第3話・目覚め
「……アルトさま……」
腫れ塞がった瞼が微かに開いたのは、アルトがセティウスを引き取ってから三日後。下町の民家の粗末な寝台の上で、亡き父によく似た青い目が戸惑いを浮かべるのを見て、膏薬を取り出そうとしていたアルトは、遂にセティウスが意識を取り戻した事に思わず喜色を露わにした。この気難しい皇子がこんなに嬉しそうな顔をするのを、長年の付き合いでありながらセティウスは初めて目にした。
「気づいたか、気づいたか。良かった……」
指定された夜にシェルリア邸の裏門で彼を受け取った。女は姿を見せる事もなく、布に覆われたセティウスは門番からまるで物のようにぞんざいに、アルトが用意していた台車の上に投げるように置かれた。人目を避け、急ぎ隠れ家に戻って今日まで、幾度セティウスはこのまま目を覚まさないのでは、と思ったか知れない。金を積んで、腕は確かで口が堅いと評判のもぐりの医師を雇ったし、シェルリア邸でもいくらか治療は施されていたが、ぎりぎりで生還出来たのは、セティウスが元々頑健な肉体と強い運を持っていたからだとアルトは思う。
だが、セティウスは、もう一つ揺るぎないものを持っていた。忠誠心である。
「あ……あれから幾日過ぎたのですか。ここは……?」
「あの女からお前を引き取って三日だ。ここは下町のわたしの隠れ家だ。暫くは追手の心配はいらない。ゆっくり休め」
父親を殺害した容疑で、未だにセティウスは追われている身である。だがここならば安全とアルトは考えていた。
実はこの借家は、セレスティーナと会っていた家ではない。以前からアルトは複数の隠れ家を用意していたのだ。将軍を暗殺した踊り娘の行方は杳として知れないが、その為、彼女が所属していた踊り娘一座は徹底した調べを受けた。彼女を紹介した旅の道化師は姿をくらましていたが、かれの住まいは未だ見張られている筈。結局、踊り娘一座は暗殺とは無関係であり、道化師と踊り娘が共謀したのだ、というのが憲兵の見解だった。勿論彼らは、旅の道化師と、皇太子お気に入りの宮廷道化師が同一人物とは知らない。道化師といえどもアルトはフィエラ公爵の推薦を受けて宮廷に入った者であり、宮中にかれに与えられた私室もある。こんな下町と縁がある筈もない、と見做されていた。
だが、セティウスは、聞き取りにくい潰れた声を絞り出すようにしながら、意外な事を言った。
「はやく……逃げて下さい、アルトさま。私を救って下さったこと……感謝してもし切れない思いですが、貴方は私を切り捨てるべきだった」
「なんだと、どういう意味だ。わたしにはもうそなたしか信頼できる者はおらぬ。そなたを見捨てて、我が道が正しく開けよう筈もない」
「それでも……いったい何故あんな女の言う事などお聞きになったのです?」
「どういうつもりか知らぬが、あの女はそなたの出自を知りながら、サジウスの元からそなたを連れ出したのだろう? そしてわたしに託すなど、何が目的やらさっぱり判らぬが……」
そう答えてから、アルトははっとして、
「そうだ、元々そなたを助け出すのはセレスティーナの役目だった。そなた、彼女に会わなかったか?」
「セレナ……? では、やはりあれは夢でもなく、他人の空似でもなかったのですか!」
「そうだ。わたしが彼女の毒杯をすり替え、墓から助け出した」
「―――!! なんと……殿下がそんなことを……あ、ありがとうございます、ありがとうございます!!」
セティウスは涙に咽んだが、すぐに苦し気な呻きに変わる。礼を言おうと身を起こしかけ、激痛が走ったのだ。アルトは彼を制して、
「礼はいい。わたしがそなたの父上とそなたから貰ったものに比べれば取るに足りない作業でしかなかった。わたしは彼女の為でなく、ただフィエラ公を喜ばせようと……手遅れになってしまったが。わたしがもっと速やかにことを運んでいれば、なんの悲劇も起きなかったかも知れぬ。なのに、慎重になり過ぎて……」
「サジウスは早くから、我が家を陥れようと罠を巡らせていたのです。アシルさまの信頼があるからと油断していた我々が招いてしまった事です」
喘ぎながらもセティウスはアルトの自責を解こうとする。
「アシルなど。あやつは臆病者ゆえ、誰も信頼などせぬ。まさか、己の婚約者をあそこまで……とは思っていなかったがな」
「そうですね……、アルトさま、それ故にこそ、早く、お逃げ下さい。わたしの事はお捨ておきになって、とにかくご自分のことを。……ですが、ひとつだけ教えて頂けますか。セレナは……妹はいまどうしているのですか」
「それが……皆目わからない。サジウスを暗殺した犯人とされ、危うい身であるのは間違いないのだが……そなた、一体この幾日かで起きた事をどれだけ知っているのだ? 何故逃げろなどと? わたしはアシルに疑われるような行動は何もとっていない」
セティウスは、妹の事を知って大きく息を吐き、それがまた胸を痛めたようで顔をしかめる。
「まだ長く話すのは辛いだろう。いいんだ、ゆっくり休んで」
「いいえ……わたしは、あの女の館にいる時に、聞いてしまったのです。すっかり意識を失っていると思い、あの女狐も幾分油断していたらしく……けれどたまたまその時、うつらうつらと目が覚めて、会話を聞いたのです」
セティウスは真摯に訴えてくる。アルトの顔も険しくなった。
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