第三十二話 苦戦する戦と不安になる精神(こころ)

「…“人魚の膏油あぶら”?」

「左様」

信乃が口にした言葉に、狭子は首を傾げる。

さる文明15年(=1483年)12月4日。信乃や現八が防衛使を務める里見の軍は、彼らの持ち場である国府台こうのだいへと移動していた。

 これが、行軍ぎょうぐんかぁ…。戦国の鎧着るのも初めてだし…なんだか圧巻だなぁ…

この行軍に加わっていた私は、馬に乗りながらそんな事を内心で思っていた。陣へと移動中、信乃が私に行徳へ向かった荘助や小文吾の話をした時に、ふとその聞きなれない物の名前が出たのである。

「聞けば、その膏油は身体に塗れば寒さを凌ぎ、刀に塗ればたちまち鉄でも斬れるようになるそうじゃ。…この世には斯様な代物が在るようだな」

「ふぅん…」

彼が、感心しているような口調で語る。

何故、信乃がそんな事を話し出したのか、私は疑問だった。しかし、それは翌日に国府台へ到達した際に判明する。

里見軍の満呂復五郎まろのまたごろうという男性ひとが“人魚の膏油”を偶然手に入れ、それが戦での作戦に使用されたのである。信乃が言うには、敵陣には侵入者よけの柵を川の中に仕込んでいたらしく、それをどう排除するべきか悩んでいたらしい。しかし、4日の夜中、その膏油を身体に塗った里見軍の兵士数名が柵を斬り捨てて敵陣に侵入し、火を放つ―――――――――このような作戦で、指揮を務めた荘助と小文吾は第一の敵陣を破ったという。これを俗に言う「今井・妙見嶋の柵の戦い」である事を、後々になって私は思い出すのであった。

とうとう、「国府台の戦い」…関東大戦での主力戦とも言える戦が、今…始まるんだね…!!

私は拳を強く握りしめながら陣に待機しているや否や…戦の始まる合図がだされるのであった。



「あれは…!!!」

「む…何が見えとるんや?姫!!」

12月5日…国府台での戦が幕開けとなる。私は陣で怪我人の手当てに追われる一方…千里眼の能力ちからによって見える、戦闘の様子を映像のようにして見る私の表情が一変する。

そんな私の側では、以前出逢った人語を話す狐・政木狐が驚いた口調で私を見つめていた。

夢中になっている私の視界に入ってきたのは、刀を交える里見軍と敵の連合軍。その連合軍が使っている兵器が、この時代にしては斬新な物だった。これを目の当たりにした私は、それが敵方の新兵器“駢馬三連車へいばさんれんしゃ”である事を思いだす。

駢馬三連車へいばさんれんしゃ…?」

「うん。古代中国…大陸にある国の戦車を真似て作った戦車なの。大八車みたいなものを3つ連ねていて、前と後ろにそれぞれ鉄砲と弓矢を持った6人の兵がそこに乗り、御者は左右に2人と騎馬が6頭。馬にもそれぞれ、薄鉄の鎧が着けてあるの…!」

「…ちゅうことは…どうなるんや!!?」

「信乃…!!!」

私は説明をしながら、戦の風景を自身の千里眼ちからで見る。

ちょうどその時、信乃の腕に敵の刃がかするのが見えたのである。

 これが…本物の戦…!!!

私の視界には、駢馬三連車によって苦戦する里見軍の姿が映っていた。彼らの表情や、敵の前で総崩れする様を透視てしまい、鳥肌の立った私の身体がふらつく。

「姫!!大丈夫かいな!!?」

床に座り込んだ私に、困惑した表情で側に寄ってくる政木狐。

彼の声は周囲にいる兵には聞こえずその姿も見えないため、突然座り込んだ私を見た里見の兵士達が、心配そうな表情で私を見下ろしていた。

「攻守が共に安定した“あれ”が相手じゃ…分が悪すぎるよ…!」

座り込んだ私は、冷や汗をかきながら、ポツリとそんな事を呟いていた。

「あーーーーもーーー!!!兎に角、今の姫は怪我人の手当てや!!奴らだったら、そう簡単にはくたばらん!!しっかりしいや…!!!」

地面に座り込んでいた私は、政木狐の言葉で我に返る。

私は震えの止まらない両手を見つめるが、身体で感じる恐怖を断ち切るように、両手の拳を強く握りしめる。

 そうだよね…後半戦のために、私も頑張らなきゃ…!!

そう強く思った私は、親兵衛から預かった神薬を手に、怪我人や彼らを手当する薬師の元へと駆け出していくのであった。

こうして、初日から危機を迎えてしまう里見軍。とりあえず、信乃の活躍や、現八がたった一騎で殿しんがりを務める事で、絶体絶命の危機を免れたのである。



「大地がよく見えるなぁ…」

翌日の6日、里見軍は三連車を避けながら周りが見渡せる文明ふめの岡に陣を移動した。休む間もないだけでなく、昨日の敗戦で負傷した兵士も多い。無論、私は親兵衛から預かった神薬で何度も怪我を治療してきたが…敵の圧倒的な戦力によって、兵士一人一人の士気が下がってきているのが目立つ。

そんな彼らに何もできない事を考えると、とてももどかしい気分となる。複雑な想いを抱えながら、私は岡から陣を見渡していた。


「狭!」

「現八…」

後ろから聞こえてきた声に振り向くと、その先には現八がいた。

昨日の戦いで勇猛さを見せた彼だったが、その代償に所々で傷を負っていたのである。単節ひとよさんの一件で“身近な人が死ぬこと”を目の当たりにした私は、それを見ただけでも“死”を連想しそうになるくらい、敏感になっていたのである。

「ごめんね、現八…」

「む…?」

「親兵衛から預かったこの神薬…。傷は癒せても、身体に蓄積される疲労までは取れない。貴方達は里見のため、安房国のために戦っているのに…私だけが何もできないのが申し訳なくて…」

私は声に出すたび、自分の視線が下に下がって俯いてしまう。

現八は、そんな私を見つめながら口を開く。

「だが、狭。お主は里見の姫であり、女子じゃ。男が女を守る事は当然の事。それこそが、この戦国の世における理なのだ。じゃから…」

「私は…!!」

淡々と答える彼の台詞を、私は途中で遮ってしまう。

「私は…その“理”が当たり前ではない、男と女が対等となる時代で生きてきたの!!だから…!!!」

私は、自分の瞳が涙でにじんでいる事も忘れ、嘆くように言葉を紡ぎだす。

しかし、その先の言葉をなかなか口に出せず、困惑した表情で頭を抱える。

 駄目だ…。弱音は吐かないって決めたのに…戦の光景が頭から離れない…!不安と恐怖が、私の心を覆い尽くすよう…!!!

戦の最中は怪我人の看病に追われて考え事をする余裕がなかったが、こうした時には心が弱くなってしまう。しかし、自分以上にも頑張っているのが、前線で立つ犬士達かれらなのである。その先を口にする事は、やってはいけない単なる“我儘”ではないかと葛藤する狭子。

「え…?」

気が付くと、心の中で悲鳴をあげていた狭子に対し、現八が強く抱きしめていた。

以前に抱きしめてくれた信乃とは違う感触を体感する狭子。最初は何が起こっているのかが把握できなかったが、逞しい胸。そして、自分を抱きしめるゴツゴツした腕の感覚に気が付いた途端、我に返る。

「お主が役立たずという事は……断じてない」

「現八…?」

頭上で呟く彼の声はとても低く、微かに震えていた。

「よく聞け、狭。初めてお主に相まみえた時は、奇妙な小娘だと思うたが…。お主の気丈で明るい性格に励まされたのは、わしらの方じゃ。…お主とて、何もわからぬこの時代に飛ばされて、不安な事も多かったであろうに」

私を強く抱きしめながら、現八は語る。

その台詞を狭子は黙って聞いていた。

「我ら犬士が8人揃い、今こうして里見のために戦えるのは、元を返せばお主のおかげ。多くの敵に立ち向かえるのも、お主の存在があってこそなのだ。それに…」

「それ…に…?」

何かを言いかけた彼に、私の口が動く。

すると現八は、私を抱きしめていた腕を緩め、真正面から私の瞳を見つめる。

「そんなお主に……わしは惚れたのじゃからな」

「!!?」

今の一言で、私は目を数回瞬きさせる。

 え…。今の台詞って、もし…や…?

我に返った私は、現八が口にした言葉について考えた途端、少し嫌な予感がしてくる。そう思うや否や、彼の顔が次第に近くなってくる。

強くなり始める狭子の心臓。この雰囲気と展開から見て、この後に何が待ち受けているのかを理解した狭子。しかし、私の脳裏には、海岸で再逢した信乃とのやり取りが浮かんでいた。

「やっ…!」

小さなうめき声をあげた私は、咄嗟に現八から顔をそらす。

顔を近づけてきていた現八は、その行為を見た途端、動きを止める。瞳を閉じて逸らしたため、この数秒間だけ私の視界は真っ暗となっていた。

すると、自分の目の前から何かがいなくなったような気配を感じる。恐る恐る閉じた瞳を開いてみると――――――――私を抱きしめていた現八は自分の腕を私から離し、悲しそうな表情かおをしながらその場で立ち尽くしていた。

「あ…」

その悲しそうな表情を見た瞬間、胸が強く痛んだ。

拒絶された事を感じ取った現八の表情は、どこか寂しげに感じられる。その態度を見た途端、私は彼が自分を抱きしめてくれた理由をはっきりと理解した。

 犬士探しや素藤の一件で、考えたこともなかったけど…。現八ってもしや…?

心の中で自問自答を繰り返す私は、その先を考えるのが怖くてできなかった。そう、狭子には信乃という想い人がいる。恋愛経験があまり豊富でない狭子にとって、こういう時にはどうすればいいのかわからず、困惑する。その後、数分ほど気まずい空気が流れ、双方共に黙り続けたのである。


浜路はまじ…』

「え!!?」

沈黙が続く中、私の耳に聞き覚えのある声が響いてくる。

それを聞いた途端、私は我に返って後ろを振り返る。

「狭…如何した!?」

私が周囲を見渡し始めた途端、その場に立ち尽くしていた現八も我に返って辺りを見回し始める。

「声が…声が聞こえるの…!!しかも、これは…過去に聞き覚えのある…!!!」

どこから声が聞こえるのか、私は彷徨うように足を動かし始める。

「!!!」

すると、文明の岡の近隣を流れる利根川から、何かの気配を感じ始める。

「狭子!!?」

何かに勘付いた私は、すぐにその場から川に向かって走り出す。

それを見て驚いた現八は、慌てて私を追いかけ始める。

「ハァッ…ハァッ…」

陣の中を通り抜け、私は利根川へと走る。

そんな私を追いかける現八と共に、何が起きたのかと嗅ぎ付けてきた親兵衛も、いつの間にか加わっていた。

 この声は、夢の中でも何度か聴いたから、よく覚えている!!…音音おとねさんの言っていた事が本当なら、この声は…!!!

親兵衛の存在すら気が付かなかった私は、走りながら考え事をする。

「あ…!!!」

全速力で走った私は、利根川のほとりに到達する。

そして、私の視界へ最初に入ってきたのは―――――――――淡い水色の小袖を身にまとい、艶やかな黒髪を持つ女性だった。しかし、女性の身体は僅かに透けているようにも見える。

「伏姫様…!!何故、ここに!!?」

「なっ!!?」

私の後を追って来た親兵衛の台詞に対し、現八が目を丸くして驚く。

この私達の前に姿を現したこの女性こそ、八犬士を生み出し、私をこの世界へ誘った張本人―――――――里見家一の姫・伏姫なのであった。

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