第2話 大波乱の確信
予定の一ヶ月後はおもったよりあっけなく訪れた。借家となるこの家に住む家族も決まり、家具やらの大きな荷物はほとんど引っ越し先へ送ってしまったから、残すは手で持っていく荷物と、我が身といったところである。
玄関先で家族と共にいた七世は、父がからっぽになった家に鍵をかけるのをじっとみていた。
「よし、借り主さんにはもう鍵を渡してあるから、これでいいな」
しっかりと鍵がかかっているのを確認したあと、父は感慨深げに家を見上げた。やはり十数年過ごした家であるから、思うところも多いのだろう。
「伸一さん、タクシーがきたわ」
母がちょうど家の前に止まったタクシーを見て言った。
「あぁ」
「えー! おれ、もうちょっと兄ちゃんといたい!!!」
叫んだのは、駄々をこねるように頬を膨らませた出雲だ。七世は低く屈んで、小さな弟と目線を合わせる。
「そういうなって。出雲もおっきくなったら、兄ちゃんと一緒に住めるかもしれないんだぞ。それまでの辛抱だから、な?」
「…………」
うつむいて尚も不機嫌そうにするも、出雲はこくりと頷いた。七世は微笑み、出雲の頭をゆっくりと撫でてやる。
「さ、行くか。…………七世、」
呼ばれて、七世は父の方を向いた。
「頼むぞ」
「………うん」
たったそれだけだったが、七世には十分だった。
「七世くん…………」
母がこっそり近づいてきた。なんだろうと思うと、母が手に何か箱を持っていることに気付いた。
「これね、時計よ。伸一さんから。彼、ほんとは自分でこれを七世くんに渡すつもりだったんだけど、今日いきなり私が渡せって。恥ずかしくなっちゃったのかしらね」
七世は父の方をはっと見た。今はこちらに背を向けているからわからないが、きっと頬は赤くなっているに違いない。
「それでね、これは伸一さんのだから、私も何か渡そうかなぁと思ったの。でも用意できなくて………だからね」
そこまで言って、母は七世をぎゅっと抱き締めた。そのまま背中をぽんぽんと叩かれる。一瞬何が起こったかわからなかった七世も、一度ぽんと叩かれる度にじぃーんと胸に広がる何かを感じ、気づけば自分でも母をそっと抱き締めていた。
「いってらっしゃい」
「うん。…………いってきます」
「あー! 母ちゃんいいな、おれも!」
すると出雲がててててっと駆けてきて、その小さい腕を目一杯伸ばし、ぎゅっと二人に抱き付いた。七世は目を細めると、そっとその背中にも腕をまわす。
しばらくそれを眺めていた伸一は、少しして由利江のこちらに向ける視線に気が付いた。苦笑つつもそのままでいると、今度は七世もこちらをじっと見てきた。
伸一は、すでに大きくなった我が子の幼い一面を見たことに少し驚いた後、微笑んで、ゆっくりと、家族のもとへと近付いた。
「父ちゃんもだー!」
嬉しそうな出雲の声が聞こえた直後に、七世の背に、大きくてあたたかい掌が添えられる。いつか、この手に追い付けるようにと願いを込めて、七世は腕にぎゅっと力を込めた。
「長期休みにはこちらにも顔を出す。頑張れ、七世」
「兄ちゃんがんばれ!」
「七世くん、何かあったらすぐ連絡ちょうだいね」
「…………うん、ありがとうみんな。元気で。」
抱き締めあっていた家族の輪がするりとほどけた。なんだか寂しいような気がして、七世はほんの少しだけ胸が痛くなった。
「じゃあな」
父の言葉を皮切りに、七世を除く一行はタクシーに乗り込み始めた。荷物もトランクに積み終え、人も乗り込み、ドアが閉まる。ブルルンというエンジンの音が軽快に響いた。
やがて車は動き出した。後部座席から出雲が大きく手を振っているのがわかった。七世も負けじと手を振り返す。
「気を付けてー!」
叫んだ言葉が届いたのだろうか。父がこちらに手を軽くあげたのが見えたところで、車は角を曲がり、完全に見えなくなった。
「………いってらっしゃい」
だんだんと遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、七世は微笑んだ。
「このへんだったはず…………」
七世はアパートのまでのナビを設定したスマホを片手に、服やこまごまとした荷物が入ったスーツケースを転がして歩いていた。
アパートの大家、つまり七世のはとこの希望で、七世はいまだにアパートを訪れたことはない。せめてあいさつだけでもと思ったが、従姉は想像以上に忙しいらしく、やんわりとだったがそれすら断られたのだ。また七世自身もテストやら引っ越しの準備やらで手が回らず、結果的に従姉とも、これからの住まいともまだ会えずじまいなのだった。
何個目かの角を曲がったところで、七世は前方に小綺麗な二階建てのアパートを見つけた。新築という感じはしないものの、建物を囲う低い垣根や、庭にある花壇がきちんと手入れされている。
七世はゆっくりと近付き、磨き抜かれた表札の文字を確認した。「さくら荘」。ここだ、と七世は呟いた。
「あら、あらあら? 君ひょっとして七世くん?」
名前を呼ばれて七世は顔を上げた。一階のひとつのドアが開き、そこから一人のおばさんが顔を出している。七世には見覚えのない人だった。
「はい、そうですが………」
疑念を抱きつつも答えると、見知らぬおばさんはぱっと顔を輝かせた。まさかこの人がはとこだったりして、と七世の頬を冷たい汗が伝う。
「私ここ、一階に住んでる田原! 田原加代子かよこよ。櫻木さんから聞いてるわ、あなたのこと。はとこなんでしょう?」
「あ、はい、そう、そうです。櫻木さんとはとこで」
はとこの名である「櫻木」が出て来て、七世はほっと肩を撫で下ろした。
「出掛けていらっしゃいますかね?」
「今ならきっと部屋にいるわよ。二階の、一番端」
そういって田原はアパートの一番奥の扉を指差した。
ありがとうございます、とお礼を言って、七世はさっそく外付けの階段から二階を目指した。階段はよくある鉄製のものだったが、錆びなどは見られず、綺麗に塗装してある。どうやら七世のはとこは、よっぽどきちんとした大家のようだ。
カンカンと小気味良い音をたてて二階に行くと、七世はなんとなく表札をみながら歩を進めた。はとこの部屋のひとつ手前、つまり奥から二つ目の部屋だけ表札がなく、七世はもし二階にはいるのだったら、自分の住まいはこの部屋になるのだろうなとぼんやり考えた。
一番奥の部屋のドアには、「櫻木」と書かれたプレートが打ち付けられてあった。間違いない。七世は空いた右手を軽く握ったり開いたりしたあと、慎重にインターホンを押した。
ピーンポーンとよくある電子音が響く。だがそれ以外なにも聞こえない。もう一度押してみる。同じように電子音が響いて、そして後には静寂だけが残った。
「え、あってるよな………」
何度もプレートとスマホにかかれている名前を見比べる七世。はとこの名前は「櫻木桜香おうか」。よくある名字ではないし、そもそもここが大家の部屋だと田原さんが教えてくれたはずだ。
七世は再びインターホンを押した。すると、部屋の中からガタン、ドンッと大きな音が続けて聞こえた。何かあったのだろうか。かなり重いものが落ちた音だった。
ひやひやしている七世に次に届いたのは、盛大な足音だった。床を踏み抜くのではないかというほど荒々しい。身構えた七世。その前で、扉が勢いよく開いた。
「…………あ………」
七世は思わず目を丸くした。出てきたのは今まで見たこともないような美しい女性。肩より長い黒髪は艶やかで、肌は雪のように白い。しかも小顔。クラスの女子がいつも言う「美女」の手本が、まさに目前にあった。年はだいぶ七世が想像してたのより若く、おそらく20代、ひょっとすると10代かもしれない。そう思うほど、彼女の雰囲気は年齢を感じさせなかった。
「………あ、あの、俺、りん……」
七世が我に帰り口を開いたときだった。
女性は息をすうっと吸い込み、そして言った。
「こんの、クソアホンダラアアアア!!!!!」
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