荒野に虹を 78
モルゲッコーのことは、当然ながらゴンザも知っていた。
「アイツは……あいや、今は騎士になっているからアイツなんて呼び方をしちゃあいけないんでしょが、モルゲッコーは貧民窟出身でもかなり特別なヤツでして」
話はおおむねアーシモルから聞いたことだった。死なせず、と呼ばれていたことを聞いて、ラウジャが妙に感心していた。
「ポケノの町の噂として、死なせずと呼ばれた神童がいたことは聞いていましたが、騎士の間ではそういう話は出ませんでしたね」
「詳らかにされたくない過去は誰にだってあるものさ」
「そうでさあね。モルゲッコーは、能力ならば誰にも負けないという矜持があった。見つめるその先にはオイラたちでは見えないような雲の果てを見ているようでしてな。雲の果て、というのは結局、つかみどころのない地位や名誉のようなもんだったんでしょう」
分不相応な夢を見おってからに、とゴンザが添加物だらけの酒を呷ると、食堂の入口に人間の気配があった。
アーシモルが、無表情で立っていた。その手には、食事用のナイフが握られている。
「アーシモル」
タジが一瞬身構えたが、すぐに警戒は解かれた。もう片方の手に提げられたものは、コルクと手漉きの紙で厳重に封のされたガラス瓶だった。ラベルのないそのガラス瓶を持つ手指は、良く見ると土でわずかに汚れている。
わずかに赤く腫らした目元を緩めて、ガラス瓶を持ち上げた。
「一緒に飲みませんか?」
葡萄酒だった。
それも、混ぜ物の一切入っていない純粋な赤ワインだ。陶器や木製のジョッキに入れるのがもったいないくらいに透き通った、ルビーを思わせる液体。
「この家にグラスはないのか?」
「一つだけ、ありまさあ」
普段は使わないガラスの容器は、ワイングラスのような足のあるものではなく、円筒状の地味なものだ。それでも、透明なグラスに葡萄酒が注がれると、宝石のような輝きは増す。
「これは、いつか兄と共に飲むために取って置いたものです」
「兄……?」
「ラウジャ、それ以上詮索するな」
タジの一言で色々と察したのだろう、ラウジャはそれ以上何も言わず、自分の陶製のカップに注がれたワインを見つめていた。
「献杯、だな」
タジが言うと、アーシモルは疲れたように微笑んだ。二人の表情を見て、ゴンザもようやく事が理解できたらしい。「あ」と口から一言漏れた後は、何も言わずに杯を持ち上げた。
「モルゲッコーはもういないし、これからポケノの町でモルゲッコーのような人物が現れることもないだろうな。下流域と貧民窟を破壊すれば、そこを棲み処とする者は、出ていかざるを得ない」
現在そこで生きている子どもたちを根こそぎ引き取るということは、そこの文化を無くすことと同じだ。しかし、貧民窟の文化など、あって良いものではない。常に危険の傍らに身を置いて体と精神を蝕む不健康を文化と言い張って良いものでもない。
「私が、なんとかしましょう。いずれ生まれてくる孤児や遺児が、不幸な死を遂げない町を、その在り方を、私が探します。それが、兄とは異なる私の……戦いでしょうから」
自然とゴンザから手渡された円筒状のガラスのグラスを傾けて、アーシモルが言う。グラスの中の赤ワインは、蝋燭の炎に照らされて、血潮のように赤かった。
「……そうか。任せるよ」
血潮のような赤ワインを口に含む。
長く寝かせたワインは、深い渋みが感じられたが、それが今はタジには妙に心地よかった。
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