Lucky Lips 9

“ゴウゥゥゥゥ…”


全日空252便トライスターは、ちょうど滑走を始めて、その重い機体を、中空へ持ち上げようとしている瞬間だった。

機首が持ち上がり、車輪が滑走路を蹴るようにして、テイク・オフ。

白いジェットの煙を長く吐き出しながら、252便は冬の澄んだ青空のなかへ吸い込まれ、小さくなっていく。

わたしと川島君は、黙ったまま、それを見送った。


「さよならの言葉もない… お別れね」

飛行機が青空の向こうに消えてしまって、わたしはポツリと言った。

「そうだな」

「みっこったら、なにも言ってくれないんだもん」

「きっと… 言えなかったんじゃないか?」

「…そう思う。わたしも」


わたしは最後に見た、空港のロビーでニッコリ微笑んで、小さく手を振る森田美湖の姿を、思い出していた。

冴えたロゼカラーの口紅が、印象的だった。

それは、彼女の好きな『PERKY JEAN』の口紅の色。


森田美湖のあの素敵な微笑みは、自分の傷ついた心を隠す、唯一の武器だったのかもしれない。

「やっぱり… いちばん辛かったのは、みっこだったのかも」

252便の白い機体が消えた先を見上げながら、わたしはつぶやいた。

フェンスの手すりに肘をついて、川島君は空を見上げたまま言う。

「彼女、強いよな」

「ん… みっこはいつだって、自分の力で、道を切り拓いてきたと思う」

「彼女のニッコリ微笑む顔、覚えてる?」

「忘れられない」

「あの笑顔を見るたびに、感じてたよ。自分の生き方に対する、自信があふれてるって。

そんな素敵な笑顔だった。

ぼくはそんな彼女が好きだったよ。 …友だちとして」

「そうなの。みっこの笑顔は、はじめて見た瞬間から印象的で、いつだってわたしを元気づけてくれたの。

それは、あの微笑みが、どんな辛い想いでも、乗り越えてきたあかしだと思ってたから。

だからわたし、今度のことでみっこの微笑みが、もっと素敵になるって、信じてる」

「…ああ。そうだな」

川島君はうなずいた。

わたしはこの一年半の間、みっこがわたしに見せてくれた、様々な笑顔を目に浮かべていた。


さよなら、みっこ…


またいつか、会える日もくるわよね。



「帰ろうか?」

名残惜しそうに、いつまでも空を見上げていたわたしの肩を、ポンと叩き、川島君は言った。

真っ青な空から透明な冷気が降りてきて、わたしの首をかすめる。

「…うん」

首をすくめて、わたしは答えた。

川島君はわたしを抱くようにして歩きはじめる。

そうやってわたしたちは、空港の送迎デッキをあとにした。



 賑やかな空港ビルを抜けて、連絡バスが行き交う通りを渡り、空港専用の広い駐車場に出る。

駐車場の隅には、川島君の赤い『フェスティバ』が止まっている。

なんだか、それさえ懐かしい。

わたしたちは寄り添いながら、クルマの方に歩いていった。

川島君はなにげなく、メロディーを口ずさむ。

それはとっても綺麗なメロディの、バラード。

聞いているだけで、とっても淋しくなるような、それでいてひどく懐かしい、悲しみをたたえた、終わりのイメージ。


「その曲…」

「うん。ショパン。『別れの曲』」

「今の気分ね」

「つい、口に出た」

わたしは川島君の口ずさむ『別れの曲』を聞きながら、黙って歩いた。

いつか、三人で行ったペンションの白いグランドピアノで、みっこが弾いたその曲を、わたしは憶い出し、川島君の奏でるハミングと、ダブらせていた。



「あれ?」


クルマのキーをとり出した川島君は、訝しげに自分の赤い『フェスティバ』を見て、つぶやいた。

川島君の言葉にはっとして、わたしも彼の視線の先を追う。


あ…?


『フェスティバ』のフロントガラスに、なにか赤いものがついている。

わたしたちはそばに寄って、確かめた。



   『好き』



フロントガラスのはしには、そう書かれていた。

それは冴えたロゼカラー。

みっこのつけていた口紅の色。

『PERKY JEAN』の口紅の文字は、かなり力を込めて、急いで書いたらしく、太い走り書きと、地面に転がった、折れたルージュ。


「みっこ…」


そのふたつの文字を、わたしはじっと見つめた。

わたしたちを見届けたあと、飛行機に搭乗するまでのわずかな時間に、みっこは川島君の『フェスティバ』を探し出し、書いたんだろう。

みっこが最後に残した、別れの言葉。

目が潤んで、よく見えなくなる。


「みっこは本当に、川島君のことが好きだったんだね」

「みっこはさつきちゃんが、本当に好きだったんだな」


わたしと川島君は、同時につぶやいた。


森田美湖が最後に残していったメッセージを消さないまま、わたしたちはクルマを走らせた。


つづく

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