九
それから更に数年が経過しても、卯月と幸一は同棲していた。
ともに暮らしていなかった時には見なくてもよかった面を目にしたり、もうとっくに見飽きた顔と長いこと睨めっこしなくてはならないことなど、面倒なところは多くあった。それと同時に生活費が安くなったり、家事をやらなくても済んだりする時など、いいところも少なからずありはした。上手くいっていないともいえたが、上手くいっているともいえた。
大学院をでた幸一が講師になりある程度の収入がはいるようになったのにあわせて、卯月も社内で少なからず昇進し、生活は更に安定した。代わりに、お互いの顔を合わせている時間が減りはしたが、むしろ会う頻度としてはちょうどよくなった気すらした。
特に目標があるわけでもない暮らしを送りながら、緩やかとも慌ただしくともとれる日々の中に身を置き、自分自身が摩耗していくのを感じたり、家の中でごろごろすることに喜びを覚えたりしつつ、その場をやり過ごすような暮らしをしていた。そんな生活の中で、ボロアパートに帰った時、パソコンと睨めっこしている幸一がいると、少しだけ心が軽くなったような気持ちになり、音を立てないようにしながら、台所まで歩いていく。料理を作るのは気晴らしの時もあれば、ただただ面倒に思う時もあったが、そこに振る舞うべき相手がいれば、嫌々でも手を動かしてしまう。良くも悪くも、この暮らしに慣れてしまっているのだろう。幸一が無愛想に包丁で皮むきをしている時などに、そんなことを思った。
たぶん、ずっと続くんだろう。何年も似たような暮らしをしていたのもあって、なんの疑いもなしに卯月はそう思いこんでいた。
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だから、ある休日前の夜、目の前に青いボールペンが差しだされた時、卯月は目を丸くするほかなかった。何のつもりだろうとまたたきをしながら、卓袱台を境にして、ペンを片手にいつも以上に神妙な顔をする幸一を見返していた。
「まだ、こいつが欲しいか」
おずおずと問いかけてくる彼氏の前で、卯月は自らの心に相談する。答えはすぐに出た。
「うん」
そこにたいして価値などないと理解しているせいか、以前より興味は薄くなってはいたものの、取り戻さなくてはならないという気持ちは消えずにある。少しでも幸一の持ち手に隙ができれば、勝手に手は伸びるだろう。
幸一は目を細めながら、大きく息を吐きだしたあと、空いている方の手で額を覆った。
「そう、か」
掌で隠れてしまった彼氏の表情は窺うことができず、卯月は黙って見つめ返すほかない。
何を思っているのだろうか。珍しく、そんな考えを起こしもした。
幸一は室内灯の下で動かないままでいる。規則的な浅い呼吸を耳にしながら、卯月もまたじっと、ただなにかを待っていた。その何かは本人にもわからないままだった。
いくらかの時間が経った時、男はゆっくりと顔をあげる。その仏頂面が示している感情はいまだに判然としなかった。幸一は何かをたしかめるように瞬きを繰りかえしたあと、機械的に口を開く。
「やろうか」
その言葉を、卯月は幸一が沈黙にはいる前から、予感していた気がした。
「なんで」
反射的に答えてから、卯月は投げかけた問いに意味などないと気が付く。
「理由なんて、いるか」
彼氏の声は呆れているようにも聞こえた。もっとも、だと内心思いつつも、卯月は自然と首を縦に振る。
「しっくりこないから」
本当にそれだけなのか。卯月は自分の声にした言葉を吟味しつつ、だからといって、今、これ以上に付け加えられる事柄があるのかと考えてみると、よくわからず、この場はとりあえずのところ納得する。
その台詞をどう受けとめたのか、幸一は小さく息を吐く。
「たいしたことじゃない」
そう前置いてから、指を軸にしてボールペンを回す。かつて見せられた時よりも、どことなくぎこちなくなった運動に、卯月はどことない残念さを感じた。
「十分、手に持っていたから、もういいんじゃないかって思った。元々、そんなに大切にしていたわけじゃないし」
その言葉を、卯月は嘘だと思う。
ともにいる間に、ペンを取り戻せる、という確信が湧きあがったのは、一度きりだった。衝動に任せるままに手を動かすことを半ばしようがないと諦めかけていた卯月にとって、欲しているはずのものがそこにあるはずだったにもかかわらず、いまだに自分の手の中にないというのはおかしいことであり、そこから鑑みれば、少なくとも奪われない程度には気を張っていたというのは間違いがない。これらのことから、卯月の執着以上に、幸一が自分のものを手の中に残しておこうという気持ちが強かったのは疑いようがなかった。
そのそれなりに大切にしていたボールペンを、急に投げだすと言い出したのはどういった風の吹き回しだろうか。
思い返せば、幸一自身は以前も、このペンが好きかという問いかけに、普通と口にしている。この時から、卯月は、彼氏の発言が偽りだと思っていたが、深く追求せずにいた。今も、別に相手の心情にさほど興味があるというわけではなかったが、なにかが引っかかったままの心が気持ち悪く、でれきばそれを解きほぐしたかった。
「欲しかったんだろ。前もくれって言ってたし、ほれ」
じれったくなったのか、ペンを持ったまま、差しだそうとする。卯月は少しだけ、考えたあと、目を伏せる。
「いらない」
近付いてきていた細いものが、途中で止まる気配がした。
「なんで」
問いかけに応じて顔をあげた卯月は、不思議そうな顔をする幸一をみとめる。そこに僅かに滲んだ苦々しげな色合いを見てとってから、口を開く。
「なんでも。いらないって言ってんの」
いくらでも理由をつけられそうだったが、言いたくなかった。
欲しいという思いは消えていない。しかし、今のような形で渡されるのを卯月は強く拒んだ。自らの掌がぴくりとも動かないことが、なによりの証明だった。
幸一は固まったまま、なにかを訴えかけるように視線を送ってきた。しかし、卯月はそこからなにも受けとろうとしなかったし、受けとれる気もしなかった。
「そうか」
言ってから、幸一がボールペンを掌からこぼす。反射的に手を伸ばしそうになりかけたが、結局、卯月はそれを見送った。天板とぶつかった細長いプラスチックは、味気ない音をたて、そのまま動かなくなった。
幸一は手を引っこめると、もうボールペンを見ることもなかった。
「話しはそれだけだ。時間を取らせた」
言い残してから立ちあがると、部屋から出ていく。
後ろ姿を見送ったあと、卯月はあらためてボールペンへと視線を落とした。その特徴的な青い鳥の飾りは、いまだに綺麗だと思えたが、内側から湧きあがってくるようななにかは既に卯月の中にはない。ただ、それは以前、物を奪ったあとの味気無さとは、どこか、異なっているようだった。なにが、と上手く言葉ができないため、感覚的に理解するほかなかったが。
ゆったりと卯月も立ちあがる。そうしながら、なにかが終わってしまったのだ、と理解する。
途端に胸の中にある虚ろさを熱いお湯で流したい衝動にかられたが、もしも男が先に風呂場にいっているとしたら。それを考えた時、卯月は、はたして、相手の顔を上手く見られるだろうか、と思う。
今の彼氏は、自分の知っている彼氏ではなくなっているのではないのか。根拠のない気持ちは、元々、これだけ長く暮らしていても、ちっとも相手を知らないといういつもの論法により打ち消された。
今はとにかく、熱がいる。その思いに押されて歩きだした。
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