第2話 エリオンとイルラナ

『親愛なる幼なじみ、腐れ縁のイルラナへ』

 十八歳になったばかりのイルラナは、また手紙をまた読み返していた。もう文面はすっかり覚えていたけれど。無地の紙には、キレイな字が並んでいる。

『僕は今、ルウンケストという小さな国の、バクトという街にいます。岩だらけの、緑の少ない所ですが、珍しい鉱物や動物がいて、錬金術に使える道具が色々手に入りそうです。(といっても君は興味ないでしょうが)。今はフェレアというお婆さんの所にお世話になっています。ちょっと無愛想ですが、その代わり僕が実験していてもそっとしておいてくれるから、ある意味助かってはいるかな。二十日ごろには帰る予定です。お土産をお楽しみに! 

 さすらいのひよっこ錬金術師エリオンより』

「二十日ごろって、もう六か月も過ぎてるじゃないの!」

 イルラナは、手紙をくしゃくしゃにまるめて放り捨てた。

 錬金術師は、いつもあちこちを旅している。

 エリオン曰(いわ)く、「万物の謎を解き明かそうとするのが錬金術師の仕事」なんだそうだ。

 例えば地面に落ちている石にどんな性質があるのか、それにどんな薬品をかけるとどんな反応をするのか。人間の血が暖かいのは、心臓が動き続けるのはどうしてか。

 実験を積み重ね、そういった疑問の答えを見付け、この世界を知り、その知識を人々のために活かすのが錬金術師の使命だと。

 そのためには、様々な物に触れる必要がある。その国にしかない植物、鉱石、変わった体質を持つ者……

 というわけで、彼はあちこち旅をしているのだが、今回は出発前に教えてくれた予定よりかなり帰りが遅れていた。

 もちろん船を使えば風の関係で足止めを食うこともあるし、馬車や徒歩でも大雨で道が崩れれば大回りしないといけない事もあるだろう。手紙だって、途中で何かがあればなくなってしまって届かないことがある。

 それはイルラナも分かっていたし、現に、前エリオンが旅に出た時も、予定より帰りが遅くなったこともあった。けれど、今回はどういうわけか妙に嫌な予感がする。もう二度と自分の下に帰ってこないような――

 そんな思いを振り切るように、イルラナは自分の家を飛び出した。昨夜の雨が嘘のように、今朝の空は晴れ渡っていた。草についた雨の名残に、ズボンの裾を濡らしながら、イルラナは丘の上へ駆けていく。放し飼いにされた鶏が、驚いてココッと鳴いた。

 野良仕事で足腰が丈夫な者が多い村の中でも、イルラナの足は速い。同年代の男達にも負けないほどだ。小柄な体は、跳ねるように村を見下ろせる頂上に駆け上がった。

 イルラナは茶色の目を細めた。少し冷たい風が、肩で切りそろえたワラ色の髪を揺らす。ここからだと、村の家々が箱のように見えた。近所のデクルさんが犬に餌をやっているのが見える。煙突から朝食を作る煙が立ち上り、空気に溶けていく。村の後には、視界の限り森や畑の緑が続いている。

(あの遠い山まで歩いていって、そこから見下ろしたら、どんな景色が見えるんだろう?

 それは子供の時からずっと考えていたことだった。

(もっと遠くにいるエリオンは今どんな景色を見てるんだろう?)

 いつか封筒に入れて送ってくれた、真っ赤な草でできた草原? それとも燃える石でできた川原?

「やあ、イルラナ!」

 村の方から、人のよさそうな老人が歩いてきた。頭は薄くなっているが、骨格からして若いころは恰好よかっただろうと想像させるような人だ。

 声をかけてきたか誰か分かると、イルラナはぷいっとそっぽをむいた。

「どうした? 今日はご機嫌斜めかな? まだエリオンの事が心配なのか?」

 イルラナはようやく声の主に視線を向け、口を尖らせる。

「ハルストさんは心配じゃないんですか? エリオンは自分の弟子なのに」

「ははは、あの子は私よりしっかりしているからな」

 聞いた話によると、ハルストももとは旅の錬金術師だったらしい。イルラナとエリオンが産まれる前のこと、立ち寄ったこのトナークの村が気に入って、ここで暮らすことに決めたそうだ。

 エリオンに錬金術への興味を持たせたのも、このハルストだ。

 文字も読めない者が大半のこの村で、イルラナとエリオンはハルストに読み書きを教えてもらった。勉強するヒマがあったら縫い物の仕方、畑の耕し方を覚えろという大人が多い中で珍しいことではあった。

 エリオンは文字を習いにハルストの家に通ううち、そこにある鉱物や動物の標本に惹かれていった。そして自然とハルストに錬金術を教わるようになっていった。

 男が二人して自分のわからない実験や勉強をするようになったのが、イルラナには気にいらなかった。今まで一緒に泥だらけになって遊んでいた相手が、遠くに行ってしまったようで。

 そして現に、今エリオンは遠くに行ってイルラナの傍にはいない。

「それにね、イルラナ」

 穏やかだけど強い力を秘めた口調でハルストは言った。

「錬金術は、もともと価値の無いものから金(きん)を作り出そうという欲から始まった学問だ。けれどその過程で自分達の身の回りにある物について、ちょっとばかり他の人は知らない事がわかるようになってきた。だから私達が得た知識を広めて化学の発展に貢献する義務があるんだよ」

「よく分からないわ」

 イルラナは大げさに肩にすくめて、空を見上げた。

 この空の下のどこかにエリオンはいるのだろう。イルラナは見たこともない物を見て、難しい技術を使って人を助けて。

(それに比べて私は……?)

 イルラナも、エリオンと一緒に錬金術をさわりだけ教わってみたことがある。だが、実験や観察はおもしろかったが、生き物を解剖したり、机にむかって記録をまとめたりするのがどうしても好きになれなかった。それがどうしても必要なことだと分かってはいたけれど。

「そういえば、いつドルルドと結婚するんだい?」

「はい?」

 いきなりとんでもないことを聞かれて、イルラナは失礼なくらいの勢いで聞き返してしまった。

 ドルルドは隣の村の青年だ。一度会った事はあるけれど、周りの友人を召使のように扱って、どこか乱暴な所があった。その乱暴さが、一部の大人には頼りがいがあると映るらしいけれど、イルラナは苦手だった。なんでそんな、結婚したら殴ってきそうな男と結婚しなければならないのか。

「おや、これは余計なことを言ってしまったかな」

 不愉快そうなイルラナの顔に、ハルストはきまり悪そうに額を押さえる。

「いや、たまたま君のご両親が話しているのを耳にしてね。君ももう十八だし、決まったとばかり」

「聞いてないです!」

 イルラナは自分の家に駆けだした。

(父さんと母さんに文句を言ってやる!)

 そこでイルラナは急に足を止めた。

(ここでドルルドと結婚しなくても、そのうち誰かと結婚することになるんだろう。そして子供を産んで、死ぬまでこの村で暮らして?)

 たぶん、それは幸せで、正しいことなのだろう。でも。

(エリオンが見ているような、海や草原を見ることもないまま……?)

 ぶるっと体を震わせる。

(そうだ、夜になったらこっそり村を出よう!)

 まるで雷のように、そんな考えが降ってきた。

 そしてゆっくりと歩きだす。

(何も家出するわけじゃないわ。ちょっと村の外へ出てみるだけ!)

 行く先は、エリオンのいるルウンケストの国にしよう。そうすれば、エリオンがどうして帰ってこないのかも分かる。

 なんだか、わくわくしてきて、頬が熱くなる感じがした。

(すぐエリオンと一緒に帰ってくれば問題ない。すぐ帰ってくれば……)

 少しずつ歩く速度が速くなっていく。

(何を持っていけばいい? 持ってる限りのお金と、パンと、そうだ、ナイフも持っていこう!)

 今まで感じていた嫌な予感も忘れ、イルラナは胸をはずませ駆けていった。

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