第3話「狐現恋歌」
満月が、鎌倉の町をくまなく照らしていた。
二階の窓を開けると、ほんのりと肌寒い風が、部屋の中を吹き抜け、畳の上に置いてあった本が、風でパラパラと捲れた。
秋の夜の空気が気持ちよく、酔いが冷めていくような気がする。
俺は今、同居人Sの部屋で、Sと一緒に酒を酌み交わしていた。
Sは偏屈物だが、とても気の合う良い奴だ。
本人曰く、大学では煙たがられているらしいが、それは仕方のない事。
現に今だって、Sは俺の話を聞きながらも、片手に持ったオカルト本を手放そうとはしない。
そう、彼は大のオカルト好きなのだ。
せっかく良い面構えをしているというのに、大学でコンパ等の付き合いもしない。
毎日真っ直ぐこの家に帰って来ては、このオカルト書物の山に囲まれながら過ごすのが、彼のライフワークなのだ。
「それで、何か相談したい事があったんじゃないのかい?」
Sが唐突に話しかけてきた。
一応、俺の話は聞いてくれていたみたいだ。
そう、実はとある事で、俺は一つ悩みを抱えていた。
今日はそれをSに相談したくて、今夜一緒に一杯やろうと、俺が話を持ちかけたのだった。
俺は黙って頷くと、Sの空いたグラスに酒を注いだ。
Sも黙ったままそれを受け取ると、一口、二口と酒を飲み、手に持っていた本を机の端に置いた。
それを見て俺は、今朝方起こった事を、ぽつりぽつりと、Sに話した。
朝、一階の古書店を開けようと準備していた時の事だった。
「あの、A様でございましょうか?」
横開きの古い雨戸を開けていたところ、突如後ろから、女性の声で名前を呼ばれた。
正直言うと、俺もSも女性の知り合いは少ない。
むしろそっちには疎いと言ってもいい。
誰だと思い振り返ると、そこには16~17ぐらいの着物姿の少女が、一人申し訳なさそうにして立っていた。
着物には鮮やかなリンドウの花があしらっていて、とてもよく似合っている。
柔らかく、どこか少し儚げな印象の少女だ。
そんな少女が、振り向いた俺にビクつきながらも、意を決したかのように手に握り締めた何かを、俺に差し出してきた。
「はは、恋文かい?秋の夜長だと言うのに、君の元にはもう春風が舞い込んだのか?ははは」
Sがそう言って話の合間に割り込んできた。
「違うよ、まだ酔っちゃいない、ちゃかさないで最後まで聞いてくれ」
「ははは、すまんすまん。それで、そのお嬢さんが?」
俺はふんと鼻を鳴らし、グラスに残っている酒を一気に喉に流し込むと、再び話を続けた。
少女の手に握り締められていたのは、手紙だった。
それもどこか古めかしい和紙の様な物。
「で、できればあの、後でお読み下さいませ」
少女はそう言って再度その手紙を両手に掴み、俺によこしてきた。
困った。何せこういう事に、俺は一切耐性がないのだ。
結局、終始狼狽えるばかりの俺に、少女は半ば強引に手紙を手渡すと、恥ずかしそうにしながら一礼し、その場から脱兎のごとく駆け出した。。
唖然としその場に一人取り残された俺は、少女の遠ざかる後ろ姿を見送った後、ふらふらとした足取りで店の中に戻った。
近くにあった木作りの椅子に腰掛け、ふぅ、と軽くため息をつく。
普段女性と話しなれてない分、先ほどの事にまだ頭の中は混乱中。
これはやはり……ラブレター、なるものなのだろうか?
高鳴る動悸を抑えつつ、俺は手にした手紙を開いた。
が、そこには俺が想像していた、年頃の女の子が書きそうな可愛らしい文字ではなく、墨で書かれた、えらく達筆な文字だった。
一目見て、それがラブレターではないのは確かだ。
果たし状とかじゃないよな……?
そんなアホな事を思いながら、文字に目を通していく。
「で、手紙には何と書いてあったんだい?」
にやにやしながら聞いてくるSに、俺は、う~んと、小さく唸りながら答えた。
「祭りの招待状だったんだ」
「祭り?」
聞き返すSに俺は頷く。
「この前、飲みながら話したろ?狐に化かされた話。まさにあれに出てきた祭りさ」
キツネに化かされた話とは、以前、俺が店先で秋刀魚を焼いていた時、一匹の狐に化かされた事があった。
にわかには信じがたい話ではあったが、事実、俺は七輪で焼いていた秋刀魚を何者かに奪われてしまったのだ。
そしてその時、Sに化けた何者かに聞かされた、とある祭りの話があった。
確か、
その昔、一匹の化け狐が一人の男に恋をした。
けれど人と狐が添い遂げるなんて事はできない。思い余った狐は人間の女に化け、その男と添い遂げようとした。しかし、ふとしたきっかけで、男は女の正体が狐だと分かってしまった。
男はその場から急いで逃げ出したが、悲しいことに、男は途中にあった崖から足を滑らせ、そのまま命を落としてしまった。
狐は泣きに鳴いた。流れ出す涙は行く晩も止む事はなく、やがてその涙は山の川に流れ込み、麓にある村を襲った。
村人達は困り果て、徳の高い僧にお願いして、狐と、悲劇に見舞われた男の為にお堂を作った。そして祈りをこめて、祭りを開くようになった。
確かこんな話だった筈だ。
祭りが開かれる山の麓とは、この近くにある山の事らしいのだが。
「あの時Sも言ってたよな?そんな祭り、聞いた事もないって」
「ん?ああ、私はまだあの時、その祭りの事について知らなかったからね。だからあの時はあんな風に言ったまでだよ」
「えっ!?」
Sの言葉に、俺は思わず驚きの声をあげた。
「それにあの時私は、そんな祭りや稲荷神社は存在しない、みたいに断言はしていない。確かに否定的ではあったがね。だからこそ、あの後ちゃんと大学でも文献やら漁って、あの山について独自に調べたんだ。そしたらどうだい、ちゃんとあったよ、あの山の麓にある稲荷神社で、年に二回、地元の近しい人達の間でのみ、開かれている祭りがね」
そう言ってSは、窓から見える山陰を指差して見せた。
「じ、実在する話だったのか……じゃ、じゃあ俺が狐に化かされたのは?」
「さあね。酔っ払っていたのか、それとも寝かぶって変な夢でも見ていたのか」
そう言ってSは肩をすくめて見せた。
「さ、酒は?竹筒に入った酒、あれは誰が?」
「村田さん、いや、萩原のお爺さんかな、竹職人でもある彼らなら、差し入れって事もあるかもよ」
村田さんと萩原さんは、地元に住む竹職人の人たちだ。
うちの祖父さんとは仲が良かったらしく、こっちに引っ越してからというもの、良く面倒をみてもらっている。
「確かに、あの人達ならありえるな……」
「だろ?まあそんなに警戒せず、一度行ってみたらどうだい?その若い女の子にも、また会えるかもしれないぞ?」
Sはそう言ってニヤリと口を歪めて見せた。
「別に、そんなつもりは……大体なんで俺に招待状なんかくれたんだ?関係者のみで行われているんだろ?その祭りは」
「らしいね。でも、君のお祖父さんも、その関係者だとしたら?」
「祖父さんが?」
初耳だ。いや、確かに祖父さんはこの街に住んでもう50年余りになると言っていた。
この辺りには顔も利くし知り合いも多い。
なるほど、それなら合点がいく。
「四の五の言わず行って来たまえよ。あまり慎重すぎるのも、無粋ってもんだよ」
クク、とSは小さく笑ってから、再び机に置いた本を手に取った。
「人事だと思って……はあ」
そう言って軽くため息をつき、窓の外から空を見上げる。
いつの間にか月は群雲に隠れ、冷たい夜気が、鎌倉の町を覆っていた。
次の日、俺は手紙に書かれている案内図を頼りに、山の麓へと向かった。
途中まではバスを使い、麓までは徒歩で向かう。
辺りを薄い闇が包み始め、外灯の明かりが灯りだす。
さすがにここまで来ると静かだ。
人の喧騒も、車の音もしない。聞こえてくるのは虫の鳴き声だけ。
「ん?」
ふと、虫たちの音色に混ざって、遠くから祭囃子の音色と、人の声が聞こえてきた。
音のする坂道を登っていくと、人工的な明かりではなく、ほんのりとゆらめくような火の明かりが、道先を照らし始めた。
坂を上るに連れて、視界が開けてゆく。
やがて上りきるとそこには、
「これは凄い……」
思わず感心してしまった。
雅な朱色の鳥居が連なるように建っている。飾られた提灯が夜風になびき、ゆらゆらと幻想的な明かりを灯していた。
昔京都の伏見神社に行った事があったが、それに負けず劣らず、大層立派な作りをしている。さすがに千本鳥居とまではいかないが。
俺は鳥居をくぐり、神社の境内へと足を向ける。
少しどきどきしてきた。
昔、親と夏祭りに行った時の感覚に似ていた。どこか落ち着かない、高揚した気分。
逸る気持ちを抑えつつ、やがて連なった鳥居をくぐり終えると、突如開けた場所に出る。
が、次の瞬間、俺の視界に思わぬ光景が飛び込んできた。
「これが、祭り?」
神社の中央に、畳が二十畳程引かれており、そこに数十人程の人達が、つまみや酒で歓声を上げている。
太鼓を叩き、それに合わせて、笛の音と合いの手が舞う。
出店や櫓(やぐら)なんて物はない。
これはあれだ、祭りというよりは、もはや宴会の部類に近い。まあこれはこれで楽しい物だが。
思わず苦笑してしまった。なんとなくだが、肩の力が抜けた気もする。
「来て……くれたんですね」
「えっ?」
突然声を掛けられ振り向くと、そこには、着物姿の女性が一人立っていた。
はにかむように笑みをこぼし、その女性はこちらに向かってお辞儀をしてきた。
その姿に、俺は思わず見とれてしまった。
手紙を届けてくれた少女と同じ、リンドウの花があしらわれた着物だ。
年は17~18といったところだが、あの少女と違い、どこか大人びた印象。
長い睫の下にすうっと通った鼻筋。切れ長で妖しい火を灯したような瞳は、見ていると吸い込まれそうだった。
「あっ、こ、こちらこそ、どうも」
ハッと我に返り、急いで頭を下げる。
顔を上げると、女性は花が咲いたかのような笑顔で、クスクスとこちらを見て笑っていた。
「は、はは、ははは」
釣られて俺も笑い返す。
「本当は直接伺いたかったのですが、何分祭りの準備があったため、使いの者を寄こしました事、本当に失礼致しました」
使いの者?なるほど、朝方のあの少女は、使いを頼まれただけだったのか。
ではあの手紙の差出人はこの女性……?
「真夜、とお呼びくださいませ。この度は祭りへの御出席、まことに痛み入ります」
そう言って真夜と名乗った女性は深々と頭を下げる。
「あ、いや、頭を上げて下さい。そんな大した事してないですから。えと、真夜さん、ですね。俺は、」
「A様、ですね。本当に長い事、お待ちしておりました」
俺が名乗る間もなく真夜さんは顔を上げ、俺の名前を口にした。
「さあ、お席も設けてあります、どうぞ私について来てくださいませ」
「あ、はい」
真夜さんに言われるがまま、俺は後に続いた。
中央の宴席に加わるのではなく、俺と真夜さんは横道にそれてから、少し丘になった斜面を登る。
真夜さんの手にある提灯の明かりを頼りに、暗がりを歩いていく。
やがて、祭囃子の音色も遠くなってきた頃に、
「どうぞA様、こちらに」
と、促すように真夜さんは言った。
目的の場所に着いたようだ。
ふと、辺りを見渡す。
そこは丘の真上だった。
予め用意されていた木作りの長椅子に、雅な細工の灯篭が、足元に置かれていた。
そしてそこから見下ろす先には、
「綺麗……ですね」
「はい、とても……」
思わずもれ出た言葉に、真夜さんが返事を返す。
そう、見下ろした先には、朧気な明かりを灯した、鎌倉の夜景が広がっていた。
遠くには、車の列が、まるで光の河のように連なっている。
ふいに心地よい風が、山間を縫うようにして吹いてきた。
周りの草花を撫でるようにして、夜風は通り過ぎていく。
心地のいい風だ。
気がつくと真夜さんの隣には、今朝方手紙を届けてくれた、あの少女の姿があった。
目が会うと、相変わらず恥らいながら、こちらを見てお辞儀をしてきた。
「今朝は、どうも」
そう言って俺も頭を下げ返す。
「さあA様、こちらに」
真夜さんに言われ、俺は長椅子に腰掛けた。
すると少女は手際よく重箱からお猪口ととっくりを取り出し、それを真夜さんに渡す。手馴れた手つきだ。
真夜さんはその蛇の目のお猪口を俺に手渡すと、
「さあ、どうぞ……」
そう言って、酒を注いでくれた。
「頂きます」
俺はお猪口を少し掲げて見せてから、ぐぐいっと、酒を飲み干した。
「ふふ、Aさんは本当にお酒がお好きなんですね」
真夜さんがクスクスと、可愛らしい笑みをこぼす。
それを見て、俺の胸が思わず高鳴る。
思えばこんな美人に酒を注いでもらう事なんて、生まれて初めての事だ。
なのに自然とここまで足を運んで、こうやって話をしている。そしてお酒までご馳走になって、本当に不思議だ。
「真夜さんは、飲まないんですか?」
俺が聞くと、真夜さんは首を横に振って、
「こうしている方が嬉しいんです。さあ、もう一杯」
「は、はい……」
夜で良かった。じゃなければ茹タコみたいな赤面顔を披露してしまうとこだ。
俺は悟られまいと、急いでお猪口に口をつけた。
酔ってしまえば分かるまい。などと考えていると、
「A様、少し昔話しをしても良いですか?」
「昔話ですか?」
「はい……この山に住む一匹の化け狐のお話です」
「化け狐……はい」
そう言って俺は真夜さんに頷いて見せた。
真夜さんはそれにコクリと頷き返し、ゆったりとした口調で、話し始めた。
「昔、この山に人間の男と添い遂げようとした、一匹の化け狐がいました。男と化け狐はいつしか夫婦となり、やがて一人の赤子を授かりました。けれど、男はその子を連れて、山を降りようとしました。子供を、人の子として育てたいと思ったのです。しかし化け狐はそれを、男の裏切りだと捉え、誤って死に至らしめてしまいます。化け狐は嘆き悲しみ、自らこの山のお堂に、自分自身を封じ込めてしまいました」
狐には、子供がいたのか?
以前知らされていた内容とは少し違っていたため、俺は少し戸惑いながらも、真夜さんの話に耳を傾けた。
「残された化け狐の子は、何とか細々とこの山で暮らしていたのですが、ある日、子狐は山で大怪我を追ってしまいます。もはやこれまで、そう思った時でした。一人の年老いた男が、その怪我を負った子狐を抱え、町へと連れ帰ったのです」
真夜さんはそこまで話すと、つい、と、俺のお猪口に酒を継ぎ足す。
そしてやんわりと微笑むと、再び口を開く。
「男は子狐の傷の手当をしました。傷は思っていたよりも深く、男は必死に看病を続けます。痛みにうなされる子狐を見守りながら、男はふと、子狐にこんな話をし始めました。『俺には孫が居る。まだ小学生の男の子だが、真のある優しい子でな、傷ついた動物を家に持ち帰っては、母親に叱られたりして、よく俺の家に駆け込んで来るんだよ。はは、孫の影響なのかもしれんな』そう言って、男は子狐の背中をやさしく撫でるのでした」
そこまで聞いて、俺はふと、子供の頃を思い出していた。
傷だらけの猫を見つけ、学校をサボって家に連れ帰ったあの日。
結局親にみつかりこっぴどく叱られたが、祖父さんだけは、最後まで俺の見方をしてくれた。
ふと、夜景に目をやる。
鎌倉の町並みはそれほど昔とは変わってはいない。
何だか俺だけが年をとったような気分だ。
俺は苦笑いをこぼし、酒を口に流し込む。
「それで、その子狐は?」
そう聞くと、真夜さんは、
「ふふ」
と、年の割には、どこか大人びた、妖艶な笑みを浮かべて見せた。
「ええ……子狐の傷は徐々に癒えて、やがて男は、その子狐を山へと返しました。けれど子狐は男の孫の話をもっと聞きたくて、それからというもの、時間を見つけては山を降り、男に会いに行ったのです。そんな子狐を邪険にもせず、『良く来た良く来た』と言って、男はまた、あの孫の話を、子狐にするのでした」
一人ぼっちの子狐は寂しかったのだろうか?それとも、まだ見ぬ男の子の話に胸を膨らませ、目を輝かせながら、話を聞いていたのかもしれない。
何て想像していると、そんな恋焦がれる子狐が、すごく可愛らしく思えた。
「それから月日は流れました。何年も何年も。やがて子狐は、男の話す孫に会いたくなりました。いつか会いたい、会って話がしてみたい、そして、それはついに叶ったのです……」
そこまで真夜さんが話した時だった。
「えっ!?」
ヒラヒラと、鮮やかな桜色の花びらが、俺の持っていたお猪口の中に舞い落ちた。
「さ、桜……?」
いや、まさか有り得ない、今は9月だ。そんな時期に咲く桜なんて、
すぐに頭上を見上げた。
満開の桜だ。
周りの木々という木々にも、色鮮やかな桜が溢れ咲いていた。
呆然とする俺。
手からお猪口が滑り落ちた。
「A様」
ふと、真夜さんに名を呼ばれ思わず振り返る。
「本当にお待ちしておりました、ずっと、ずっと会いたかった……」
そう言って目に涙をうっすらと浮かべ、真夜さんは儚げな笑みを見せた。
瞬間、それまで遠かった祭囃子の音色が、突然大きく鳴り響いた。
太鼓に笛の音、同時に呼応するかのような合いの手が上がったかと思うと、今度は地面に舞い落ちた桜が、突如一気に夜空へと舞い上がり、辺り一面を桜色に染め上げた。
「なっ!?……何だ、これ」
降り注ぐ桜の雨。目の前の景色に唖然とする俺に、真夜さんと少女がこちらに向き直った。そしてお辞儀をしたかと思うと顔を上げ、
「ようこそ、古都、鎌倉へ」
そう言って、二人は満面の笑みをこぼした。
「A様、また、またお会い……」
「えっ、真夜さん、今何て、」
真夜さんの言葉の後半部分が、祭りの音色で聞こえなかった。
思わず聞き返そうとした、が、瞬間、体の力がふっと抜け、俺は地面に尻餅をつくようにして座り込んだ。
「うわぁぁぁぁっ!?て、えっ……ええっ!?」
今、地面に座り込んだはずなのだが、
「こ、ここって……」
座り込んだ先は地面ではなく、俺の……俺の店先にある、長椅子だった。
気がつけば祭囃子も聞こえない。
もちろん真夜さんも少女の姿も、桜の木だってない。
「な、ななな、え、ええっ!?」
思わず立ち上がり辺りを見渡すが、そこはいつも通り、俺が住む、古書店のいつもの見慣れた風景。
「またかい、君はつくづく月見酒が好きな男だな」
これも聞き慣れた声、Sだ。
大学帰りだろうか、ショルダーバックを肩に引っさげたSが、俺の事をジロジロと見ていた。
「な、何?」
何とか自分を落ち着かせながらそう聞くと、Sは俺の頭についた何かを手にとって、それを見せてきた。
「桜の花びらだ……何でこんなものが君の頭に?」
怪訝そうな顔でSが言った。
桜の花びら……今しがた見てきた光景が、頭の中に浮かぶ。
「い、いや、Sに昨日話したろ?祭りの件。さっき行って来たんだけど……」
「ん?ちょっと待て、私は昨日、朝から教授に呼び出されて今の今まで部屋を留守にしていたはずだが?」
「る、留守?そんな馬鹿な、昨日君があの山の祭りは確かに存在するから、行っておいでと言ってくれたじゃないか?」
「祭り?祭りってあの前に君が話してくれた、稲荷神社のやつか?あれはちゃんと後で調べてみたが、今ではもう取り壊されて存在すらしていないよ。祭りだって、遠い昔になくなったらしいし。ていうか君は今、一体何の話をしているんだい?」
や、やられた……。
まさかとは思ったが、昨日飲み明かしたSは、またもやあの狐……。
「おい」
ふと、機嫌の悪そうなSの声が響いた。
「な、何?」
「さては君、また一人で美味しい思いをしたんじゃないだろうね?」
「お、美味しいって、こっちは何がなんだか、どれが本当で……何が嘘なのか、」
困惑する頭を、俺は抱えながら言った。
「それを美味しい思いだと言うんだ。なんでいつも君ばっかり……はぁ、ちょっと来たまえ!」
俺の話を最後まで聞かず、Sは声を荒げ俺の腕を引っ張った。
「ちょっとS、どこへ?」
「決まってるだろ?今日は朝まで寝かさないからね、ゆっくりと酒でも飲みながら、根掘り葉掘りきかせてもらおうじゃないか!」
「さ、酒って、買ってこないと、」
俺がそこまで言いかけると、Sは長椅子を指差して見せた。
以前、狐に化かされた時にあった竹筒の酒、そして漆塗りの重箱に入った、二組のお猪口が、そこにあった。
「はは、真夜さん、用意が良すぎるよ……」
俺はがっくしと肩を落とし、でもどこか可笑しくって、Sに悟られまいと、込み上げてくる笑いを、一人噛み殺した。
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