狼の尻尾亭 27
「タジ様、服を脱いでこちらへ」
ボトムスの裾を巻き上げて、イヨトンが泉に足を浸していた。
「入っていいのか?」
祠があるだけで、なぜかその泉へ立ち入ることに及び腰になる。これも不思議なことだが、一種の形なのだ。
「入ってはいけない、などという決まりはありませんので」
羽毛のように微笑むイヨトンは、そういう常識とは少しかけ離れているらしい。あるいはこちらの社会ではそういう倫理感が薄いのか。
タジは衣服を脱いだ。
脱いだものを確認すると、確かに泥で真っ黒になっている。また、肌が露出していた部分とそうでない部分でも、土汚れがはっきりと分かった。確かにこの状態で村に戻れば、余計な勘繰りをされてもおかしくなかっただろう。
「衣服をこちらへ」
脱いだ服を受け取ると、イヨトンはそれを湖面に沈めてザブザブと洗った。すらりとした指が衣服を揉むと、あっという間に汚れは泉水に溶け出た。
「タジ様も、ご自身で汚れを落としてくださいませ」
「そうさせてもらおう」
洗濯を終えたイヨトンと入れ替わりで泉に入り、目に見えて汚れている部分を手で擦って落とす。わずかにひんやりとした泉水が心地よい。
イヨトンはタジから受け取った衣服を振って広げると、近くの木の枝に掛けた。日陰になっていたので直ちに乾くことはないが、地面に置いて汚すよりはマシだろうという判断だ。
イヨトンが服を木に掛けて戻ってくると、泉で体を洗うタジの背中、腰の辺りが汚れているのを見つけた。バックで穴から戻ってくるうちにめくれあがって出来た汚れだろう。全く気付かず目につく汚れだけを洗うタジに近づくと、後ろから汚れに向かって泉水をかけた。
「うわっ、と」
突然かけられた冷水に背をのけ反らせて危うく転びそうになった。不満顔を向けるも、イヨトンは当然のことをしたとばかりに微笑んで、
「背中、汚れていますよ」
と、自らの手でタジの汚れた背中を洗い始めた。
「言われれば分かるっての」
ムヌーグの団に所属する女騎士の性格は、多かれ少なかれムヌーグに似るのかも知れないなどとタジは考えつつ、腰をさするように洗うイヨトンにされるがままになっていた。
「はい、キレイになりました」
「ありがとう。イヨトンはこれから森の見回りか?」
「そうです。見回りと、今は地図の作成もしています」
「地図……この森のか?」
「簡単なものですが。目印となる岩や河川、洞窟など、森深部の探索をしております」
「危険な魔獣や動物の調査なんかも?」
「もちろん。もっとも、私はあまり力が強くありませんので、斥候以上のことは出来ないのですが」
いざという時に魔獣を退治できないのは危険なのではないだろうか。そう言えば初めて出会った時も、イヨトンは戦闘に参加せず、戦っていたのはゲベントニスとムヌーグだったことを思い出す。
「力はありませんが、気配を殺す方法を心得ておりますので戦闘になることはまずありません。ご覧になりますか?」
「少し興味がある」
「では」
そう言うと、その場からイヨトンが消えた。
何かの冗談か、はたまた魔法なのかとタジが辺りの気配を必死に探るも、先ほどまでその場にあったイヨトンの姿が忽然と消えている。気配を殺すなどという生優しいものには思えなかった。
忽然と消えたイヨトンは、少し離れてタジの真後ろに現れた。現れると同時にタジが振り向き、イヨトンは驚きの表情を見せた。
「すぐに気づかれるのは流石ですね」
「いや、驚いた。突然この場から消えたように感じたよ。魔法か何かを使っているのか?」
「マホウ、というのは分かりませんが、技術の一種です。訓練をすれば人によって多少扱えるようにはなりますが、私ほど完璧に存在を消せる人はそれほど多くありません」
「眠りの国に行く前にいい経験をさせてもらった。この世界にはまだまだ俺の知らない技術があるようだ」
「タジ様は眠りの国に行かれるのですか?」
「聞かされていないのか?ムヌーグの騎士団がニエの村に駐屯する代わりに、俺が眠りの国に行って仕事をしろって事らしい。戦に大わらわな眠りの国にあって、騎士団をこちらへ動かすことが出来たのは、それが条件だったんだとさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます