イラナイ
よしの
序章
神様のおわしますところと、人の住むところ。その間は、離れていて、付いている。
神々は人の願い祈りがあって、初めて手を差し伸べることができ、その神威を増す。その存在を信じない、知らぬ者が多くなれば多くなるほどに、救いの手は差し伸べられなくなるのだ。
まして、人々が気づかないところで、見えないことが起こっていたら、誰も何も出来ない。
たとえば穢れや怨念と呼ばれる、消えることも昇華することもできずに地面近くに淀んでいる想念は、互いに引き合いその分大きく膨れ、また重い念となっていく。そしてやがて生きる人に害なすものとなり、その肩や脚に、腕や首に絡みつき、重苦しい暗がりへ引き込もうとする。
そのような、神々が直に手を下せない、人では気付けないものを、神意を受け祓い清める役目がいる。
「我々の子孫達です、強く優しい子らに相違ありません。御恩に報い、これより先は、この里に生まれる子らが、任を負いましょう。」
幾十代前の『祓い子』であったか、神々に申し出た者があった。それ以来、祓い子はこの『祓えの里』に生まれる。生まれた時にはわからないが、ある程度の年齢に達すると、目の色が変わり始め、そうして初めて、祓い子であると認識される。
「きっと俺たちは一緒に祓い子になる。俺たちがいれば、無敵だな!」
「うん!」
まだ真っ黒な瞳の幼い頃にそう約束した二人の内1人は、当人たちの予感した通りに『祓い子』となった。ヒミという名の少女は十五の時にその兆候が表れ、神の社へ連れて来られた。
祓えの里には、神の社が鎮座する神里と、神里を囲むように集落が広がる人里とに分かれている。神の社には、代々神に仕える宮司が居り、さらに社の周りには五件の屋敷が構えられた。
祓え子は常に五人。紅玉、琥珀、翡翠、瑠璃、紫水晶の神器をそれぞれ引き継ぐことになる。
「ヒミはなかなか頼もしいな。巴が消えた時はどうなるかと思ったが。」
「まったくだ。赤目が二代続けて失踪とは、嘆かわしい。今度は大丈夫なんだろうな?」
「ああ、よくやっているよ。かわいそうな子だがね。」
かわいそうだと、時折神里へやって来る大人たちに噂されていることを、ヒミは早くから自覚していた。
人里に生まれたヒミは、当たり前のように両親に育てられた。だが、祓い子の兆候である瞳の色の変化が見え始めた頃、ある朝ヒミが目を覚ますと、家の中には誰も居なくなっていた。両親は里から姿を消した。都会の学校へ進学するという、ヒミの三歳下の弟だけを連れて。
長老達は憤慨したが、置いて行かれたヒミ本人が理由はわからないながらも、追わないでやってくれと懇願したため、そのままとなった。
だが今度は、ヒミが神の社へ連れて行かれる前に、ヒミに全ての任を引き継ぐべき赤い瞳の祓い子、巴が紅玉の神器を残して失踪した。完全に色が変われば代替わりとなるが、ヒミの瞳が完全な赤に変わらぬうちに前任が姿を消したのだ。これには里中が同情した。それから、ヒミは紅玉を首から下げ、他の四人の年長の祓い子達に教えを乞いながらも必死で役目を全うしようと、他の祓い子同様に神の社近くの屋敷に住み、寝る間も惜しんで一人、書庫で古い書物を読み漁った。
「ここは宮司が代々守っている神の社。神の声は私たちは直接聞けないから、宮司が伝えてくれるの。で、お呼びがかかったら、神器を持って、こっち。」
「お呼びがかかるんですか?」
「そうそう、呼ばれる時はこの鈴が鳴るから。」
緑の木々に囲まれた神里のあちらこちらに下げられている五色の紙垂がついた鈴。風に揺れて紙の擦れる音だけがさりさりと聞こえる。
「これが鳴ったら、こっち。」
教えられるままに歩を進めると、水底がはっきりと澄んで見える小川を越えた所に、まさに神話に出てくるような大きな岩が鎮座している。
「この岩戸の前に立って。普段は重くて動かないけど、必要な時にはちゃんと開くから。開いたら、もう扉の向こうは目的地近くよ。帰りはまた同じ場所。わかった?」
「はい…。」
人里へ行ってはいけないという決まりは無かったが、ヒミが人里や外の街へ下りることはほとんど無かった。彼女が関わりを持つのは、主に四人の祓い子と、同じ頃神里へ来た、緑の瞳に変容しつつあるトキワという名の青年だけだった。
「今日は一緒に行くわよ。よく見ててね。絶対に、迷っちゃダメだからね。迷ったら危ないから。」
「危ない…?相手はじっと動かないのに。」
「暗い気持ちを持つと、穢れはそこに吸い寄せられてくるの。同情なんて絶対だめ。だから、迷わないようにね。」
「はい。」
ヒミに色々な事を教え伝える役目は、猫のような橙色の瞳の凪という女と、緑から黒目に色が戻りつつある椿という男だ。いずれも清廉な雰囲気を纏っているが、情に厚い、良い人間であるという点が一致している。
トキワはヒミと同じ歳の穏やかな青年だ。ややすれば、椿の瞳が完全に黒くなり、トキワの瞳が新緑色となる。
しかしここに来てから3年経つ今も、ヒミの瞳は未だ右目だけが赤く、左目は黒を保ったままだった。完全に色が変わるまでの期間は人それぞれだからと聞いても、左右の違う瞳は内心の不安を現しているようで人に見られるのは居心地が悪い。
赤い神垂が揺れる家の周りには、黄色い花が咲き始めた。ヒミは自分の家前のみで見かけるその花が何なのか知らなかったが、何故か気になった。
「椿さん、この花…」
椿と呼ばれた青年は、ヒミが話しかけると嬉しそうに切れ長の深緑の目を細めて振り向いたが、手の中にある花に視線を移すと眉尻を下げた。
「あぁ、これは…巴草。薬草になるんだよ。」
「巴草…?」
「巴が自分と同じ名前だって、育ててたんだよ。何か違うのに植え替えるか?」
「いえ。このままで…。」
前任と同じ名前の花、ならばそのままここで咲かせよう。ヒミの好きな花では無かったが、名前を聞いて情が湧いた。
「ヒミー!ちょっと来て!」
花が揺れるのをぼんやりと見ていると、凪の呼ぶ声が聞こえた。慌てて向かうとそこには、記憶の中の彼よりも少しだけ大人びた幼なじみがいた。
「青目の跡取りよ。」
「アオイ…」
「あれ?お友達?」
「はい、幼馴染です。」
アオイの瞳は未だ深い海のような濃紺だった。
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