグ。センスのいい取り合わせ。小熊のあげたボックスもトートバッグの芯材くらいには役立っている。
ボックスの上面に蓋が無いため、中の荷物が丸見えで風雨に晒されるボックスを、ジッパー付きトートバッグで蓋つきにするという合理性も備えていた。
防犯や盗難防止には、鍵だけでなく中身を見えなくすることが重要で、車上荒らしが多発しているイタリアで作られた車は、今でもカーステレオを覆うカバーが純正装備されている。
ひとしきり椎のリトルカブを観察した小熊は、自分のカブを椎のリトルカブに寄せて駐めた。なんとなく椎の感性や内面を表すカブを自分以外の人間に見られるのがイヤだった。
カブを降りた小熊が、匿名性の重視という自分なりのセンスに合わせた物だと思っているスチールボックスからディパックを取り出し、ヘルメットを収納したところで、最も椎のカブを見せたくないと思っていた奴が、騒がしい音をたててやってきた。
椎のリトルカブを小熊のカブの逆側から挟むように自分のハンターカブを停めた礼子は、やっぱりリトルカブの後部ボックスに気づき、辺り憚らぬ声を出した。
「このトートバッグ!オフホワイトに水色のラインってしいちゃんのパンツと同じ柄じゃない!」
言うだけでは飽き足らず、椎のパンツ柄のトートバッグをいじくりまわそうとした礼子を、もうすぐ予鈴が鳴るからと言って引っ張りながら、教室に向かった。
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