空を喰む

日月明

第1話その1.

 半円型でよく窓についている鍵の話を、物理教師の野村が、いかにも自分は物知りだという風に話していた日のことだ。ただでさえでかい鼻の穴を、更に広げていたのを覚えている。


 「クレセント錠」という名のついた鍵のムダ知識を授業共々聞き流しつつ、午前中最後の授業を過ごしたその日の昼休み、僕は初めて屋上へと出ることに成功した。この成功が、おそらく僕の人生で一番の幸運だと思う。


 特別教室ばかりで、一番人通りの少ない南校舎。薄暗くジメッとしていて、怖い話が一つか二つかあるらしい。その校舎の最後の階段を登りきった踊場に、屋上へと出ることのできる扉がある。扉には、いつも厳重に鍵がかかっていて、もちろん立入禁止だ。


 その扉のすぐ横、僕の目線よりも少し高い位置に、人が一人ギリギリ通れそうな大きめの窓が設置されている。窓にも当然鍵が付いている。野村のドヤ顔が思い出されるクレセント錠。鍵がかかった状態にして、引っ掛ける部分に一本太いネジが通してある。これで、内側からも鍵が開けられないようになっていた。


 しかし、老朽化に伴いネジ穴がかなり緩くなっていたようで、家から持ってきたドライバーで簡単にネジを抜けることに気がついた。

 それ以来屋上は、僕専用のサボりスポットとなっている。反対側の校舎から姿が見えないよう自分の位置には気をつけないといけないけれど、そんなものは慣れてしまえばどうということはない。


 一年経って二年生へと進級した今でも、ここは自分専用の憩いの場だと、勝手に思っていた。




 その日も、掃除をさぼって屋上へと向かっていた。家でも掃除をするというのに、学校でもしていたら一日中どこかを綺麗にするはめになってしまう。全自動丸型お掃除ロボットでも、そこまで働かないだろう。それに、一人くらいいなくても教室掃除くらいすぐに終わるはずだ。


 ポケットからプラスドライバーを取り出すと素早くネジを抜き、誰かに見られる前にサッと窓をくぐり外へ出る。いつもやっていることだし、今さら罪の意識などない。


 新しい学年が始まってまだニヶ月ほどしか経っていないというのに、太陽光がずいぶんと強い気がする。自分の影と輪郭が、暑さと湿った空気で溶けていくかのように、少し曖昧になるように感じた。


 本格的に汗をかく前に窓を潜ったすぐ横にある梯子を上り、その先にある給水塔の影へと避難することにした。影に入ると、暑さもいくらかましになる。遮蔽物もほとんどないから、風もよく通る。エアコンなんて無機質な風に当たっていると気分が悪くなるが、自然のそよ風はただ肌に心地良い。


 給水塔の下に隠してあるスケッチブックを引っぱり出すと、描きかけだった絵の続きを描いていく。目の前の景色を、鉛筆で模写している途中だった。もう何度も描いたから、ある程度は指が覚えしまっていて見なくてもかけるような気はする。


 たった一人の美術部員の僕。その活動は、ただここで絵を描くことだった。顧問の先生は、あってないようなものだと思っているだろう。三年生が引退して以来、美術室には授業以外で行っていない。


 一面コンクリートの床。その先にある、少しペンキの剥げた緑の柵。さらに向こうに広がる、いつ見ても変化のない、建造物の群れ。水だけ張ってある、空の水槽のようなパッとしない景色。


 唯一の良いところは、空がよく見えること。でもそれも、汚い柵に遮られて綺麗には見えない。


 紙に落とす空の面積を多く描くのが癖になったのは、いつからだろう。ただの好みか。それとも、閉鎖感から逃れるためか。


 色のない、灰色の空が、僕の手元に落ちてゆく。味のしない安い豆腐のようなビル郡の上に描かれた空は、僕の退屈の表れだろうか。


 描くことにかなり集中していたのか、携帯電話のバイブレーション機能でハッとなる。振動の犯人は、迷惑メールだ。一千万円の遺産相続がなんとかかんとか。集中を切らされたということよりも、こんなメールを信じる奴が居るのかと、嘲笑に似た短い溜息が出た。


 一旦鉛筆を置いて時間を確認すると、まだ十五分ほどしか経過していない。ぐっと伸びをする。長時間の作業はしていないけれど、筋が伸びる感触は気持ちがいい。鳥肌とともに、軽いあくびが出た。日陰はとても心地が良くて、床がコンクリートでなければ、眠っていただろう。


 数秒ほど虚空を見つめた後になにげなく視線を下げると、梯子の下に誰かが立っているのが見えた。

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