裏庭
千鳥すいほ
魔女の話
01_猫の目をした蛇
世界がここだけだったら良かったのに。
あたしがそう言うとアルベールはいつだって「そうだね」と微笑んだ。あたしはそれに満足する。あたしが満足するとアルベールが笑う。
幼い頃、屋敷の裏庭があたしとアルベールの世界の全てだった。
背の高い木で外から隔離された薄暗い庭。あたし達だけの庭。あたしを魔女だと言う連中も、アルベールを苛める馬鹿もいない。難しいことばかり言う父さんも、口煩い母さんもいない。
──世界がここだけだったら良かったのに。
何度そう繰り返し思っただろう。
邪魔者のいない世界。満たされた静謐。あたしが望んだものが唯一、達成された場所──だった。
あたしが九つ、アルベールが七つになった年の秋の終わり。
悪い病気に罹ったからと、父さんが庭を焼いた。
アルベールは泣いた。
あたしは泣かなかった。
あたし達の幻想は、黒い灰になって死んだ。
◇◇◇
「お早う、エレクトラ」
まだ陽が昇らない早朝に廊下の灯りを点けると、たくさんの物影が窓に映り込む。
あたしの影に顔はない。髪と同化した黒い面に、猫の金の瞳だけが炯々と輝いている。時折開かれる口の中は赤く、細い舌の先は二つに割れている。
猫の目をした蛇。
「今日も返事をしてくれないのね」
こいつがいつからあたしに憑いているのか、はっきりとは憶えていない。ただ、随分と前からあたしの影に居たことだけは思い出せる。一番初めは居なかったことも。昔はこんなに煩くなかったことも。
周りに人がいないときに限って、こいつは勝手に口を開く。
「あなたはいつもそう。いつでも不満そうに不機嫌な顔をしている。ねぇあの庭が恋しいのでしょう、私と戻りましょう、エレクトラ」
煩い。煩い煩い煩い。あの庭にお前の居場所などない。あそこはあたしの王国だ。あたしとアルベールだけの庭だ。お前の居場所などどこにもない。
それなのに、こいつはあたしを庭へと誘う。
あの庭はもうない。今では只の野原になってしまった。丈の低い草ばかりの、明るく開けた場所。あんな所は、あたし達の庭ではない。
存在しない場所に逃げるつもりはない。あたしは父さんのようには逃げない。
「逃げるのではないわエレクトラ、あなたには資格があるの」
そんなことは知っている。
耳障りな声を断ち切るために、あたしは足早に廊下を突っ切る。当然の様に影はついてくる。その間も影は煩く喋り続ける。
近付いてくる足音に気付いたのか、廊下の突き当たりにぼんやり立っていた人影がびくりと震える。
あたしは足を止めて口を開く。
「お早う、アルベール」
「お、お早う、姉ちゃん」
振り向いたアルベールが弱々しく笑う。
猫毛の茶髪が青白い顔を縁取り、余計に薄暗く見せている。白い
何をするにも愚図で鈍な、あたしの弟。脆弱で内気で、いつも隠れるようにあたしの後ろをついてくる。
あたしはアルベールが嫌いではない。だってアルベールはあたしが守らなければ生きていけない。母さんも同じ。
それ以外の人間は嫌い。大嫌いだ。誰も彼も。
時折、誰もいなくなった世界を夢想する。心安らかで美しい庭。
そこでなら、陽の光を遮らなくても済む。青空も美しく感じるだろう。
「そこで何をしていたの」
あたしが何かを尋ねると、アルベールはいつも過剰に怯えた顔をする。
「な、何も」
そんな事だから馬鹿共に付け入られるのだ。アルベールは普段から、どこかを見てぼんやりしている事が多い。人が近づいても、馬車が近づいても、実際にぶつかるまで気づかない。
──本当に愚図なんだから。
飽きるほど抱いた苛立ちを胸の裡へと吐き捨てる。
「なら、早く掃除を始めなさい」
はい、と小さく返事がある。アルベールは従順に、あたしについて階段を降りてくる。階段下の物置から箒と塵取りを取り出し、右側の廊下の奥に消える。
奥から順に、アルベールは丁寧に埃を落とし、掃き集める。一回の右廊下を終えたら、次は居間。それが終わったら二階を掃く。階段も降りながら掃除し、最後に玄関。左廊下だけを残し、埃は塵取りへと追い遣られる。
毎日毎日、機械的に、アルベールは飽きもせず寸分違わぬ行動を繰り返す。
掃除する場所の順番を変えることさえない。足を下ろす位置も同じ。左足を残して体の向きを変える。階段を昇るときは右足から、降りるときは左足から。
アルベールはあたしの言うことに逆らわない。だけど、あたしが言わなければやらない。
あたしは更に階段を降りる。床に据付けられた重い蓋を開き、地下の倉庫へ。常に変わらない温度の、陳ねた空気があたしを迎える。
光源はひとつだけ。弱々しい光が全てを照らすことはない。光の輪から外れた物は、一様に真っ黒な影となって佇んでいる。
壁にはびっしりと薬草の束が吊られている。どれも古く、既に主人はない。一部は完全に乾き切って、触れただけで崩れる有様だ。吊っている紐もすっかり劣化して、切れて落ちているものもある。
壁と床の境目に、薬草の束や欠片が積もっている。昆虫の死に様に少し似ている。
腰の高さまで積まれた箱が細い通路を作っている。奥にある目的地に近づくにつれ、中身のあるものが混ざり始める。
行き止まりに辿り着くと、食料の入った箱が並んでいる。いつものように、
厨房で朝食の仕度をする。あたしとアルベールの弁当と、母さんの昼食も作る。
羹を火にかけ、弁当を布で包んだら、階段したから箒を出して、左廊下の掃除に行く。突き当たりには父さんと母さんの部屋がある。
足音を立てずに埃を掃いていく。あたしが居間に戻ると、掃除を終えたアルベールが歩いてくる。塵取りを受け取って埃を集める。外に捨てる。
アルベールが二人分の箒と塵取りを片付ける。
あたしは食卓を拭き、厨房から皿を運ぶ。アルベールと二人でそれを並べる。いつもと同じ量の食料を三人分に分配する。鍋と籠が空になる。二人で揃って席に着く。
するとやがて、母さんが起きてくる。
「お早う、エレクトラ」
母さんが微笑む。白昼の月のような青褪めた笑み。あたしは母さんの白いドレスの裾を見詰めて答える。
「お早う、母さん」
母さんは笑って席に着く。向かいに座るアルベールには目を向けない。
短い祈りの後、沈黙の中で朝食が始まる。
母さんとアルベールはよく似ている。茶色の髪、緑の瞳。青白い肌も、白い服を着ると病人のように見えるのも同じ。
食卓に椅子は四脚。座る人間は三人。北に位置する椅子は常に空席。いなくなった父さんの席だ。
父さんがいなくなったのは、あたしが十歳、アルベールが八歳になる誕生日の前日だった。父さんがふらりと姿を消すのはよくあることだったから、誰も気に留めなかった。
でも、それから何年も、彼は一度も帰ってこない。
父さんがどんな人だったか、あたしはよく憶えていない。
あたしと同じ黒髪の、森の外れに住んでいた薬師。
領主の一人娘だった母さんの病を癒した縁で結ばれたが、その特異な地位のせいで、領主の座を継ぐことはできなかった。
父さんの身内はとうに亡いと聞いている。母さんの父親が亡くなった時、ここは領主館ではなくなった。
元より母さんに労働能力はない。あたしとアルベールはまだ学生だ。父さんがいなくなった今、あたし達は母方の遺産を食い潰して生きている。使用人も昔はいたが、今はいない。あたしとアルベールがその代わりをせざるを得ない。
母さんは可哀想な人だ。
働く事を知らない。父さんを疑う事も知らない。今でも、帰ってくるのを信じて待っている。
母さんは父さんが好き。父さんに似ているあたしが好き。だけどアルベールは嫌い。母さんはすぐにアルベールを撲つ。
あたしが何か喋ると、母さんはあたしを誉める。そしてアルベールを貶す。だからあたしは喋らないことにしている。食卓はいつも無言になる。
朝食を食べ終わると、母さんは部屋に戻る。
アルベールがほっとしたように咀嚼を急ぎ始める。あたしは先に食事を終えて皿を片付け、二人分の鞄を用意する。その頃にはアルベールも食べ終わる。
「学校へ行く仕度をしなさい」
はい、とアルベールが答える。
制服に着替えて、あたしは鏡を覗き込む。あの忌々しい影が金の瞳であたしを見返す。何に映しても影は現れる。他人の瞳に映る姿でさえ。
こいつのせいで、あたしはまともに自分の顔を見た事がない。唯一写真の中でだけ、あたしは自分を見ることができる。
嗚呼──本当に気に入らない。
影のくせに、こいつの瞳の色はあたしとは違う。
金は女王の色、赤は魔女の色。古い童謡の一節が頭蓋骨の隅にこびりついて離れない。
──気に入らない。
気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。気に入らない。
「姉ちゃん」
アルベールが後ろから呼びかける。怯えた声が神経を逆撫でる。あたしは苛立ったまま振り向き、大袈裟にびくつくアルベールとすれ違う。
「行くわよ、アルベール」
「う、うん」
少し慌ててアルベールが追いかけてくる。あたし達は揃って屋敷を出る。荒れた庭を抜け、正門の前で立ち止まり、あたしは屋敷を振り仰いだ。アルベールがぶつかる寸前で足を止める。
「何やってるの」
「ご、ごめんなさい」
あたしが叱ると、アルベールが小さく身を縮める。あたしは視線を屋敷に戻す。
母さんは家から一歩も外に出ない。
あたし達が帰るまでの間一体何をしているのか、想像はつくが正確には知らない。
母さんは窓辺に座る。膝の上には写真立てがある。
あたし達家族四人が揃ったたった一枚の写真を取り出し、父さんの顔を指でなぞる。写真は少しずつ劣化する。思い返そうとすればするほど肖像は薄れていく。
最後にはぽっかりと穴が残る。
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