青い薔薇 6

 英国のヒースロー空港に着くと、早くも輝たちを迎えるタクシーが到着していた。町子は当然のようにそこに乗り込んだが、海外が初めてである輝や、輝の母からすると、異例の厚待遇だった。

 母は、英語もわからず、こんな時に何をどうしたらいいのかが分からなかった。あたふたしていると、運転手がエスコートしてくれた。タクシーに荷物を載せて、走り出すまでの間、町子は運転手と何か会話を交わしていた。空港に着いたのが夜だったので、三人は走り出したタクシーの車窓から市内の夜景を楽しんでいった。

 タクシーはそのままロンドン市内へと向かった。道が狭い。人がたくさんいる。ごちゃごちゃした街の様子は、輝たちが住んでいる街に比べるとずいぶんと混沌としていた。

 ロンドンは石が多い。何を作るにも石だ。そんな気がした。だから、少し、輝には冷たい感じがした。隣を見ると、母は眠っていた。時差ぼけを防ぐために航空機で寝ていくはずが、うまく眠れなかったのだ。それに加えてロンドンは今、夜だった。

 タクシーはロンドンの市街地の、少し外れた場所にあるダンスホールの横に停まった。そこで三人は降りた。輝の母、芳江は、眠い目をこすりながらタクシーの運転手に礼を言った。運賃はすべて町子の祖父が持っている。町子は運転手にチップを渡すだけでよかった。

 町子は、タクシーから降りた後少し背伸びをした。そして、輝と芳江を見ると、笑ってこう言った。

「このダンスホールでおじいちゃんに会うの。芳江さんのドレスは、こちらで手配してあるし、輝の正装もあるから安心して」

 町子は、輝の母のことを、芳江さん、と呼んだ。輝のお母さん、ではなく、芳江さんと呼んだ。これは、町子のやり方なのかもしれないが、なんとなく、英国ではこうするのかな、輝はそう思った。

 しかし、まさかダンスホールで町子の祖父に会うことになるとは、思ってもみなかった。なにかのパーティーでもあるのだろうか。

 町子に導かれるまま、正装に着替えてからダンスホールに入る。すると、様々なドレスや燕尾服を着た客たちが何十人も集まっていた。いや、とうに百人は超えているだろうか。とにかくたくさんの人たちがダンスホールに集まっていた。

 中は立食パーティー会場になっていて、様々な料理がテーブルに並んでいた。輝は、それを見て唾をのんだが、英国の料理は美味しくない、そう聞いたことがあって、唾をひっこめた。それでも腹は減るもので、町子に断って、母と一緒に先に食事をすることにした。食べ物を手に取って口に運ぶと、輝はびっくりして母と目を見合わせた。

 料理が、おいしい。

 肉もサラダも、前菜も主菜も、飲み物もすべておいしかった。パンがおいしいのは聞いたことがあったが、まさかこんなおいしいものがこんな場所で食べられるとは。

「びっくりした?」

 町子は、食べ物をどんどん口に運ぶ輝のもとに着て、笑いかけた。町子のドレスは、その赤みがかった髪の色に合わせてピンク色に仕立てられていた。少し裾が広がっていて、まだ幼さの残る町子にはぴったりだった。おそらく、伯母のフォーラあたりがこのようなドレスなど着ていたら、目の行き所に迷うことだろう。

 堂々とやってきた町子に、芳江は礼をした。

「森高さん、この度は私までパーティーに招いてくださって、ありがとう。でも、私にはどうしてこんなことになっているのか、まったくわからないの。輝は何か抱え込んでいるみたいだし」

 不安げな芳江がそう言って視線を床に落とすと、町子はその両手をぎゅっと握りしめた。

「それは、おいおい私や私の祖父がお伝えします。今は何も心配なさらずに、立食を楽しんでください」

 そう言って、町子はどこかに消えて行ってしまった。このパーティーの意図が分からない。彼らは何を祝ってここにいるのだろう。

 それもはっきりしないまま立食を楽しむことなど、できなかった。しかし、それもつかの間だった。ダンスホールの端に設けられたステージに、白髪交じりの男性が上がり、マイクを手に取ってこう言ったからだ。

「紳士淑女のみなさま、今日は、わがフェマルコート家次期党当主の嫁である、フォーラ・フェマルコートの誕生日パーティーにお越しくださって感謝しています。彼女はこの家の誰よりもこの家を愛し、この国を愛し、この世界を愛しています。その美しいまなざしには月が宿り、女神のような彼女自身を支えています。この家のものである私がここまで彼女をたたえるのもまた、皆さんにもわかっていただけるものと思います。私の息子や娘に対して注がれる彼女の愛そのものが、いかに純粋で、いかに美しいものか! 皆さんもご存知の通り、彼女の出身はアメリカです。ですが、この家を継ぐにあたり、もっと社会勉強がしたいと言って日本という国に飛び出しました。彼女は今、夫である我が息子のもとで精神科医をやっている。多くの人を助ける道を選んだのです。私は、彼女をたたえたい。これは、私のわがままかもしれませんし、皆さまにとってはいささか親バカにうつるかもしれません。しかし、彼女がこの家にもたらしてくれた幸福は数知れないのです。どうぞ、皆さんも彼女の誕生記念日をここに、ともに祝っていただきたい」

 ああ、このパーティーはフォーラの誕生日パーティーだったのか。それが分かって、輝はホッとした。ホッとしたと思ったら、またどこからか、驚きが湧いて出てきた。

 自分の家の嫁の誕生日にこれだけの宴を開く実業家なんて、いったい何者なのだろう。それなら自分の実の子供や孫、妻なんかはとんでもないことになるのではないか。

 もう、すでに町子の親戚は、輝の知らない世界の住人だった。今日は驚くべきことばかりだった。だが、輝の驚きは、これだけでは終わらなかった。

 宴会が終わった後、輝と芳江のもとに、町子がやってきた。後ろに、赤いドレスを着たフォーラがいた。彼女は、少し寂しげな顔をしていたが、元気に輝や芳江に挨拶をした。

「芳江さん、はじめまして。あなたの息子さんである輝さんの友人、森高町子の伯母です。よろしくお願いします」

 そう言って右手を差し出してきたので、芳江は握り返した。芳江には先程のスピーチの英語は分からなかったが、フォーラの日本語はよく理解できた。

 そして、芳江には彼女が寂しげな顔をしているのも、よく理解できた。

 芳江と輝は、町子とフォーラとともに、パーティー会場から人がいなくなっていくのを待った。帰っていく人々を全員見送ると、ステージの裾から誰かが現れた。

「おじいちゃん!」

 にこにこと笑いながらこちらへ向かってくるその人物を、町子が呼んだ。たしかに、その人物は先ほど舞台上で挨拶をしていたその人だった。町子の祖父は、町子のもとへ寄って行って抱きしめると、皆を一つの席に導いた。その席は丸テーブルになっていて、料理が置いてあった。椅子が人数分用意してあって、落ち着いて話せる場所になっていた。皆が席に着くと、町子の祖父は、給仕に持たせていた大きな包みを受け取った。そして、それをテーブルの真ん中において、開いた。

 すると、そこには部屋の光を乱反射するほどの輝きを持ったクリスタルが現れた。そして、そのクリスタルの中には、青いきれいな薔薇が閉じ込められていた。

「みなさん、これに触ってみていただきたい」

 町子の祖父は、そう言ってそれぞれのもとへクリスタルを回した。輝のところにも回ってきたので、恐る恐る触ってみた。すると、そのクリスタルは、冷たかった。

 氷のように冷たかった。

それはまるで、手に張り付く氷のように輝の手を引き寄せ、中央に閉じ込められている薔薇に触れようとするかのように輝を惹きつけた。

「これは」 

 輝がつぶやくと、次に手渡された母が、こう言った。

「きれいですけれど、私には、この薔薇は、人を拒絶しているように思えます」

 そう言って、テーブルの中央にそのクリスタルを戻した。

 すると、町子の祖父はこう言って、皆を見渡した。

「数か月前、アフリカ南部にある、とある集落が地図から姿を消した」

 クリスタルを包みの中に戻し、給仕に手渡す。そして、彼が去っていくのと同時に、町子の祖父は語り始めた。

「このクリスタルは、もともとその村の東にある湖の近くの祠に祀られていたものだ。村に住んでいた人間の話によると、そのクリスタルの中の花は、ある女性のものだという。なぜ、そんなものがこんなことになっているのか、その女性は何者なのか、まだ謎のままだ。ただ一つ、この氷の薔薇ができたころ、女性が村から姿を消したという話が残っている。彼女がいた村、つまり、この薔薇が祀られていた村は、大規模な開発によって切り開かれてしまい、地図から姿を消した。私はこの事実が気になって仕方がない。この謎について、今回お願いしたいのは、町子と輝君、二人にアフリカまで調査に行ってほしいということなんだよ」

「俺と、森高が?」

 輝の問いに、町子の祖父は、深く頷いた。

「見るもの、戻すものであるお前たちならば、シリンが関係する事件に関して敏感なのではと踏んでね。この花はおそらくシリンのものだ。そうだろう、フォーラ」

 話を振られたフォーラは、全く動じないまま、はい、と答えた。

「この花からはシリンの意思が感じ取れるんです。同じシリンとして、彼女もまた」

 町子は、その言葉にうんうんと頷いて考え込んだ。そして、輝のほうを見て、どうする? と、訊いてきた。

 どうするもこうするもない。今までどうして知らなかったのか。フォーラはシリンだった。こんなに身近にいながら気が付かないなんて、本当に輝は戻すものなのだろうか。

「町子の伯母さんがシリンだなんて、聞いてないぞ。感じてもいない。やっぱり俺」

 そう言いかけると、輝を遮るように、芳江がその前に手を出して制した。

「ごめんなさい、輝」

 そう言って、輝のほうににこりと微笑んだ。そして、町子のほうを見たままこう言い出した。

「ガルセスさんに呼ばれた時は驚きました。でも、私にとってこれは好機だったようです。シリンや、シリンに関する命を宿したものは、宿した時点でシリンの知識が脳内に流れ込みます。それが、私の場合、戻すものだったというだけです。夏美さんがそうであったように、母親には、その子の情報が手に取るようにわかります。輝、あなたは戻すもの、そして、地球のシリンによって定められた、この星の調整役のうちの一人です」

 母の言葉に、輝はついていけないでいた。唖然としたまま開いた口がふさがらなかった。どうして母までもがこんなことを知っているのだろう。輝はまだ、戻すものとしての自覚がない。みんな自覚があって輝だけがない。ひどい疎外感に襲われていた。

「なんだよ、みんなして。母さんも母さんだ。どうして今まで黙っていたんだよ! 地球のシリンによって定められた? いったい何をだよ? 俺だけ何も知らないで、これじゃあ、道化師みたいじゃないか!」

「いまは、道化師でもいいのよ、輝」

 取り乱した輝をなだめるように、芳江は、立ち上がった輝を座らせた。そして、テーブルに投げ出されたその右手を握りしめた。

「私がガルセスさんのご招待をお受けしたのは、輝、あなたをこの英国の地に預けるためなの。学校へは退学の許可を取ってあるし、アルバイト先にもすでに辞表を出したわ。代わりに、この国の学校へ留学して、この国の家に住むことになっているの。就職も、その先のことも、全てガルセスさんにお願いしているわ。森高さんも同じよ。勝手なことをしてごめんなさい。でも、そうでもしないとあなたは動けないままだから」

 輝は、それを聞いて気絶しそうになった。自分が今まで守っていた城砦が音を立てて崩れていくさまが目の前に見えていた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。戻すものとしての自覚はない。なのに、戻すものとしての環境を整えられてしまっている。日本にはもう戻れないのだろうか。何もかもを置いてきてしまっている。思い出も、思い入れも、なにもかもがまだ、日本のままだ。

 しかし、いままで勝手をしてこなかった母が、勝手なことをしているのは確かだった。母も工場を辞めて、ここの国のどこかに就職するのだろうか。

「母さんは、それでいいのかよ。日本にいろいろおいてきて、いきなりこんな堅苦しい都会で暮らせとか言われて、それでいいのかよ?」

 すると、母は、静かに微笑んでこう答えた。

「私は、心の中にお父さんの思い出がいつまでもあるのよ。お父さんと、輝がいれば、そこがどんな場所でも、母さんには天国なのよ」

 その時、輝は、自分が母に気圧されていることに気が付いた。こんな、仏のようなことを母はいつ、言うようになったのだろうか。それとも、輝が気付かないうちに仏みたいになっていたのだろうか。

「輝はどうあれ」

 輝の様子を見て、町子は肩をすくめた。

「私は、異議なし。伯父さんも伯母さんも、こっちへ来るんでしょ? じゃなきゃ、調査もやりにくいだろうし、何かがあったとき頼りたいから」

「その二人についても、ここに呼び戻す予定だ。君たちが嫌でなければね、フォーラ」

 フォーラは頷いた。

「嫌だなんて、そんなことはありません。町子ちゃんたちと暮らせるなんて、なんだかワクワクしますもの」

 笑顔で答えるフォーラに、ガルセスはにこにこと笑いかけた。町子は本当に自分の伯父と伯母を慕っている。夏美や、父親の秀晴以上かもしれない。自分が特殊な力を使えるという面において、シリンが身近にいるというのは心強いものだからだ。

「こちらの話はまとまった。そこで、先程の話に戻るのだが」

 まだ、気分も気持ちもまとまってはいない。輝はそう言いたかったが、学校も退学、バイト先もやめることになってしまった以上、この金持ちを頼るしかすべはなくなっていた。心の中では心底困り果てていたが、もう、目の前の道は卑怯な大人たちによって敷かれてしまっている。輝は無力だった。無力がゆえに、自分に腹が立った。

 町子の祖父は、話を続けた。

「青い薔薇の持ち主を、探し出して救ってほしいのだ」

「探し出して、救う?」

 町子が、怪訝な顔をして祖父に返した。

「そうだ。先程、芳江さんが言っていただろう。あの薔薇は、人を拒絶している。おそらくは、あの土地の開発と何か関係があるのだろう。それを探れば、この薔薇の持ち主の凍った心も解けるかもしれない」

 輝は、そちらの話に耳を傾けた。今の自分と、どこか重なる気がする。その青い薔薇の持ち主が、何かこの状況を打開するヒントを持っているかもしれない。そう思えた。

「森高のおじいさん」

 輝は、落ち着きを取り戻していた。町子の祖父に向き直ると、すこし、その穏やかな顔に安心できる気がした。ここは異国だが、人間まではおそらく、異なるということはないのだろう。だから、輝は、町子の祖父にこう言って、この場を締めくくった。

「俺にはまだ、ここにいる理由が見つからない。でも、薔薇の持ち主は助けたい。そのためにここに来て、ここで暮らすのなら、少し納得できるよ。今は、それが、俺の、ここにいる意味だと思うから」

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