芝居の境地
六文銭
芝居の境地
「ザキさん、こんなクソ寒い夜中になんの用ですか」
空気も凍るような寒さの夜、理由も告げずに俺を稽古場へ呼び出した小劇団の先輩、崎山に不満を隠さず声を掛けた。そこは、稽古場というより廃倉庫といったほうがしっくりくるボロ屋で、風が吹かないだけ外よりマシという状況だった。貧乏劇団ゆえ暖房器具など置いてすらない。
「おう、すまねぇな、森田。ちょっと見せたいもんがあってな」
「金貸してくれってのは無しですよ」
「そんなんじゃねぇよ。芝居の話だ、芝居の」
崎山はもう四十も半ば、芽の出ない役者だ。売れない理由は、今時となっては珍しい「飲む」「打つ」「買う」と三拍子を見事に揃えた素行の悪さが、業界中に知れ渡っているせいだった。どこぞの脚本家の奥さんに横恋慕して旦那に殺されかけただの、賭場で負けて裸で電車に乗って留置所に入れられただのと、逸話には事欠かない。
「今日はオメェにいいもんを見せてやろうと思ってさ」
俺とは二十も歳の離れた崎山だったが、なぜかウマがあった。俺は馬鹿みたいに破天荒な崎山の生き方が好きだったし、崎山も俺のことを愛弟子だと勝手に決めているようだった。
「なんですか、いい物って? もったい振らずに見せてくださいよ」
「慌てんな、慌てんな。今から見せてやるのは芝居の境地ってやつだ」
「芝居の境地?」
「そうだ。お前みたいな大根役者には辿りつけない、天才がその上に努力を重ねて重ねて、ようやく辿りつける境地ってやつだ。そう、俺みたいな天才がな」
傲慢な自慢を隠さず語る崎山。そう、ダメ人間の見本のような崎山だったが、こと芝居については誰もが否定できない大天才だった。威厳溢れる古代の大王から、女垂らしの二枚目、死を控えた哀れな囚人までどのような役でも完璧にこなしてみせた。
素行の悪さから何度も業界で干されたが、その都度、その才能を惜しむ者が崎山を助けてきた。そして、今はウチの劇団長が支援者というわけだ。
「俺だって努力すれば、なんとかなりますよ」
「いや、努力とかそういうレベルじゃねぇんだ、これは」
「レベルじゃないって?」
「まあ、見ろ。見れば解る」
そういうと、崎山は稽古場の中央へと向かった。ちょうど真ん中でこちらを向くと、しばしピクリとも動かず突っ立っていた。
「ザキさん、何を……」
話し掛けようとした瞬間、フワリと崎山の腕が上がった。その仕種に誘われ、俺の視線は自然に指先へと動く。毛深く浅黒い指は柔らかいものを掴むような動きを見せる。なにかのパントマイムかと思っていると、その空間に温かそうな毛皮のコートが唐突に現れた。ミンクだろうか金持ちの御婦人が着ていそうな美しい艶のある毛皮だ。
ふと、そのコートを撫でるように触っている手が細く白い青磁ようなそれに変わっていることに気付いた。爪は長く、美しく磨かれ真紅に彩られていた。
驚いて手の主を確かめようとすると、その目の動きを先回りするように毛皮のコートが動き、誰かの肩に掛けられた。
そこには、美しく長い黒髪を持つ女性が立っていた。手と同じく白い肢体は、透き通るように美しい。豊かな胸、スッキリと細い腰、スラリと長い脚。まるでギリシアの彫刻のように完璧なバランスを計算して創られたような肉体。
そして、その美しい身体は毛皮のコート以外になにも身につけていなかった。
「どう、驚いた?」
鈴が鳴るようなとは、まさにこの声を形容するために生まれた言葉ではないか。そう思わせる心地好く色気を含んだソプラノ。
「な、君は一体……」
「ふふふっ」
動作一つ一つが男の心を奪うために計算されているかのような、ゆっくりとした身のこなしで近づいて来る彼女に見蕩れ、俺は何もできない。気付いた時には、彼女はその化粧と香水の香りが感じられるほどに迫っていた。
スッとその両手が添えられ、俺の頭は彼女のほうに強く引き寄せられた。
鼻腔に感じられる甘い香りがより一層強くなった。いや、それだけじゃない。唇を柔らかく心地好い温かさが包み込んでいる。
それは、ほんの一瞬に過ぎない軽いキスだった。しかし、強烈なキスだった。力が抜けへたり込む俺。それを見て、笑みを浮かべる彼女。俺は爽やかな笑みをずっと眺めていたかった。
「どうかしら」
「どうって?」
そういったかと思うと、その笑みは賎しい卑下たものへと変わった。
「芝居の境地ってヤツさ」
ゆっくりと溜めてからそう言われて、ハッと思い出す。稽古場にいたのは俺と崎山の2人だけだったはず。ということは、目の前にいる女性は……。
「もしかして、あなたは崎山さん?」
「そうよ、どう? これが芝居の境地、融通無碍の心とでも呼ぶのかしら。如何様にもなりて、何者にも在らず。役者としての究極の悟りね」
まったく信じられない。自慢げな内容はともかく、姿形、声、そして微かに届く香水の香りまで完璧に女そのものだ。
「一体どうやったら、こんなことが。女に変身するなんて……」
「違うわ」
「えっ?」
女は少し考えてから、ニヤリと笑ってこう言った。
「あなた、携帯電話を持ってるでしょ。そのカメラで私を撮ってごらん」
「は、はい」
俺がポケットから携帯を取り出してレンズをそちらに向けると、女はおもむろにコートを脱ぎはじめた。
「な、なにを?」
「喜びなさいよ。ヌードを撮らせてあげるんだから」
すでに、コートは投げ捨てられていた。まるで、夢のようだ。思わず、生唾を飲み込みながら、俺はひたすら携帯のシャッターを押しつづけた。
「どうかしら、綺麗に撮ってくれた」
彼女はそう言って、携帯の画面を覗き込む。再び甘い香水の香りに包まれ、俺は夢見心地のまま、さっき撮った画像を表示させた。
「え、ええええぇ!?」
携帯に写っているのは、目の前の美女ではなく、むさい無精髭を生やした崎山だった。確かに俺は裸の女体を撮影したのに、四十路男がいつもの古ぼけたジャンパーを着てポーズをとっていた。
「まぁ、一種の催眠術と言ったほうが解りやすいかしら。崎山さんの超人的な演技に貴方は魅了されているの。それで私の姿を意識の中に投影しているのよ。携帯のカメラは機械だからそんなもの関係なく事実を写すのだけど」
「で、でも確かに君はここにいるし、香水の香りだって」
「それも錯覚。貴方が私の所作を見て、そんな香りを感じたつもりになっているの。その人が纏う雰囲気、香りまでも観客に感じさせる演技というものよ」
彼女が語っている理屈を頭では理解できたが、目の前に‘いる’女性が実際にはむさいオッサンであるという事実を信じることは難しかった。最早、演技力というよりも魔法と言った方がいい現象だった。
「まだ実感できていないみたいね。じゃあ、こういうのを見たらどうかしら」
いたずらを思いついたようにニコリと笑うと、彼女は俺から離れて再び稽古場の中央へ移動した。
スッと彼女の脚が上がる。美しい脚線美に誘われるように、思わず視線がその動きを追ってしまう。
すると突然、艶かしかった脚の動きに力強さを感じた。いや、脚自体も太く筋肉隆々としたものに変わっている。太い脚は高々と上げられ、振り下ろされる。
ズドン! と地響きをさせ地面を踏みしめる足。ああ、これは地中の魑魅魍魎を払う相撲の四股だと思った瞬間、目の前から美女は姿を消し、2メートルはあろうかという力士が現れた。均整の取れた肉体、風格を感じさせる立ち姿。美しい化粧回し。江戸時代の名力士、雷電為右衛門はこういう姿だったのだろうと思わされた雄姿がそこにあった。
「ごっつぁんです。どうでございましょう、まだ信じられませぬか。では、これはいかがでございましょう」
力士は四股を踏むと、グッと両脚を広げて構えジリジリと体を起こしていく。見事な雲竜型の土俵入りだと思った瞬間、その動きが妖艶で艶かしいものに変わった。
いつの間にか、筋肉を覆っていた身体中の脂肪は胸に集まり、見事なお椀型の乳房を形づくっていた。腰はくびれ、尻には程よく肉が乗っている。その肌は小麦色に焼け、実に健康的だ。顔は最近見た雑誌に載っていたグラビアアイドルそのものだ、確か愛撫早希とかいったはずだ。いや、グラビアで見たままではない。先ほどの力士姿と同様に、上半身には何も纏っていない。ただ、化粧回しがあった腰には、ビキニとパレオが巻かれていた。
「どうですか? これで信じちゃえましたか。それともここまでしないとダメですか」
早希ちゃんは溌剌とした笑顔でそういうと、ススっと近づいてくる。そして、ぎゅっと俺の胸に抱きついた。グッと押し付けられた柔らかい脂肪の塊を感じ、何ともいえない幸せな気持ちになった。
「早希ちゃん、俺……」
思わず、彼女の身体を抱きしめる。肉感的な胸に比べ、か細い腰、華奢な肩。男として弱い彼女を守らねばという保護欲が心の奥から湧き上がる。
「君のことを守るから」
「うれしい、森田さん。でも、私がこんな姿でも」
少し身体を離し、俺の顔を見つめる彼女。ニッコリと笑う口元に妖しい気配がよぎったかと思うと、突如その口が裂け無数の牙が現れた。そして、俺の首元に食らいつこうとした。
「うわああああぁ!!」
俺は、恐怖のあまり飛び上がり、そのまま稽古場の床に倒れ込んだ。目の前にいた女の子は牙の生えた口から粘液を垂れ流すエイリアンと化していた。粘ついた鱗状の皮膚は黒光りし、異形の手足には鋭い鉤爪が生えている。頭にある8つの眼らしきモノが青白く発光していた。
「Guyyyygyuuuduu」
何とも言えぬ不安感を掻き立てる唸り声をあげるエイリアン。恐怖で気を失いそうになった瞬間、その威圧感が突如消えた。
「ははは、なんて様だよ、森田よ。普段、強がってる癖にだらしがねぇじゃねぇか」
崎山の声だ。そう思うと、大笑いしている崎山が目の前に立っていた。
「どうだい、俺の言う芝居の境地ってのがどういうものか、わかったろ」
そうだ。今、俺が見た物すべては崎山の芝居が作り出した幻だったのだ。何という芸だろうか。いや、これはもう芸というレベルを超えている。超能力と言っていい力だった。
「何というか、スゴイとしか言いようがありません。舞台でこの技を見せれば名役者、いや、歴史に名を残すような大俳優になれますよ、ザキさん」
興奮して話す俺を尻目に、崎山は冷めた表情でこう言った。
「いやいや、こんなもの観せたって手品と変わりゃあしねぇ。だいたい舞台ってのは一人がいくら上手くてダメさ。ホンに監督、脇役、舞台、小道具までよくてこその大俳優よ。俺の周りはヘボばっかりだからよ。すぐにゃ、うまくいかんのよ」
「そうっスか」
崎山の言うヘボの中に自分も含まれていることに気づき、俺は不機嫌になった。自分なりに努力はしているのに役者として限界を感じている、それが事実であるだけに余計に腹立たしかった。
「で、こんな夜更けにわざわざその手品を見せるために俺を呼んだんですか」
崎山が気づく様に、皮肉たっぷりの口調で言い返す。だが、それには全く気づかないまま崎山は俺に近寄り、こう切り出した。
「それなんだ。実は、ヤーさんのイロに手を出しちゃってよ。近々に金がいるんだわ。100万ほど詫び代ださねぇと、海に沈められそうでよ。ははは」
悪びれることもなく、まるで反省などしていないかのように崎山は笑っていた。また女絡みのトラブルかと思い、俺は頭を抱える。
「で、この力を使って金儲けをしようと思ったんだがよぉ。詐欺とか美人局とか、悪りぃことすると目覚めが悪いだろ」
「まぁ、そうッスね」
「あと、この力も欠点があってさ。こんなふうに一度魅了させてしまえば、演技をやめない限りどんな姿にでもなれるんだが、最初は俺の姿を見せなきゃいかん。それがなんとも都合が悪いさ」
なるほど、いきなり何かに変化した状態では観客の前に出れないわけか。いくら変幻自在でも、目の前で崎山の姿だったことを見せられては美人局は無理だ。詐欺やらの犯罪にしても、一度自分の姿を見せたら疑われるのは避けられない。
「そんなわけで力の使い途に困ってよ。そこでお前さんだ。お前は演技は大根だが、悪知恵だけは人一倍働きやがる。きっといいアイディアを思いつくと思ってさ。なぁ、頼む! 俺を助けると思って金儲けの方法を考えてくれよ」
人を大根役者呼ばわりした上で、なんていう厚かましさだろう。確かにすげえ魔法みたいな力だが、そんな制約があったら都合良く金儲けなんかに使え……るかもしれない。
「ザキさん、俺がバイトしてる「紅い風車」って店知ってますよね」
「ああ、ブスが舞台で脱いでるキャバレーだろ、知ってるよ」
「そこの舞台に出ませんか?」
「ああ、俺がストリッパーになってポールダンスでも見せるのか。そりゃダメだな、舞台でも初っ端は俺の姿だ。いくらバカどもでも、そんなもん見せられたらおっ勃たねぇよ」
「まあ、俺の考えを聞いてくださいよ」
……………
…………
………
……
…
その週末、俺は紅い風車でボーイのバイトをしながら舞台を見ていた。
「すごいよね! 森田君が紹介してくれた崎山さん。お陰で大盛況だよ、これは話題になるよ、お客さんくるよ!」
俺の隣に店の支配人がやって来て話しかけてきた。その表情はニヤニヤとお客の反応を見て喜びにあふれている。
舞台では、崎山が“手品”を観せていた。シルクハットと燕尾服を着た魔術師ザキヤマが次々と姿を変えていく変身マジックショーだ。ビロードのマントを翻す度にザキヤマが姿を変える、魔術師から犬に、犬からトラに、そしてトラからスタイル抜群の美女に。
美女が現れると、観客は大興奮。さらに、その美女が一枚ずつ衣装を脱ぎ捨て、美しい裸体を晒すストリップショーへと移行していく。
時々、美女から先ほどのトラを思わせるケモノ少女への変身などをはさみ、マジックストリップショーはすっかり酔客たちを魅了していた。
「これなら、支度金もっと弾んでもよかったよ」
「そうですね」
あの後、俺は崎山と紅い風車に行き支配人に“手品”を見せた。手品ということにしておけば、崎山の演技は誰もが不思議には思ってもタネがあると思い込んでくれる。一応、高級会員制キャバレーである紅い風車はカメラ撮影は厳禁。大物政治家が舞台の女の子たちを見て、涎を垂らしている姿など撮られては困るからだ。
面接として試演を観た支配人は、魔術師ザキヤマの出演の支度金として100万円を肩代わりしてくれた。これで崎山の問題は解決した。
人間としてはクズである崎山だが、芸事に関してだけは実に誠実で、途中で舞台を投げ出す心配はない。それがたとえストリップショーだとしてもだ。
そして、俺もーー
「その分、俺への紹介料を弾んで下さいよ、支配人」
「いいよ、いいよ。お安い御用さ」
これが「芸は身を助ける」っていうやつなんだろうな。それがたとえ他人の芸であってもだ。
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