第49話4.なびく潮風の向こうに

 病院を退院して1か月がたった。

 桜の花は満開に咲き誇り、あの固い蕾の姿はもうどこにも見る事は無い。

 そして私は休学していた高校を退学した。

 もう一年留年をして通う事も出来たが、私には高校に通う気はなかった。

 新しい生活……何だろう。今まで親戚と呼べるかどうかも分からない所をたらい回しされたせいかもしれないが、新しい生活が始まったんだと言う新鮮さは不思議と生まれてこなかった。

 おばさんは私の事に詮索はしない。

 かと言って今までの様に腫物に障る様な感じでもない。

 ただ、お互いにまだ遠慮しているのだ。

 親子ではない。そして今まで知らなかった人の家。

「あなたの家なんだから遠慮しないで」と言われたが、実際どうおばさんと接していったらいいのかがわからい。

 将哉さんは「それでいいよ。あせる必要もそして、自分を責める必要もないんだ」

 そう自分にも言い聞かせるように私に言う。

 後で知った事だけど将哉さん、杉村先生は本当はまだ研修中の先生だった事。そしてこの春その研修が終わり精神科への本格的な研修が始まる。

 新たな世界へ将哉さんも向かっている。

 おばさんが休みの日、裏にある小さな畑に種を一緒に蒔いた。

「ちゃんと芽が出るといいね」

「そ、そうですね」

 何となく会話もまだぎこちない。実際私はそのぎこちなさが歯がゆい感じがしてたまらない。

 そんな私をおばさんはただ暖かく見守ってくれている。

 2週間ごとに外来へ診察を受けに病院に行く。診察してくれる先生は杉村先生、将哉さんじゃない。だけど、診察が終わると将哉さんを病院の中で探し出し、小さく手をふる。いつも彼はそれに気づき彼もまた小さく手を上げる。

 見ていると本当に忙しそうにも見える。でも、彼の動きは穏やかだ。あせりつまずきそうになる様なそんな姿は感じられない。

 一つ一つを確実に何かに向かい動いているようにも見えた。


 5月の連休を前に将哉さんにある事をお願いしてみた。

 それは……


 それは、私がいたあの宮城の地へ一度行ってみたいと。


 将哉さんはすぐには返事を返さなかった。

 そして一言

「まだ、巳美ちゃんには辛すぎないか」

 それでも一度、あの海に私は行きたかった。いいえ、今の私を変えなければと芽生えた気持ちが、またあの海に私のこの弱い気持ちを捨てに行きたかった。

 海は私の気持ちを捨てる場所……

 いろんなことを私はまだ引きずっている。

 あの海に、私は捨てる。

 私のこの弱さを。例えまたあの恐怖がよみがえようとも私はあの海に行きたかった。私のすべてを捨て、私のすべてを奪った海に。

 震災からすでに1年以上が過ぎた。

 未だに福島の原子力発電所からの放射能汚染については対応に迫られた報道がなされている。

 現地の状況はすっかり変わり果てている事も流れるテレビの映像から知っている。

 実際、あの海……あの防波堤の所まで行けるかどうかさえも解らない。

 それでも私はあの海に向かいったかった。

 数日後、将哉さんから連絡があった。

「担当の先生からも僕が一緒に行く事で了解をもらったよ。連休中は僕も仕事が入っているから連休が終わったころでもいいかな」

「うん、ありがとう将哉さん」


 本当に行けるとは思ってもいなかった。

 恐怖がないと言えば嘘になる。

 まだあの恐怖と悔しさはこの体の中に潜んでいる。

 だけど私は向かわなければいけないあの海に……


 将哉さんの運転する車で私はあの想い出の地、そして私の心の中に大きな苦しみを植え込んだあの地へと向かった。


 高速道路はある程度復旧はなされていたが、将哉さんもいろいろと情報を集めてくれて高速道路は一部のみの区間を利用し後は一般道を走った。

 途中

「本当に大丈夫か? 今ならまだ引き返す時間は十分にある」と私に尋ねて来た。

 それでも私は「行く」と一言応えた。

 海に近づくにつれ外の景色は今までとは違う景色が目に入りだした。

 崩れた家、誰もいない建物。いたるところのある進入禁止の看板の姿。

 もうあの頃の面影は見ることは出来ない景色が続いた。

 将哉さんは私のいた地域の近くから出来るだけ海辺に行ける所を探しながら車を走らせる。

 ほんの1年前まで居た所なのに立ち並ぶ家も無くなり更地となったところをいつまでも車は走り抜ける。

 建物は何もなくなっていたが何となく見覚えのある所。

 車を止めてもらった。

 そして降りてその場所を歩き出す。

 流れ倒されたガレキはすでにきれいに片付けられていた。

 見覚えのある雰囲気がする。その光景は全く変わってしまったけど、確かに私はここに懐かしを感じる。

 ある家があっただろうと思われるところで私の足は止まった。

 何もなくなったところ、でも私の目にはちゃんと家があり玄関があってお母さんが玄関口から出てくるのが見える。


 そう、ここは私が住んでいた家があった場所だった。


 ただ、その場所を眺め涙を流す。

 将哉さんがそっと肩に手を添えて

「ここ、巳美ちゃんの家があった場所何だろ」

 こくりとうなずいた。

「そうか、これてよかったね」

 またうなずいた。

 何もなくなっていた。本当に何もなくなっていた。

 湧き上がるお母さんとの暮らしたあの日々が浮かび上がりそして消えていく。

 そして海の方に顔を上げた。

 いつもの防波堤はすぐそこにある。

 車で行くほどではないがここに車を置いていくわけにはいかない。また車はゆっくりと動きだしそして、いけるギリギリの所で止まった。

 進入禁止の立て札があったが車を降りて私は防波堤へ歩き出した。

 一部崩れ壊れてしまったところもあった、でも私がいつも、

 いつも私と和也と一緒にいた所は無事だった。


 その防波堤にあがり、私は海を眺める。

 変わり果てた景色、でも海の姿は変わらない。

 潮風が私の髪を静かにたなびかせる。


 ようやく来ることが出来た。そして、ようやく戻ることが出来た。

 私を、私達を襲った海。

 その姿は今どこにもない。


 海面は陽の光に照らされ、テトラポットの下を静かに波がよせていた。


 広くどこまでも広がるその海を眺め私は、この海に自分の心の中にある弱さを投げ捨てようとした。

 いつも私がここで自分をこの海に投げ捨てていたように……

 でも海は、私が久しぶりに来たこの海は、その弱い私の心を捨てさせてはくれなかった。

 海が語る。

 その弱さは捨ててはいけないと。

 初めて海が私に応えてくれた。


 あなたが想っている弱さは、本当は強さなんだと。


 海が私に教えてくれた。


 もろく、そして儚い人の心。

 その心を支え、支えられるのは、その弱い心があるからこそ出来る。

 そしてその心があるからこそ人は強く生きる事が出来るんだと


 そのなびく潮風は私の中に語り掛けてくる。


 そしていま私の傍にいてくれるのは将哉さん。もう和也は私の傍に寄り添う事は無いでも心の中でいつも彼は生きている。

 それは将哉さんも同じだろう。

 彼の心の中には今も歩実香さんが生きている。


「ねぇ、将哉さん」

「なんだい。巳美ちゃん」

 将哉さんも真っすぐ私が望む海を見つめている。


「……私、将哉さんが好き」


 一言この海に向けて言い放った。

「将哉さんの心の中に歩実香さんが生きていても私は……あなたが好きです」


 僕は……

 僕は一生歩実香の事はこの僕の中から消し去ることは出来ないだろう。

 だけど、僕も新たな自分を迎え入れなければいけない。

 歩実香によく似た彼女。

 始めは歩実香の面影を追い僕は彼女に想いを重ねた。

 その想いは日ごとに変わりその姿が今はっきりと見えた。

 彼女は歩実香じゃない。でも……僕の今一番支えになっているのは彼女の存在だ。


「もう意地張るんじゃないの。将哉」

 歩実香の声……いや、これは自分の声だ

 僕は

 僕は彼女にキスをした。

「これが答え」と静かに離れ彼女に言った。

「もう、いきなりだったからびっくりしたじゃない」

 私の心臓はドクンドクンと音をたて、顔が熱くなるのを感じていた。

「ごめん、でも僕のホントの気持ちだ」

「馬鹿、本当に馬鹿なんだから、いきなりキスで答える? 将哉っていつも……ごめんなさい」

 ふと歩実香の姿が彼女にかぶる。


「将哉、幸せになってね」

 潮風がその言葉を僕の耳に運んでくれた。

 そして、この広い海に彼女、歩実香の姿と声は消えていった。


 一つの想いが、新たな想いを呼んでくれた。


 まだ心臓はドキドキしている。でも嬉しかった。

 そっと彼の肩に寄り添った。

「私ここに来たかった理由もう一つあるの」

「それは?」

「それはねぇ、私の目標。その目標を現実のものにしたいからこの海に誓いに来たかったの」

「巳美ちゃんの目標って?」

 少し防波堤にあたる波が強くなり、潮風が私達二人の体にまといつく様に流れ始めた。


「私も医者になる事」


 彼女、蒔野巳美も一つの大きな目標を持ち、そして一歩を歩みだし始めた。






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