研究室 6

 ここはどこだろう。上半身は暖かいが、足元が寒い。両手と両足は硬い椅子に括り付けられていて、身動きが取れない。薄いワンピースを羽織っただけなので、足元から吹いてくる冷たい風が、次第に体に回り始めてきた。目の前は目隠しされているので見えない。

 クエナは、疲れ切っていた。何度も何度も自分の中から情報を抜かれていた。いや、正確にはコピーされていたと言っていい。クエナと博士をさらった人間がそれをどんな目的に使うのかは分からなかった。しかし、良くないことになるような気もしていた。

 ふと、風が止まった。誰かの気配がする。遠くから、靴音を立ててこちらに近づいてくる。その靴音はクエナの目の前に来ると、止まった。

 新しい風が吹いた。暖かくはないがさわやかな風だ。懐かしい風だ。山脈を吹き渡る激しい風、そして、晴れた日の日向に吹く柔らかな風。

 クエナのすぐ前に立ったその人間は、一人の男だった。黒いスーツを着て黒い靴に黒い帽子。この施設の人間とそっくりそのままだった。どこも違うところがない。ただ、一つだけ敢えて違いを言うならば、彼は、クエナを助けに来たということだった。

 男は、右手を出して一回、指を鳴らした。すると、クエナを縛り付けていた手足の枷が取れ、目隠しも外れた。クエナは、体力が乏しい状態だった。そのまま前のめりに倒れこむと、すぐそばにいた男はクエナを抱いて、抱え上げた。

 背中のほうに抱えられたクエナは、その人物に触れてすぐに、彼がどういった人物なのかを感じ取った。同じシリンだ。それも、確実に信じていい種類の、良く知っている人物だった。

 クエナを助けた男は、その部屋から出ると、待ち構えていた黒服たちを次々に倒していった。拳銃の弾はよけるか、よけられなければ掴み取って砕いた。そうやって、クエナを連れた男は施設の外まで出た。そこは上空で、どこかの海の上だった。かなりの上空であったために寒く、ワンピース一つのクエナは男の肩にしがみついた。男は強かった。だからクエナは安心して自分の身を彼に委ねることができた。

「クエナ、少し耐えられるか。すぐに暖かい場所に着く」

 男が言ったので、クエナは彼を信じて頷いた。すると、その飛行物体のデッキから、周りを囲んでいた黒ずくめたちを倒しながら、男は、はるか下の海へと身を躍らせた。

 あまりに寒かったので、クエナが震えていると、海へ降下する途中で、その男は、自分の着ていたスーツを脱いでクエナに着せてくれた。しばらくすると眼下に何かの島が見えてきた。島が近づくにつれ、早くなっていくはずの落下速度は緩やかになり、地面が近くなっていくにつれて遅くなっていった。地面に着くころにはもはや落下しているとは言えず、宙に浮いているような状態になっていた。

 クエナを抱いたまま、男はゆっくりと地面に降り立った。そして、クエナを降ろすと、彼女の視線に合わせて身をかがめてくれた。

 そこは、どこか、赤道近くの暖かい島だった。降り立った場所は海岸で、エメラルドグリーンのきれいな海が目の前に広がっていた。

 そして、いま、クエナの目の前にいるのは、懐かしい人だった。忘れもしない、その瞳、その声、その姿。クエナは泣きながら彼に抱きついた。

「おじさま! お会いできてうれしいわ!」

 男は、クエナを抱き返してくれた。そして、ひとしきりの再会を喜び合うと、クエナを助けたその男は、近くにある森を指さしてこう言った。

「あの森にもう一人いる。クエナもよく知っている人だ。感じるな?」

 クエナは、頷いた。強い力だからすぐに感じ取ることができた。それが、二つある。合わせて三人の大きなシリンが自分を助けに来てくれたのだ。クエナは、助けてくれたシリンを信じて、森の中に入った。すると、そこには栗色の毛に赤い瞳をした男性と、マリンブルーの瞳が印象的な黒髪の女性が立っていた。

「マルスさん、ナギ先生!」

 クエナは二人をそう呼んで、走っていった。

 マルスと呼ばれた青年と、ナギ先生と呼ばれた女性は、走り寄るクエナを二人で抱きしめた。

「苦しい思いをさせてすまない。もう大丈夫だ、クエナ」

 マルスは、そう言うと、そっとクエナから離れた。

「これからは私たちが守る。他のシリンたちも、奴らには一人たりとも渡しはしない」

 ナギは、そう言うと唇をかんだ。クエナが攫われてしまったのが悔しかったのだろう。

 そう言っていると、外で見張りをしていた先程の男が、周りを確認しながらこちらに入ってきた。

「潜入捜査をして分かったことだが、奴らはジョゼフの文書も手に入れたらしい」

「ジョゼフの文書を?」

 それを聞いたマルスの顔が、曇った。

「どこでそんなものを? この星の惑星間渡航者は奴らの手に渡っていないはずだが」

 すると、しばらく考え込んでいたナギが、クエナを自分のほうに抱き寄せた。そして、マルスや男のほうを見ると、こう言った。

「この状況で私ほど便利なものはないな。惑星間渡航者のいるアメリカ合衆国に行って調査をしてみよう。二人はクエナを連れて予定通り、ロンドン郊外にあるフェマルコート家の別邸へ。おそらく頼れる人間が何人かいるはずだ。見るもの、戻すものにも、運が良ければ会えるかもしれない」

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