第36話4.私が昇るべき梯子

「和也……また来てくれたんだ」


 降りしきる雨の中、蒔野巳美は俺の腕の中で意識を失った。

 元々体力は衰弱していた、そこにこの時期の冷たい雨が彼女の躰に負担をかけたのだろう。高熱を出し、三日間彼女は熱にうなされた。

 何も可もが裏目に出る。

 僕のやって来た事は全て無意味な事だったんだろうか……

 歩実香の母親から言われた言葉


「あなたは何もわかっていなかった。私の事もそしてあなたが一番大切だと思っていた歩実香の事さえも」


 何がわかっていなかったと言うのだ

 僕は、いや、俺は歩実香に何もしてあげれなかった自分を責めている。それは誰がそうしろと言っているものでも、言われた事でもない。


 ただ己がそうしろと、そうしなければいけないと、あの日に決めた事だから……


 ◇◇


 潮風が防波堤に立つ私の髪をたなびかせる。

 広がる海に霞が空と海との境をぼかしていた。

 この防波堤に立つと私は自分の本当の気持ちをさらけ出す事が出来る。

 そして、心の中にたまったもう一人の自分をいつも投げ捨てていた。

 そこにいつも彼はやってくる。

 本当の自分の姿をさらけ出している私の姿を彼はあの優しい瞳でいつも見つめてくれていた。

 私は幸せなのだろうか?

 それはわからない……でも今、私の傍にはいつも私の事を想ってくれている人がいる。その想いはいつもぶっきらぼうで、無口で、そしてとてもあたたかい。

 その暖かい心に包まれると私の心までも暖かくなる。


 私は思い出した。

 いつも私の夢の中に出てくる人の事を……

 大島和也おおしまかずや

 彼の事を……


 和也……ようやくまた出会えた。

 また一緒に和也と一緒にいられる。私はそれだけでいい。彼の傍に……離れる事のない二人の世界に私は……


 和也の元に手を差し伸べた。

 でも……和也は私の手を掴んではくれなかった。

 どうして和也、私よ……巳美。もう忘れたの?

 ただ潮風だけが二人のその隙間に流れ込んでいく

 悲しそうな彼のその顔が今は、はっきりと私には見える。


 そんな悲しい顔しないでよ


 ようやくまた会えたんだんだから……だから、だから、和也


「巳美、駄目なんだ……巳美、俺……」

「駄目って何?和也どうしちゃったの」

 無理やり作り笑いをする和也

 その横にもう一人誰かの姿が見え始めた。

「お母さん」

「お母さんどうして、お母さんは……お母さんは……」

「巳美、大丈夫よ。あなたなら大丈夫。きっと乗り越えられる、どんなに辛くても。あなたは私の娘なのよ。もう私がいなくたってきっとちゃんとやっていける。信じているから」

「お母さん。どうしてそんなこと言うの。私を連れて行って……お母さんの所に、私謝らないとお母さんに謝らないと……」


 あの日の朝私はお母さんと喧嘩した。本当に些細な事だった。お気に入りのハンカチがなかっただけなのに。

 あの日はなぜかはわからないけど、どうしてもあのハンカチを持っていきたかった。でもそのハンカチがなかった

 ただ単に洗濯が終わっていなかっただけだったのに。

 私のために生活のために自分の身を犠牲にして夜遅くまでいいえ昼夜なく働くお母さんがいたからこそ、私は生きてこれたのに


「もういいの……謝らなければいけないのは私の方。あなたに寂しい想いと辛い想いばかりさせていた私の方があなたに謝らないといないから」

「そんな事、そんな事なんでもなかった。悪いのは私なんだから、私が私が……」

「そんなに自分をせめては駄目よ。あなたは苦しい事悲しいことをこの海にいつも捨てに来ていたんでしょ。いいのよ。本当に苦しんでいたのは貴方なんだから」


「幸せになってね……巳美」


 そんな、お母さん、お母さん……お母さん

 急に風が冷たくなった。

 雪が静かに落ち始めていた。

 身を刺すような冷たい風

 どんよりとした薄暗い雲の空……



 時が逆走し始めた。戻ってはいけないあの時に……



 ガタンガタン、

「どうしたんだよ。急に早引きして帰るなんて」

 電車のドアが閉まる寸前に和也は乗り込んできた

「なんでもないわよ。今日はちょっと気分が悪かったから」

「巳美、朝から元気なかったからな。風邪でも引いたのか?」

「そんなんじゃないわよ。それに和也も早引きすることなかったんじゃない」

「まったくよう。ほっとけねぇーだろ」

 ぶっきらぼうに言う彼のその言葉になんだか気持ちが反応し始めて来た。

「まったく!」

 そんな事を言っていたけど本当はうれしかった。私の事心配してくれていた事に。

 ガタンガタン、2両編成の車内には珍しく誰も乗っていなかった。

 私たち二人だけしかいない空間。ガタンガタンと電車は音をたて進んでいく。

 そっと和也の手が私の手を握る。

 暖かくてちょっとごつごつした大きな手

 外は薄暗く小雪が流れる窓の景色を寂しくさせていた。

 駅に着いた私たちは手を繋いだまま、家には戻らずいつもの防波堤に向かった。

 その日は3月になるのにまだ雪が落ちてくるような寒い日だった。

 海から流れる風はいつにもまして冷たく、そして強かった。

 今日は、3月11日。

 この日は私は嫌いだ。お父さんが家を出て行った日……お母さんと二人っきりの生活が始まった日だったから


 いつもの様に防波堤から海を眺めた。


 今日の海はいつもと違ってなんだか私を拒絶している様に感じる。

 今日の海は私を受け入れてくれない。

 私はこの海に自分を捨てすぎたのだろうか。もうこの海にさえ捨てることが出来なくなってしまったんだろうか……

 涙が頬を伝わって落ちる。

「どうした?」

 和也が私の顔を覗きこむようにして言う。

 何も答えない私、開かない口に和也の唇がそっと重なった。

 あたたかい和也の唇が私の心を少しづつ溶かしてくれているような感じがする。

 誰もいない防波堤

 小雪が静かに落ちる中、私たちはお互いの体を重ね合わせるように唇をずっと重ね合わせていた。

 込み上げる涙と共に心が温かくなる。

 14時30分もうじき学校の授業も終わるころだろう。

 和也のぬくもりが私の中に入り込んで行くたびにもっと彼の暖かさを求め始める自分がいた。

 私の心は……今日は冷たい。でも彼の暖かさが伝わる度にその心は暖められる。

 また……彼の躰すべてで私を暖めてほしい。

 そうこの冷え切った私の躰と心を

 和也の躰にしがみつく様に私は彼の温もりを感じ取る。もっと、もっと彼のぬくもりをじかに感じたい。


 和也の肌と私のすべての肌が始めて触れ合ったのは、私の誕生日にあったお祭り、あの花火を三人で観た日から一週間後の事だった。

 初めて触れる男性の肌。

 緊張してこわばる私の躰を和也は暖めてくれた。ううん、躰じゃない、私のこの心を暖めてくれた。

 あの暖かさを私は求めた。求めそして求め合った。和也の、私の暖かさを彼の傷ついた心に入り込むように……

 次の日、和ちゃんに呼び止められた私は

「巳美、ようやく結ばれたみたいね。おめでとう」と耳元でささやかれた。

「馬鹿、和也あんたに言ったの?」顔が見る見るうちに赤くなった。

「やっぱりそうなんだ」

 え!……

「ほんと巳美こそ馬鹿ねぇ。和也が言う訳ないじゃない。いくら私との中でも」

「それじゃ……ど、どうして」

「そりゃ、解るわよあんたのその落ち着かない様子見てるとね。今日和也と目合わせようともしないんだもん」

「そ、そんな……だって……」

「だってはいいから、ま、和也は私が許した奴だからいいんだけど、今度はちゃんと私とも相手してくれないと嫉妬しちゃうからね」

 え!……マジで?

「そ、マジで!だって私も巳美の恋人なんだもの。愛してもらう権利くらいあるでしょ」

「で、でも……」

「和也になら遠慮することないと思うんだけどなぁ。だって私和也にはちゃんと言ってあるんだもん。巳美を愛してますって。だから大丈夫。それにもう男はこりごり私は巳美がいればそれでいいから」

 そんな事を言われながら唖然としていたけど、結局和ちゃんとも愛し合っている私は何だろう。

「巳美、あなたこっちの方が才能あるかもよ」

 私はどっちでもいける女なんだろうか?自己嫌悪に陥る。

 ちょっと……いや、かなりアブノーマルな関係かもしれないけど、私はこのふたりを本当に愛している。

 別々な意味で……。和也は私に安らぎと暖かさを与えてくれる。和ちゃんは私を同性と言う枠を超えて一つになったような感じがする。

 でも、私の心の中に一番、一番入り込んでいるのは和也だ。


 いつしか……和也と私にその時が来たら、私は彼の子を宿したい。

 それがいつの日の事になるのかはわからないけど、このお腹の中に彼の子を宿し育てたい。彼、和也と共に……息絶える日まで……


「巳美、帰るか。いつまでもここにいたらほんとに風邪引いてしまうぞ」

 少し躰は火照っていて寒さは感じなかったけど……頷いた。


 防波堤から降りて家に向かおうとした。



 2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒


 一瞬空の色が変わったような気がした瞬間


 大地は……海は……


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