三

 それからというもの卯月は、市井に対してはっきりとした苦手意識を持つこととなった。その苦手意識は、ボールペンを横からかっさらわれた際の苛立ちがもととなっている。


 これまでの卯月は、誰かに対して苛立つということがほとんどなかった。もちろん、普通に生活をしていれば、嫌なことも上手くいかないこともそれなりにあり、不平不満を抱かなかったというわけでもない。しかし、それ以上に卯月は自らの普段のどんくささを知っており、それらのままならない出来事を、おおむね、自分自身のせいだとして納得していた。ふりかかってくる不平不満というものは、どんなに大きなものでも年相応のものでしかなく、自分だけではなく他の人も経験しているんだったら仕方ないだろう、と言い聞かせるのもたやすかった。そして、不平不満の数よりは少ないにしても、人並みに上手くいって楽しいこともあったため、苛立ちやどうしようもなさのような感情というものも消しやすかった。


 市井との一件は、卯月の中に消化しきれない気持ちを残していった。元の持ち主のところに手にしかけたものが転がりこむ、ということは、数は少なかったものの、何度かある。しかし、一度は手におさめたものを元の持ち主以外の他の誰かに横からかっさらわれるという経験はいままでなかった。なによりも、俺のものだから、と当たり前のことのように口にする少年の表情が、とても苛立たしく、その瞬間が脳裏に張りついて離れようとしなかった。


 とはいえ、その苛立たしさを直接ぶつけるというのは、あまりにも大人げないうえに、自らの不甲斐無さをより際立たせるだけだという思いもあり、卯月にはためらわれた。そうとわかっていても、顔を見れば、苦々しさのようなものが湧きあがってくるのはさけられない。そのため、卯月にできるのは、なるべく市井と顔を合わせないようにすることくらいだった。とりわけ、仲の良いクラスメートの前では、見苦しさをともなった卯月自身を見せたくなかったため、雑談の最中に市井と目でも合おうというものなら、表情を取りつくろいできるだけさり気なく目線を逸らして、変わらずに話を続けたりした。


 かかわりあいになりたくない。そう思う一方で、卯月は市井が俺のものとはっきりと口にしたボールペンを取り戻したいという願いを強くしていた。


 この気持ちが愚かなものであるというのは、卯月自身もよくわかってはいた。何日かがたち、風化しかけてこそいるものの、元の持ち主の手から、ボールペンがなくなったということには変わりなく、もしも、市井とともになくなったはずのもののやりとりをしている現場を見られれば、疑いの目を向けられるのは間違いがない。おまけにほぼ学校でのかかわりしかない市井を相手に詰めよるというのは、卯月を知る人間から見れば怪しいことでしかなく、なにをしでかしていたが明るみにでる可能性は、大人しくしている時よりも格段に跳ねあがることだろう。頭を冷やして考えるまでもなく、市井とはかかわりあいにならず、大人しくしているのが賢明なのははっきりとしていた。しかし、そういった理性で抑えこめないほどの、卯月のあのボールペンを求める気持ちは膨らんでいっていた。


 たいしたものではないはずだ。そう自らに言い聞かせようとするが、日に日に、そんな抑えが利かなくなっていくのがわかる。思えば、これまでも、卯月はこの手癖にまつわる衝動を抑えこめたことなどほとんどなく、気が付けば、誰かの物だったものは当たり前のように自分の物になっていた。


 物が元の持ち主に返るのだったら、まだ納得が行く。けれど、元の持ち主でも私でもない人たちの手へと物が渡るのは許せない。そんな身勝手極まりない気持ちは、これまで一度も起らなかったことに出くわしたためだと卯月は考えた。


 その思いを晴らすためには、やはり、あの青い鳥の飾りのついたボールペンを取り戻さなければならない。やめておけばいいのに、という理性の殻は破れかけ、卯月の本心はどうにかして、なにがなんでも相手から物を取り戻すという方向に傾きかけていた。


 とはいえ、誰かから奪い取ったものを、市井が毎日持ち歩くとは卯月には考えにくかった。そこにあるだけで目立ちかさばるものであればまた別だが、物は多少特徴的ではあってもボールペンであり、自宅の机の中にでも隠してしまえば、疑われもしないだろう。


 最悪家に忍びこまなければならない。そんな考えは、卯月を憂鬱にする。手癖の結果として気が付けば物が手にあるという状況とは大きく異なる行動は、ごまかしようのない犯罪であり、これまでの出来心ではすまされなくなる。そんなことをしでかす度胸は卯月にはなく、どうにかならないのだろうか、と思いながら途方にくれるしかなかった。


 /


 下駄箱での出来事から一週間ほどが経ったある日、掃除のあと通りがかった教師に任された委員会の仕事をすませた卯月が教室に戻ると、市井がただ一人窓際の席で、ボールペンを回していた。


 ここのところ試みたように卯月が目を逸らそうとする直前、ボールペンの色合いと飾りを見て、あわてて視線を戻す。そこにあるのは、今頃、卯月の机の中で輝きを失った小物になっているはずのものだった。鼓動が大きくなるのを感じながら、卯月は夕日に照らされた少年へと近付いていく。ほどなくして、ペンを回すことに集中する市井の前に着く。卯月に気付いているのかどうかは不明確だったが、振りむく気配はこれぽっちもなかった。


 今なら取り戻せるかもしれない。卯月はそう思おうとしたが、すぐにそれは難しいだろうと考え直す。以前の下駄箱でのやりとりからすれば、市井は卯月が手を伸ばしたところで、すぐさまかわしてみせるだろう。そうしてまた、あの得意げな微笑みを浮かべるに違いない。


 思い返すだけではらわたが煮えくりそうになりながらも、熱くなればなるほどことを仕損じてしまうと考えた卯月はできるだけ心を鎮めようとする。


 とはいえ、これ以上の好機がないのもまた事実だった。理由はわからないにしても、市井がものをこの場に持ってきていて、それが卯月の目の前にあるというのはたしかである。そして、それはあくまでも今であって、明日の同じ時間に少年の手元にあるペンがここにあるとはかぎらず、下手をすれば卯月の想像通り、机の中にしまいこまれて二度と出てこないかもしれない。もしもそうだとすれば、この機会を逃すのは、永遠に物が卯月の手元に戻ってこないという事態に陥りかねなかった。


 ちらりと教室内と出入り口付近を見回すが、幸い学内の喧騒はあっても近場から人の気配はしない。まさに、卯月にとっては今、物を手元に戻すためにある時間のようだった。


 なにかしら、ボールペンの奪還するための策を講じるべきではあったが、やみくもに手を伸ばしてもいいものか。前回の手痛い経験は、一瞬のことではあっても、卯月に考える時間を与えることとなった。


 こうして知らんふりをしている間であっても、市井は卯月に気付いているはずだった。

いくらほぼ騒ぎがおさまっているとはいえ、あのボールペンの出どころについて知られるというのは、この少年にとって都合の悪いことでしかない。その上でペンを持ち歩いている現状を考えれば、相応の注意を払っていてしかるべきだった。


 試すだけであればただだろうが、前日と同じように掌が空を切るのはほぼ間違いがない。


 ならば、もう少し様子をうかがうべきだろうと、と卯月は決めたものの、このまま立ちつくしているだけでは、傍から見られた時、必要以上に目立つうえに、下手をすれば変な人のような目で見られてしまいかねない。


 咄嗟に卯月は、市井の前の席にある椅子を引っくりかえし、少年と向かいあうようにして腰かける。物音に反応したのか、市井は気のない顔をあげた。


「こんにちは」


 短い挨拶を口にこそしたものの、卯月はまだどうするべきか決めてもいなかったため、とりあえず、どんな反応をされてもいいようにと、当たり障りのない話題を用意しようと頭の中を探る。市井は何度か瞬きをしてから、こんちは、と気だるそうに言ってから、


「珍しいね。春寺さんがこんな時間にここにいるなんて」


 前回と同じような微笑みを張りつけながら、回していたボールペンをつかむ。


「ちょっと、先生からの頼まれごとが長引いちゃって」


 卯月もまた笑みをつくろいながら、できるだけ、市井の手の中にあるものから目線をそらした振りをしようとする。


 少年は、自分で聞いたにもかかわらず、あまり興味がなさそうに、ふうん、と応じたあと、窓の外を見る。卯月が片目で市井の視線を追うと、顧問と思しきジャージを着た教師からノックを受ける野球部の姿があった。


「野球、好きなの」


 なんとはなしに尋ねる卯月に、市井は軽く首を横に振ってみせる。


「別に。やることもないから見てるだけ。サッカーでも陸上でも、なんならゲートボールでもいいよ」


 そう言ってから、どこか面白そうな様子で卯月の方に向き直る。


「別に今から春寺さんに付き合ってもらうっていうのでも全然いいし」


 屈託のない顔をする市井を見返しながら、卯月は一連の台詞を少々いぶかしく思う。


「市井君って、放課後、暇になるくらい友だち少なかったっけ」


 ここのところできうる限りかかわりあいにならないようにしている間も、卯月の胸には例の件の悔しさが残っていたせいか、なんとはなしに市井のことを気にかけてもいた。その一連の行動を思い出すかぎり、この少年の人付き合いはけっして悪いようにはみえず、誰とでも分け隔てなく付きあっているようだった。それらの振るまいをする少年と、今こうして一人でいる市井がどうにも噛みあわなかった。市井は目を丸くしたあと、すぐに笑みを深める。


「へぇ、春寺さんって割とはっきりというタイプなんだ」


 どことなく興味深げに告げられた言葉に、卯月は自らが口にした言葉が、ひどく配慮に欠けていたのに気付き慌てる。


「ごめんなさい。別に市井君に友達がいないって言ったわけじゃなくて」


 卯月の弁明に、市井はなにがおかしいのか、くすくすと笑いだす。


「別に悪いって言ってるわけじゃないよ。俺もちょっと意外に思ったってだけだし」


 少年は卯月を宥めるように言ってから、そうだな、と少し考えるような素振りをした。


「友達がいないってわけじゃないし、そいつらとは外でも遊んだりするよ。ただ、こういうとすごく、格好つけてるみたいで気持ち悪いんだけど」


 前置きしてから、市井はどこかが罰が悪そうに、癖っ毛に指をひっかける。


「たまに無性に一人でいたくなるというか。こうやって、ぼんやりとしていたくなるというか」


 その言葉を聞き、卯月は、市井の大切な時間を奪ってしまったのではないのかという不安にかられる。自分の持ち物を奪ったような相手なのだから、遠慮する必要などないのだと、言い聞かせて罪悪感を打ち消そうとするものの、普段通りの小心が顔をだし、落ち着けない。


 目を細めた少年は、少しの間、何も言わずに卯月の姿を目にうつしていたが、不意になにかに思い当たったとでもいうように、口の端をゆるめる。


「大丈夫だって。一人でいたいって言ったって、他に一人、誰かがいるっていうくらいだったら、そんなに気にならないし。今はぼんやりしすぎて、ちょっと暇潰しがしたかったところだし」


 私を気遣うために、なんでもない顔をしているんじゃないだろうか。卯月はそんな疑いを持ちながら、市井を見返したが、付き合いの短い相手であるゆえに、本当になにを思っているのかはいまいちはっきりとしなかった。卯月をどう見ているのか、少年は、目を細めてみせる。


「春寺さん、変な人だよね」


「どこが」


 相手の真意がわからないまま尋ね返す卯月に、市井は三日月のように口を開きながら、蕩けるように目をだらんとさせた。


「あの時は、これしか目に入ってなかったのに、今は俺のことを心配してる」


 なんでもないように口にされた市井の台詞に、卯月は身体の温度が急速に冷えていくのを感じた。あの時、という二者間でしか通じない言葉を耳にした瞬間、卯月はまるで時が止まってしまったような心地にさせられる。


「正直、たまたま下駄箱にあれをいれる春寺さんを見た時は面食らったよ。俺はもっと、ぼんやりとした子だって思ってたのに、あんなことしてるしさ」


 淀みなく口にされる言葉に、卯月は身体を震わせるのをおさえようとするほかない。市井は青いボールペンを自らの眼前にあげてから、それを髪をいじっていた方の手の人差し指でさしてみせる。


「で、いざこれを見せてみせたら、顔色どころか雰囲気も変えちゃってさ。しかも、家までついてくる執着っぷり。どんな二重人格なんだよって思ったよ」


 言いながら、少年は見せつけるようにして、ペンを卯月の目の前まで持っていく。自然と卯月の視線は、自らの所有物であるはずのものに吸いよせられかける。


「それで今日はといえば、最初は下駄箱で会った時の春寺さんだったけど、途中からクラスにいる時の春寺さんになっちゃうし。今は、少し下駄箱にいる時の春寺さんに戻ったかな」


 そう試すように言ってみせてから、市井は口許の笑みを作ったまま、目から感情を消してみせる。


「それで、どっちの春寺さんが本物なの」


 教えてよ。少年の試すような声音を耳にして、卯月はその問いかけを自らに投げかける。


 聞かれるまで、どちらが本物か、などという意識は卯月の中にはなかった。そもそもからわける必要などなく、あの手癖と執着心は、ただ出来心であると思いこんでいた。もしも、この出来心で片付けられるというならば、本物の卯月は、教室にいる時の人物ということになる。しかし、こうして冷静になって考えれば、普段のぼんやりとしている卯月と、手にいれたいもののためならなりふりかまわなくなる卯月は、明らかに別ものであった。


 今、客観的にみれば、元の持ち主のものであるはずのボールペンを、自分のものとしか思えなくなっている卯月は、明らかに普段のそれとはかけ離れている。


 どっちが私なんだろう。出せない答えを問いかけているうちに、卯月は催眠術にかけられたような気分になってくる。


 そんな風にして目の前にいる少年の影がぼやけてくるのにあわせて、ある思いつきがゆったりとした潮の満ち引きのようおしよせてくる。ひらめき、というにしても不確かすぎるそれは、はっきりとした形すらないにもかかわらず、一気に膨れあがって頭の中をいっぱいにしていく。


「どっちだと思う」


 そう問いかけたあと、卯月は自らの口元がほころんでいるのを知る。まるで、酔っぱらっているみたいだと、酒なんて飲んだことないのに思う。


「質問に質問を返すっていうのはどうなの。こっちはわかんないから聞いてるんだからさ」


 少年の眉に皺がよる。少なくとも卯月は一度も見たことのない表情をしている少年のことが無性におかしくなりつつも、すっかりと軽くなった口を開く。


「知りたいんだったら、いい方法があるよ」


 まるで相手を試すような調子の自分の台詞を、卯月はどこか他人事のように感じている。


「どんな」


 少しだけむっとしている少年の顔を見返しながら、卯月は心が蕩けそうな気分のまま、自らの薄べったい胸に手をやった。


「私と、付き合うの」


 そうすれば、きっと、わかるよ。そう付け加えてすぐに、我に返る。なにをしていたのかを振りかえったあと、卯月は血の気が引きそうになった。


 なに、言ってんの。その戸惑いを、市井も共有しているらしく、固まったまま動かずにいる。なんでもいいから言い訳をしなくてはならない、と考えつつも、卯月の口は少しは動いてはくれず、気の利いた言葉一つ言えない。


 気まずさを抱えたまま無言で見つめ合ったのち、市井がおもむろに口を開く。


「正気か」


 正気ではなかった。そう答える絶好の機会だったはずだが、卯月は視線を泳がすばかりで、肝心の一言が口から出てこない。凍りついたように、じっとしたまま、失言を取り消せないでいる。


 次第に明るさを失っていく教室の中で、運動部の喧騒がより遠くなっていく。その間も、市井は瞳の中を覗きこんできていた。その視線に、居心地の悪さをおぼえつつも、なぜだか、落ち着きのようなものが満ちてくるのがわかる。同時に、この思いつきの正体が、だんだんとわかりかけてくる。


「さあ、どうでしょう」


 そう告げてから目くばせを送った卯月の前で、市井はしばらくの間、表情を変えないままでいた。やがて、眉によせていた皺を消し、目を細める。


「いいよ。退屈だし、そういうのも悪くない」


 冗談なら冗談でかまわないけど。興味なさげな様子で最後の逃げ道を用意する市井の前で、卯月は必要以上に笑みを深める。それは自信のなさを隠すためのようでもあり、また心から自然と滲みでた表情のようにも思えた。


「本気だよ。こんなことで嘘なんか吐かない」


 ついさっきまではごまかすつもりだったくせに。内心の変化を表情に出さないように心掛けている間、卯月は最初からこの結果を望んでいたように思えてきた。


「幸一でいいよ。こういうのって名前で呼ぶもんだろ」


 つまらなさそうに呟く少年に、これから変わっていく関係がどういうものなのかを理解しつつ、手をさしだす。


「よろしくね、幸一。私も、卯月でいいよ」


 ほどなくして重ねあわされた掌は思いの外固く、冷たいものだった。やや暗くなった教室の中で、卯月は無表情の幸一に楽しげな視線を投げかける。


 怯えている卯月と、笑いが止まらない卯月。本人ですら、どちらが本物であるのかわからないまま、ただ一つ理解しているのは、あのボールペンの近くに身を置き続けられるということだけだった。

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