三日目(1)

 次の日の朝は、前日とはうってかわって、陰鬱とした雰囲気に満ちていた。


 空は分厚い雲に覆われ、窓から差し込む光は弱々しい。昨日の朝、目覚ましの代わりに耳をくすぐった心地よい波の音も、今朝は全く届かない。聞こえてくるのは、激しい風雨が無神経に窓を叩き続ける音ばかりだった。

 窓の外に目を向けると、既に海も荒れ始めていた。風にあおられた水面は大きく波打ち、昨日仄香たちが遊んだ砂浜にも、メレンゲのように白く泡立った波が絶え間なく押し寄せている。


 雨音のせいでアラームを設定した時刻より少し早く目覚めた仄香がダイニングに向かうと、台所から微かにグツグツと何かを茹でているような音が聞こえてきた。朝食の時間にはまだ早く、今は錦野が朝食の準備をしている最中だ。

 仄香は大きく欠伸をしながら、ゆったりと手を動かして言った。


「ああ、お腹すいた……今日の朝ごはんは何かな」


 台所から漂ってくるのは芳しいコンソメスープの香り。仄香が続けざまに二度目の大欠伸をしたのとほぼ同時に、霞夜もダイニングに姿を現した。


「あ、霞夜ちゃん。おはよう」

「おはよう。すごいね、外」


 まだ眠気が残っているのは霞夜も同様らしく、しきりに目をこすりながら深いため息をつく。そんな状態でも、ばっちりメイクを済ませているのは流石である。


「うん……まあ、こればっかりは仕方ないよ」

「予報では、二、三日はこんな調子なんだって? 随分呑気な台風だこと」

「ホントにね。もっとサーッと通り過ぎて行ってくれればいいのに」

「疾きこと風の如く、って武田信玄も言ってたのにね。風のくせに、これじゃあむしろ、動かざること山の如しだわ」

「はやき……? なあに、それ?」

「仄香は知らないか……いいよ、うん。忘れて」


 霞夜は武田信玄の、かの有名な風林火山の一節を引き合いに出して今回の台風の鈍足ぶりを愚痴ったが、仄香には全く伝わっていなかった。

 仄香と霞夜が窓から外を眺めながら大きな欠伸を繰り返していると、望と綸の二人も、揃ってダイニングにやってきた。時刻はまだ八時前。朝食は大体八時半ごろの予定なので、やはり随分早めの起床である。皆もう少し寝たかったはずだが、それだけ今朝の暴風雨がうるさかったということだろう。

 

「おや、皆早起きだね。みんな、ラジオ体操でもするの?」


 望がふざけた口調で言うと、隣で目を擦っている綸は欠伸を噛み殺しながら答えた。


「ラジオ体操! 懐かしいな~。ふわぁ……」


 結局我慢しきれず、望から顔を背けて大きな欠伸をした綸。欠伸のあと、仄香たちの姿に気付いた綸は、大欠伸を見られたせいか、若干気まずそうな表情で言った。


「おはよ。やっぱり仄香と霞夜も雨風の音で起こされちゃった感じ? すごいよね、この風。都内だったらビルとか建物である程度遮られるけど、ここは周りに何もないんだもん」


 望と綸も例に漏れず寝ぼけ眼で、今朝の早起きが不本意なものであったことが見て取れる。


「沖縄は昔から台風の被害が多かったから、家の周りに植樹して防風林にしたり、石垣の塀で囲んだりするらしいね。ここはどっちもないけど、大丈夫なの?」


 霞夜が尋ねると、仄香は苦笑を浮かべた。


「うん、まあ、今のところは……。この屋敷を建てるとき、台風対策をどうしようか、パパも悩んだらしいんだけどね。塀があると景観が良くないからって、結局作らないことにしたんだ。お屋敷自体は頑丈に作ってあるし、ガラスも強化ガラスを使ってあるから、危険はないはずだよ。そうは言っても、毎回心配になっちゃうけどね」


 この叩きつけるような雨音がなかったとしても、夏休みの朝八時半に起きることはかなり早起きの部類に入るし、そもそも普段から朝食を摂る習慣がない者もいる。目覚めの悪さは止むを得ないところだろう。

 霞夜がダイニングに揃った面々の気怠い顔を見渡しながら言った。


「爆睡してんのは嬰莉だけか。まあ、あの子らしいわ」

「嬰莉はさ、きっと自分のイビキがうるさいから、雨とか風の音ぐらいじゃ起きないんだと思うよ」


 綸が冗談めかして言うと、そこでどっと笑いが起こる。


「それな! 嬰莉ってさ、授業中の居眠りでも時々すげえイビキかいてるもんね」

「……おや、皆様、お早いお目覚めですね。もうそんな時間でしたかな……」


 仄香たちの話し声に気付いたらしく、エプロン姿の錦野がキッチンから顔を覗かせた。錦野はポケットから腕時計を取り出し、その小さな文字盤をためつすがめつしながら時刻を確認している。


「……ええと、八時……いや、七時五十八分ですか。いやはや、最近老眼が酷くなりまして、細かい字が見えなくなってしまいましてね。年は取りたくないものです。急いで朝食の支度を済ませますので、もう少々お待ちいただけますか」

「ああ、いえ、ちょっと早く目が覚めちゃっただけなので、お気になさらないでください」


 仄香はそう声をかけたが、


「いえいえ、そういうわけには参りませんよ。では、もうしばしご歓談を」


 錦野はにこやかに頭を下げて、台所へと戻っていった。


 昨日錦野が下半身を弄っている姿を直接見てしまったらしい綸だけは未だに錦野を気味悪がっているが、他の女子三人は、もうさほど気にしていない様子である。

 それから数分後、錦野は予定されていた時間より少し早めに朝食を運んできた。メニューはトーストに野菜のコンソメスープ、ポークソーセージ、フルーツ入りのヨーグルト。夕食の豪華さに比べるとかなり簡素なメニューではあるが、普段朝食を摂らない者もいるので、錦野の配慮で、敢えて軽めのメニューにしているらしい。

 朝食の皿が一通り食卓に並んでも、嬰莉の姿はまだ見えなかった。

 本来の朝食の時間からはまだ少し早いが、それにしても、そろそろ起きてダイニングに降りて来ていてもいい頃である。時間が経つとスープが冷めてしまうし、起きてこないからといって、嬰莉にだけ声をかけずに朝食を摂るわけにもいかない。


「寝坊かな? どうする? 誰か起こしてきた方がいいんじゃない?」


 霞夜が言うと、真っ先に立ち上がったのは綸だった。


「じゃあ、あたしが起こしてくるよ。昨日、あたしの部屋で夜中まで話し込んでたから、多分それで寝坊してるんだな」

「あ、そうなんだ。んじゃお願い、綸」

「りょ!」


 綸はサッと敬礼のジェスチャーをして、勢いよくダイニングを飛び出して行った。ぱたぱたと軽い足音が階段を昇り、不意に吹き付けた突風と雨音がそれをかき消す。

 望がふと、何か思い出したような表情で錦野に尋ねた。


「錦野さん、そういえば、こんな天気で、外の菜園やソーラーパネルは大丈夫なんですか? 海も荒れてるみたいだし、ボートだって……」


 すると、望の不安に同調するように、錦野も眉根を寄せて窓の外を眺める。


「ええ、実を言うと、私もそれが少々不安でして……。なにぶん、私も乙軒島での生活は日が浅いですし、台風も今回が初めてなのですよ。一応ボートに関しては、しっかり船着き場に係留されているか、昨夜まだ風があまり出ていないうちに確認しておきましたし、菜園の方は昨日の午後、全て支柱を立ててビニールを被せてあります。しかし、本当にこれで大丈夫なのかどうか……。前任の管理人から伺った対策を一通り施してみたのですが、やはり不安は拭えませんね。ただ、ソーラーパネルの方は、専門の業者が基礎から施工しているはずなので、ご心配には及ばないかと……。それに関しては、仄香さまの方がよくご存じなのではないでしょうか?」

「ボートの方は、ちゃんと繋いでおけば大丈夫なはず。少なくとも、これまでは流されるようなことはなかったよ。ソーラーパネルも、台風ぐらいではビクともしない。でも、菜園のほうはどうかな……。前に一度、物凄く強い台風が来たときに、ビニールごと飛ばされて、ほとんどダメになっちゃった時があったなぁ。ビニールぐらいしか対策がないから、結局どうしようもないんだけどね」


 仄香が答えると、錦野は深い溜め息をついた。


「やはりそうですか……。心配ですな……春に乙軒島にやって来てから、ずっと手塩にかけて育ててきた菜園ですし、どうにか無事であってほしいものですが……」


 と、錦野が窓の外へと視線を転じたその瞬間。


「きゃぁぁぁあああああああああああっ!!!!」


 錦野の言葉を遮り、雨音を切り裂いて、突如二階から綸の悲鳴が聞こえてきた。尋常ならざるその響きに、一同は驚いて顔を見合わせる。皆一様に困惑した表情を浮かべていたが、最初に口を開いたのは霞夜だった。


「な、何、今の……。綸の声だよね?」


 仄香は戸惑いながらも頷く。


「う、うん……何かあったのかな?」


 状況が飲み込めず、皆首を傾げるばかりだったが、真っ先に異変を察知した望が弾かれたように椅子から立ち上がった。


「階段で足を踏み外して、転んで怪我でもしてるかもしれない。行ってみよう!」




 望に続いて、錦野を含めた全員がダイニングを飛び出し、二階へと続く階段の前にやってきた。しかし、そこに綸の姿はない。階段で転んだわけではないようだ。


「階段じゃないみたいだね……」

「じゃあ、嬰莉の部屋に行ってみよう」


 率先して嬰莉の部屋に向かう望に続いて、全員が階段を駆け上がる。普段はどちらかと言えばのんびりしている望だが、こうした非常事態でのリーダーシップには目を見張るものがあり、それは望がクラスの人気者になった一因でもある。本人は頑なに謙遜しているが、口だけ達者な奴とは違い、いざという時に頼れるタイプなのだ。

 二階に辿り着くと、二階の左側中央の部屋、その開け放たれた扉の前で、腰が抜けたように床にへたりこむ綸の姿が見えた。


「綸!」


 望が名前を呼びながら真っ先に綸の元へ駆け寄る。綸は歯の根も合わぬ様子でガタガタ震えながら、嬰莉の部屋の中を見つめていた。望の声は確かに聞こえているはずだが、返事はおろか、振り返ることすらしない。

 望は綸の正面に回り、肩を揺すりながら声をかける。


「おい、綸、どうしたの? さっきの悲鳴は?」


 ようやく望の存在に気付いたらしい綸は、怯えたような瞳で望の顔をぼんやりと見上げ、次に仄香たちの方を振り返って緩慢な動作で見回した。綸は再び嬰莉の部屋へと視線を戻し、部屋の中を指差す。


「あ……あれ……嬰莉が……」


 綸に言われるまま、開け放たれた扉の向こう、彼女の指差す先へ目を向けると、そこには――。

 部屋の入り口からリビングへ向かう途中で、頭はリビングの方向へ、足を部屋の入り口に向けて、手足を投げ出し仰向けに倒れたまま動かない嬰莉の姿があった。

 ただ眠っているわけではないことは一目で理解できた。寝室に向かう途中で眠りこけてしまったわけでもない。

 タンクトップは無残に引き裂かれ、ショートパンツと下着はずり下ろされて、右足首に辛うじて引っかかっているのみ。華奢な体を隠すものはほとんどなく、全身が露わになっている。僅かに左に傾いだ顔、しかしその暗い瞳は何も見ていなかった。

 あまりにも異様な光景に、誰もすぐには状況が飲み込めず、全員が言葉を失った。だがそれだけではない。霞夜が、嬰莉の死体の更なる異変に気付いた。


「……ちょっと、あれ……あの、股から流れてるのって、もしかして……」


 霞夜の言葉に促されて死体の下半身を注視すると、そこには、凌辱の生々しい痕跡が残されていた。白く濁った粘着性のある液体――それが何なのか気付かないほど、彼女たちは子供ではなかった――が、嬰莉の下半身から床の絨毯へと流れ出していたのである。

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