雨の日に出会った天使(短編)
YUUKA
前編
雨の降る日は憂鬱だと思っていた。
雲の切れ間を探して、日の差す時間を心待ちにしていた。
あの日までは。
(今日もだ)
バスに乗ると、同じ時間帯に目立つ赤い傘をさす男性がいる。
男性でこんな色の傘を持つなんで珍しいなと思って何気なく眺めていたら、不意に顔を上げたその人の顔が美しい彫刻のようで釘付けになった。
空の様子を見たのだろうけれど、一瞬目が合ったようにも思える。
その日から、雨が降るとあの赤い傘の人を探すようになった。
歩くと40分はかかる会社までの道のりを、歩いて。
「見つけてどうしようっていうんでもないけど……」
理由はわからない。
あの整った美の申し子のような人を、間近で見てみたいという好奇心。それと同時に沸き起こる淡い期待。
何かきかっけでもあれば、コーヒーを飲むような関係になれたらと思わずにはいられない。
そんなある日、朝から霧雨が降っていた。
今日は会えそうな予感がして、私はいつもより念入りにお化粧をして外に出た。すると、大通りに出る前の小道で、咲いたばかりの真っ赤な薔薇を見つめて立ち尽くしているあの人が目に入った。
「あ……」
まさかこんな唐突に会えるとは思っていなかった私は、思わず声を漏らして立ち止まってしまう。
その人は不思議そうな顔で顔を上げ、私を見た。
今度こそ確かに目が合い、相手も私の存在に気がついたようだ。
(な、何か言わないと)
「あの、赤がお好きなんですか?」
初めて会った人なのに私は挨拶もなしにこんなことを聞いていた。
何回もその姿を目で追っていたのは私だけなのに。
それでも彼は律儀に頷いて、薄く微笑んだ。
「元気になれる色じゃないですか。雨の日に黒い傘を差すっていうのは、どうしてもできないんです」
穏やかな声色の中にも芯の強さを思わせる言葉だった。
男性は黒か青。そんな常識がいつの頃からか定着しているのは不思議だ。
私は同意するように頷きながら、その人のそばに立った。
「確かに……こんな日は少しでも元気をもらいたいですよね」
「男が赤い色の傘を差してるのって、珍しかったですか?」
まるで私が何度か目で追っていたのを知っているかのように聞かれ、少し慌てる。
「目に入りやすいなとは思いました」
(あなたは顔も整っていますし……)
側で見ると、やはり男性とは思えない透き通った肌で目も鼻も涼しく整っている。年齢は30代前半だろうか。
スーツを着ているところからも、どこかの会社員なんだろうと思うけれど……そこまで何もかも聞ける勇気はない。
「あ……私、仕事に遅れるので」
本当はもっと何時間でも話していたかったのだけれど、時計がそれを許さない時刻を示していた。
「忙しそうですね」
「毎日同じことの繰り返しなんですけど。生きるためですから」
どこかから借りてきたような言葉を吐いた自分にげっそりする。
私の持つ心の空虚を悟ったように、その人は歩き出す私に声をかけた。
「たまには自由に生きてみたらどうですか」
「え……?」
「呼吸をしないと、息切れしますよ」
名前も知らない人に、こんな言葉をかけられて間に受けるなんておかしい。それは冷静な自分がよくわかっている。
でも、退屈な繰り返しの日々に実際呼吸することすら苦しく感じていた私は、あっけなくその囁きに心が揺れた。
「あなたが呼吸をさせてくれるんですか?」
「……望むのであれば」
私の方へ手を伸ばし、その人は優しい笑みを浮かべた。
続く関係じゃない。
この人は、きっと刹那に現れた幻だ。
明らかに自分の人生の何年も先に一緒に笑っている人じゃない。
それはわかっていたけれど、私はすがるような気持ちでその人の手を取った。
希望通り、近くの喫茶店でコーヒーを飲んで他愛のない話をした。
会社には病欠の連絡を短く伝える。
悪いことをしている自覚はあったけれど、それすらどこか快感だ。
(正しさって何だろう……私は汚れたがっていたんだろうか)
無遅刻無欠席を誇っていた私が、男性と過ごしたいという理由で会社を休む。
それは明らかに自分の残してきた白い歴史を黒くするエピソードだった。
「名前くらいは教えてもらえるんでしょうか」
恐る恐る聞くと、彼はくすくすと笑って名刺を出した。そこには会社名とその人の名前が書いてあった。
「ミハエル……海外の方なんですか?」
「ドイツと日本のハーフですよ。一応個人で輸入雑貨を売買してるんです」
「そうなんですか」
名前があること、仕事があること。どこか幻想めいていた彼の存在が急に地に足のついたものに感じられた。
「あなたは?」
「あ……私は菊本明日香って言います。ごく普通のOLです」
「アスカさんね」
コーヒーカップを置くと、ミハエルは自分の美しい手を私の手の上に重ねた。
少し冷たいその指に軽く体がびくりとなる。
「先に言っておくと、僕はあまり道徳的に正しい生き方をしていない」
この状況まで持ってきて、覚悟していたとはいえ衝撃的な事実を伝えられる。
でもそれは私が予想していたものとは違った。
「恋人は男性が一人、女性が二人いる。それぞれの予定が合う時に、自由に会って語ったり体を重ねたりしてるんだけど……そういう人間を軽蔑するなら今のうちに僕のことは忘れたほうがいいと思う」
「……」
既婚者ではなかったけれど、想像以上に飛んだ人だった。
紳士的だし恐らく教養も相当高い。
目を引く美しさも兼ね備えていることからも、そういう選択肢ができてしまうのも理解できなくもない。
(でも、恋人が男女入り混じって3人……)
「受け入れてくれるなら、アスカを4人目の恋人にしたいと考えてるんだけど」
「ちょ、ちょっと待ってください」
答えを急ぐミハエルに、私はストップをかける。
(魅力的な人だとは思うけど、他に恋人がいる人を受け入れる自信ないよ)
でも、この場ですぐに去る勇気もない。
混乱する頭で何とか決断できたのは、せめて今日1日だけでも恋人らしく過ごしてもらえないだろうかということだった。
「僕に抱かれたい?」
ダイレクトな質問に、一瞬答えを返せない。
この人に誤魔化しは効かない。その鋭い洞察眼で私の奥底の渇きを見抜いてくる。そしてその視線から私は逃れられない。
「……ミハエルさんが嫌じゃなければ」
「嫌なら最初から声はかけないよ」
「そうですか」
美しい毒蜘蛛にでも捉えられたような気分だ。
明らかに猛毒なのに、その美しさのあまり見とれている間に糸で絡め取られてしまったような。
ミハエルは私の手をぎゅっと握ると、この上ない美しい顔で微笑んだ。
「心の底から満足するまで抱きしめてあげるよ」
ぞくりとするほどの妖艶な笑みに、私の体はもう熱くなっていた。
まだ昼にもならない朝の喫茶店で欲情しているなど、自分の中の背徳感がざわざわする。
(私はどうしちゃったんだろう……数年前にいた恋人にすら自分の欲をさらけ出したことはないのに)
30歳の誕生日を迎えた時、私はもう異性を好きになる気力は残ってなかった。何年も付き合って、結局別の女性に去っていく人を見てから……全てが信じられなくなったのだ。
恋なんてもう要らないと思ってここ数年を生きてきた。
でも生きているっていうのは不思議で、ホルモンの周期で無性に体が熱くなる日がある。とにかく肌が恋しい。誰でもいいから抱きしめて欲しいと、悲しいくらい望む日がある。
多分今日がその日だったのかもしれない。
「行きましょう。僕の部屋なら誰にも邪魔されないでしょう」
「はい」
まるで魔法でもかけられてしまったかのように、私はミハエルの誘導のままに動いた。
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