第3話 第三幕
街の西側を流れる小川に差し掛かると、ベルノは出かけ際にミラが渡してきた手書きの地図を開いた。その地図に従えば、目的地はもうすぐ見えてくるはずだった。その時、ふとベルノは地図の端に文字が書いてあることに気が付いた。
『ご無事に戻られる事を』
ただの下見だというのに、ミラも大袈裟な事だと、地図を畳みながらベルノは苦笑を浮かべた。
「しかし、まぁ、あれも地獄を見てきているからの……」
続いてそう独り言ちるベルノの顔からは、笑みはもうすっかり失われていた。
ジアーロ王室でセリカ姫に次ぐ王位継承権を持つ人物は、ソアラ令嬢というセリカ姫の従姉妹にあたる人物であった。つまり、それはセリカ姫に弟妹はいないということを意味していた。
事実、ベルノはセリカ姫に妹御がいるなどという話は聞いたことがなかった。しかし、セリカ姫があのように言った以上、それは疑いようのない真実のはずだった。
国を出てから数週間後、数多の疑問を抱えながらも、ベルノはようやくザガートへとたどり着いた。すぐにでも国屋敷を訪ねて行きたかったが、国元での騒ぎがどのようにこちらへ伝わっているかもわからない状況では、そう簡単にもいかなかった。
セリカ姫に凶刃を向けたのは自分だということになっていれば、お尋ね者として手配をされている可能性も十分に考えられた。ベルノはどうにかして国屋敷を預かっているコンチェルト大使と接触をしたかったが、どうにもその糸口を掴むことができずに、首都での数日を無為に過ごすことになってしまう。
そして、ようやく屋敷に出入りしている商人を探し当て、大使宛の手紙を持たせようとした矢先に、それは起こったのだった。
「おい。川向こうの桜屋敷が燃えているぞ」
ベルノが宿屋の一階にある酒場で遅い夕食を摂っていると、外からやってきた男が大声で叫んだ。ベルノには、それがジアーロの国屋敷だとすぐにわかった。ジアーロの国花は桜であり、このザガートで桜の植えられている屋敷など他にありはしなかった。
ベルノは酒場を飛び出すと、真っ直ぐに国屋敷まで駆けていった。そこでベルノが見たものは、地獄の業火さながらに燃え盛る炎と、夜空を埋め尽くす厚い黒煙だった。
しかし、その光景には違和感があった。地区の自衛消防隊や治安省の役人などの姿はあるものの、肝心な屋敷の人間の姿がまったくなかった。これだけの騒ぎであれば、大勢の人間がいて然るべきだったが、屋敷の人間と思われる者は皆無だった。
妙な胸騒ぎを宥めるかのように、ベルノは赤々と燃えている屋敷の周りを確認して走った。しかし、視界に入るのは赤く照らされた野次馬の顔ばかりで、一向に屋敷の人間は見えてこない。
すると、屋敷裏の茂みに差し掛かったところで、小さく蹲る人影を見つけた。
「おい、大丈夫か!? いったい何があったのだ!?」
ベルノが近づいていくと、それは屋敷のメイドと思われる少女だった。歯の根も合わぬほどに震えて、蒼ざめた顔をしていた。
「ワシはジアーロの者だ。何があったのか聴かせてはもらえぬか」
「……ぞ、賊が入ってきて……あっという間にみんなを……」
鈍く光る瞳に涙を浮かべながら、少女は独り言のように呟いた。
「屋敷の者は全員死んだと申すのか!?」
「わ、わかりません……」
「コンチェルト大使はどうされた?」
すると、少女はびくりと肩を揺らして、初めてベルノの顔を見返してきた。
「……大使は……大使はお亡くなりになりました」
「やられたのか!?」
少女は小さく頷くと、自分の腕を抱いた。
「わたしを逃がすために……」
「なんと……唯一の手ががりが……」
ベルノは一気に絶望的な思いに囚われた。これで顔も名前も知らぬ、そもそも存在すらも知らなかった妹姫を探すことなど不可能になったのではないか。自分の味方は誰もいなくなったのだ。
そう思った瞬間、ベルノは自分が誰かをあてにしていたことに気が付いた。
情けない。そもそもが独りではなかったか。セリカ姫より直々に命を受けたのは自分だというのに、未だに覚悟が甘かったとは。
ベルノは後ろ向きに流されそうになる自身の心に喝を入れて、気を引き締め直した。
それから、ベルノは顔を上げると、少女を促して燃え盛る屋敷から離れた場所へと移動した。
「そなた、怪我はないようじゃから、少し尋ねてもいいかの?」
「……は、はい」
「セリカ姫がいまどうしておられるか、わからんか?」
俯き涙する少女にベルノはそう尋ねた。これがただの賊の仕業とは思えない。マジェスタ宰相が仕組んだ事だと考えるのが最も妥当であろう。しかし、いまは国許の様子もわからぬような有様……とにかく動かなければ。
「姫様ですか……? いえ、とくに存じ上げません」
セリカ姫については、公にされていないのではないかと思っていたが、どうやらその可能性が高そうだった。
「最近、国元から手配書の類は来ておらなんだか?」
自分を質問責めにしてくる男を訝しげに思いながらも、少女は少し考えてから答える。
「いいえ……なかったと思いますが」
国屋敷では手配書は必ず回覧されるはずだった。国を出奔した者が縁者を頼って国屋敷を訪れることは、よくあることだからだ。
そうなると、自分は表立っては手配されていないということになる。それが吉と出るのか凶と出るのかは、まだわからないところだったが、取り敢えずお尋ね者扱いは免れたようだった。
「質問は次で終いじゃ。そなた、セリカ姫の妹御について何か知らんか?」
その瞬間、正確にベルノのこめかみへ向かってくる殺気があった。ベルノが反射的にその殺気を左手で掴むと、それは短剣を握りしめた少女の右手だった。
「よく訓練された術だ。国屋敷のメイドは皆、こうなのか?」
ベルノが見下ろすと、先ほどまでの涙は何処へ行ったのか、夜の闇が映り込んだ冷徹な瞳で少女が見返してきた。
「……あなた、いったい何者ですか? 賊の仲間ではなさそうですが、その事を知っている以上、捨て置くわけにはまいりません」
少女はぎりっと、その腕に力を込める。
「待て待て、待つのじゃ。ワシはセリカ姫の密命を帯びて来ておるのだ。ちゃんと証拠もある」
そう言うと、ベルノは首から下げていたお守り袋を引き千切って、少女に投げて寄越した。
「中に姫様から預かった首飾りが入っておる」
少女は空いている片方の手で器用に袋を開くと、中身をあらためた。
「で、これが何の証拠になるのですか? わたしは姫様に直接お会いしたことはありませんので、これが姫様の物かも判断がつきませんが」
胡散臭いものを見るような眼で、少女はベルノを睨め付ける。
「そこに施されている細工をよく見ろ。ジアーロの国花である桜と、セリカ姫の紋章である三日月が彫ってあるだろう」
少女は言われたとおりに細工を確認する。それは確かにセリカ姫の持ち物に付けられる紋章と同じ彫刻だった。
「これが盗品でない証拠は?」
しかし、少女はまだ信用しようとはしない。
「そんなものが盗まれたならば、既にお達しなり手配書なりが出回っておろう」
それは確かだった。領内に限らず、王室と所縁のある場所であれば、この紋章の意味を理解できない者はいない。これさえあれば何でもできるという事なのだ。そんな強大な力を、国が王室の人間以外に持たせておく訳がない。つまりは、セリカ姫の紋章が彫られたこの首飾りは、本物であるということだった。
「いいか、よく聞くのだ。おそらく姫様はもうこの世にはおられんだろう」
そのベルノの言葉に、少女は少しだけ眉をピクリとさせる。
「ジアーロには逆賊がおる。セリカ姫はワシに妹姫様を立ててジアーロを守れと、最後にお命じになられたのだ。この騒ぎも其奴らの仕業だろう」
ベルノは短剣の握られた少女の手を離すと、その大きな瞳を真っ直ぐに捉えて言った。
「頼む。知っていることがあれば教えてはもらえぬか。ワシは何があろうとも、姫様の命を果たさねばならんのだ」
少女は黙ったまま、ベルノの眼をじっと覗き込んだ。
少女は思う。この男は、いまここで自分にこめかみを一突きにされるとは考えなかったのだろうかと。男の眼には一部の揺らぎも見えなかった。
――信用に足る者かもしれない。
「……ジアーロ王室には、ある言い伝えがあったそうです」
ひとつ小さく息を吐くと、少女がベルノの眼を見据えたまま話しはじめた。
「王室に双子が産まれたならば、必ずやその弟妹は国に不幸をもたらすと。所謂、鬼子というやつです。鬼子は生まれると直ぐに死なせるのが古くからの習わしでした。しかし、王室には300年以上、双子はお生まれにならなかった。その間、習わしに対する信心は徐々に薄れていき、そして十六年前、ジアーロに双子の姫がお生まれになりました。第一王女のセリカ姫とその妹カレン様です。国の重鎮たちは習わしに従う事を提言しましたが、王妃がそれを頑として聞き入れません。困り果てた重鎮たちは、カレン様を死なせない代わりに、身分を与えず国外へ追放するという事で手を打ちました。そして、カレン様は幾重にも人を介し、ザガートのさる町人の家へと養子に出されたそうです」
「なるほど知らぬ訳だ……して、さる町人の家とは?」
短剣を静かに鞘へと戻す少女へ、ベルノは身を乗り出して尋ねた。
「……わかりません。国屋敷にて定期的な援助はしていたようですが、一部の者しか存じておりませんでしたから、詳細は不明です。それに……」
「それに?」
「カレン様はご自身の出自をご存じないはずです」
自分の運命を知らないとあれば、見つけられたとしても協力を得られるのかどうか。
先ほどまで一筋の光明が見えてきたような気がしていたベルノだったが、また、目の前に壁が立ち塞がったかのような暗澹たる気分になった。
「そなたは妹姫様にお会いしたことはあるのかの?」
「えぇ。三年前に一度だけお会いしたことがあります」
そう答えると、少女は当時を懐かしく想い出したのか、遠い眼をして僅かに表情を緩めた。
「セリカ姫に似ておられるのか?」
「いいえ。世間には似ていない双子もあるでしょう。お二人はそちらに該当します」
「お顔はわかるか?」
「お会いすればわかるかと」
少女はこくりと頷いてみせた。
「すまぬが妹姫様の仔細を教えてはもらえぬか。絵師に似顔絵を描かせるなど、ちと協力を頼みたい。そなた、国許に帰るのか?」
「いえ……両親とは死別して、国許に血縁はおりませんので」
「そうか、それは済まない事を訊いた」
「構いません。それより、少しと言わずにお手伝いさせていただく訳にはまいりませんか? 元より寄る辺のない身です。他に行くあてもございません」
少女は先ほどまでより幾分丁寧な口調でそう言うと、ベルノの眼をじっと捉えたまま答えを待った。
「ワシにとっては有り難い話だが……そなたはそれで良いのか?」
ベルノが尋ねると、少女はぐっと唇を引き結んでから、はっきりと答えた。
「わたしも生きていかねばなりません」
「相わかった。ワシはベルノ=インテグラだ。よろしく頼む」
ベルノが頭を下げると、少女は居住まいを正した。
「ミラ=ココアと申します。こう見えても料理は得意ですよ」
そう言って不意に見せた少女の笑顔には、年相応のあどけなさが見え隠れし、ベルノは不意に国許に残してきた妹のクイントを想い出した。
妹のことを想うと、ベルノは胸を掻きむしられるような焦燥に駆られる。
姫の命を果たし、必ず妹の所へ戻らなければならない。
ベルノは決意を新たに、ミラを見つめ返すと小さく頷いた。
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