第30話3.あなたへ

「よく来てくれたね辻岡さん」

 私は彼、真壁信二まかべしんじ医師が強引に予約を入れたその日、彼の診察室に赴いた。

 モニターを見ながら彼は呟く

「ふーん、そうか……」

「ねぇ辻岡さん。お薬ちゃんと飲んでいるよね」

「はい、飲んではいますけど」

「そっかぁ、じゃ、最近食欲落ちてきていない?」

「………あんまり食欲は、ない、です」

「だろうね。この薬の副作用なんだ」モニターに記載されている処方記録を指さした。

「お薬変えてみよう。まずは食べることを最優先させないと。栄養が取れないと躰が弱るからね。心は健康な躰でないと元に戻せないんだよ」

 意外とまともなこと言うんだこの先生。

「ん、どうした」

 先生の顔を見ていると不思議そうに私の顔を見て言葉を返す。

「以外だなぁって。ちゃんと仕事してるんですね」

「参ったなぁ、僕ってそんなに評判悪いのかなぁ」

「めちゃくちゃ悪いですよ」

「ほんとに?」

「ええ、看護師仲では真壁先生には気をつけろが暗黙の了解ですからね」

「はぁ、そんなにひどいんだ。確かにあんまり好かれてはいないと思っていたんだけど、そこまでひどいとは」

 彼ははにかみながら頭を掻いた。

 その表情がどことなく将哉の表情に似ているような感じがした。

 そして肩をがっくりと落として、寂しそうに

「じつはね、僕結婚を前提に付き合っていた彼女がいたんだ。彼女もこの病院の看護師でね、今はもう退職しているんだけど……」

「そうだったんですか?でもどうして」

 真壁は顔を上げ照れ臭そうに

「はははは、僕二股かけられていたんだ。彼女別の病院の医師とも付き合っていてね。いきなり、私結婚しますから僕との婚約は解消しますって」

「ひどい……」

「まぁそこまでだったら、僕と彼女の問題だけだったんだろうけど、僕たちこの病院では付き合っているのはみんな知っていたからね。彼女もバツが悪かったんだろう。みんなに僕が二股かけていたようなことを言いふらしてこの病院を早々に辞めていったよ」

「だからあんなうわさが……」

「だろうね」

「それじゃ先生の方が被害者じゃないですか。私そういうのって物凄く許せないんです」

「解っているよ。でもね、今思えば僕にも非がなかったと言えばそれは嘘になると思うからね」

「じゃぁ、やっぱり先生も二股かけていたんですか?」

「いいや僕はそんなことは絶対にしないよ。これでも僕は想った人、僕は本当に愛した人には一筋なんだ。それでも彼女には僕の想いは完全に届いていなかったんだと思う。彼女の気持ちをしっかりとつかむことが出来ていなかったんだと思うんだ。そして彼女を理解してやることを僕は怠った。だから彼女は僕を見切ったんだと思う。僕はそれを素直に受け止めただけさ」

 この話が本当なのかは分からない。

 それでも彼の瞳には遠くを見ているようなそんな悲しみ苦しみを見る事が出来る。

 同じとは言えないけど、私も今、将哉と離れて暮らしている。その辛さは身をもって今この躰を苦しませている。

 だからだろうか、嘘をついているようには思えない。そしてこの人のやさしさと強さを私は少し感じた。

 将哉が私を思ってくれているかのような感覚が今この真壁信二を目の前にして湧き上がる様な気がした。

「噂ってホントあてにならないものですね」

「なぁ辻岡さん、この話、ここだけの事にしておいてくれないか」

「どうしてですか先生は何も悪くはないんだから堂々と否定なさればいいんじゃないんですか」

「いいんだよ。僕が騒ぎ立てれば、僕自体がみじめになるからね。どっちに転んでも僕の立場は良くならない。それなら今の方がまだましだよ。医者としての立場は少なからずもここでは保たれているからね」

 確かに看護師仲間の間ではあんな風に言われているけど、医師としてはみんな彼の事は認めているし尊敬はしている。

 彼は医師としての自分の道を選んだんだ。

「解りました。この話はここだけの事にしておきます」

「そうしてもらうとありがたいよ。それじゃ、お薬処方しておくから……それと」

 少し話しづらそうに

「辻岡さんの彼氏、多分物凄く頑張っていると思う。僕なんか足元にも及ばないくらいにね。僕はあの初期研修の2年間ただ、その時間を消化すればいいとばかり思っていた。でも今になって思うよ。あの時の時間は医師として決して忘れてはいけない時間であって本当に大切な時間だったと言う事を」


 君の彼は良い医者になれると思う。そしてその彼を君は影ながら思い支えている。

 羨ましいよ

 僕にあの時君の様な女性が傍にいてくれたら今の僕は変わっていたのかもしれない。

 君が今心を患ってまでも彼の事を想い、耐えているのを君の彼は分かっていると思う。あの雑務の中くじけそうになりながら、必死に君の彼も耐えているんだと思う。だからあえて君に連絡もよこさない。だから君に彼が今おかれている状態を言わないんだと思う。

 君たちはお互いを理解しあえているだから苦しい。

 その苦しみは君たち二人の想いの重さなんだと思う。だから、辻岡さん。


 君の彼を大切にしてあげなさい。


 真壁信二、彼のこの一言に私はどれだけこの瞬間救われたような気持になれたんだろう。

 涙が勝手に頬をつわり零れ落ちて言った。

 気持ちが和らぐ。彼のこの一言で私が耐えていたことを認めてもらえた事を、分かってくれる人がいる事に気持ちが安らいだ。


「今日の診察はここまでにしましょう。念の為2週間後血液検査をしましょう。お薬の効きと体の状態を確かめるためにね。


 大丈夫だよ。後少しの辛抱だ。

 彼も十分に分かっている君の気持ちを……それではお大事に」


 真壁信二医師。彼は噂とは全く正反対の男性ひとだった。


 それから2週間後の診察の後、私は彼の誘いを素直な気持ちで受けた。


 体の栄養は足りなければその栄養を補えばいいい。でも心の栄養はそうはいかない。


 心の栄養はゆっくりと沁みるように取らないと意味がないからね


 駅にほど近いホテルのレストランで食事をし、ラウンジバーで二人でたわいもない話をしながら時を過ごす。

 この時に流れるピアノの音が私の心を少しづつなごませてくれた。

 彼は紳士だった。

 私には想う人がいる事を理解してくれている。

 だから、私を求めることはなかった。

 いつしか私と彼、真壁信二はお互いに秘めたものを分かち合える友達の様な関係になっていた。

 そう彼はどんなことがあっても私を求めることはない。そして私も彼を求めることはない。

 それはお互いに密かに培う信頼関係の様なものだと思う。

 彼はもしかして初めから、私に声をかけたのは私が病んでいるのを感じたから?

 もしそうだとしたのならそれはそれでいいし、もしかしたら本当は下心がその時はあったのかもしれないけれど、今は私達はにはそんな思いはない。


「歩実香、最近真壁先生とよく出かけてるみたいだけど、あなた本当に大丈夫なの?」

 秋ちゃんが何度も心配して私に訊いてくる。

 私はにこっと笑いながら

「大丈夫よ、真壁先生みんなが想っているような男性ひとじゃないから」

「でもうまい事ばかり言ってしまいにはポイされてしまうんじゃない。そんな事していたら将哉さんをあなた裏切る事になるんじゃないの」

「そんなに心配?」

「うん、とっても心配」

「それなら今度一緒にどこかで飲みに行かない。噂だけを信じてじゃ本当の姿は見えないものよ」

「えええ!、私も一緒に……」

「そう、秋ちゃんも一緒に」

「わ、分かったわよ。行ってやろうじゃないの。もし歩実香にちょっとでもいやらしい事したら私その場で奴の頬殴ってやるから」

「おいおい、そんな事何もないって」

 そんなことを言いながらも真壁信二と共に時間を過ごしてみると、秋ちゃんも彼の一面を実際に見る事になり

「ええ、そうだったんですか!本当の話なんですよね」

「君にまで話すつもりはなかったんだけど、本当の事だよ」

「でもどうして歩実香にだけそんな話しをしたんですか?」

「彼女は恋するあまりに自分の心を病んでしまった。ふと彼女を見かけた時、このままではどんどん悪化していくのが解っていたからね。だから強引だったけど精神科のただ点数稼ぎの診察ではどうにもならいと思ったから僕の所によこしたんだよ。君にもわかるだろ。彼らの診療の目的を」

「た、確かにそりゃ私は看護師だから、医師の指示には反論できないけど、噂は訊いています。とにかく保険点数を多くして行く方針だって行く事は」

「うん、そうなんだ。確かに病院も商売だからね。利益が出ないと病院の経営は成り立っていかない。でも患者さんのためになる事以上の過剰な行為は慎むべきだし、あまりにも営利に走りすぎることは信頼も損ねてしまうからね」

 同席した秋ちゃんも信じられない様な顔をしていたけど、この真壁医師の事を誤解していたことを確信していた様だった。

「真壁先生、私達誤解していたようです。本当は患者さんの為のを一番に考える先生だったんですね。それに女性をおもちゃの様に扱う人だとばかり思っていました。ごめんなさい」

「そんなに恐縮されても困るんだけどなぁ。実際僕も一介の男なんだから女性を求めたい気持ちがないわけじゃないからね。でも辻岡さんは別だよ。僕には到底入り込めない彼との関係があるからね。それに主治医が患者に手を出したらそれこそ職権乱用だよ」

 彼は笑う様に言う

「そっかぁ、分かった。歩実香の事これからも見守ってやってください。でも彼との間を裂くようなことちょっとでも聞いたら私が許さないから覚えておいてください」

「辻岡さん、いい同僚、いやお友達がいて羨ましいですよ」

「本当にそうですね」秋ちゃんの顔見ながら微笑んだ。

「な、何よ。照れるじゃない。すいませんビールジョッキお替り」

 照れ臭そうに秋ちゃんはビールのお替りを店員に大声で叫んだ。


 それからすこしの変化があった。


 病院内の看護師たちの真壁医師を見る目が変わった事は言うまでもない。

 あの不名誉な噂は今はもう彼は浴びることはなかった。


 真壁医師との出会いそしてフォローのおかげだろ。

 私の心の苦しみは少しづつ和らいでいった。そして、将哉にもこの苦しみが、同じ苦しみが将哉も感じているんだと言う事をかちあえているんだと言う一つの気持ちが私を開放に導いてくれた。


 あともう少しの間。私達はこの苦しみをお互いに楽しもうと、誓い合った。

 彼が医師として活躍できる日を夢見て

 将哉は、私が彼の医師としての姿をこの目で見られるように



 時に、災いは忍び寄る。


 災いは音を立てずに私に襲い掛かった。

 崩れ行く体に、崩壊する私の心。

 もう修復をする事さえできないくらい崩壊した私の心はこの体の存在を否定し始めた。

 支えてもらえることさえできない。支えてもらう事を拒むこの心は、私のその存在を消し去ろうとしていた。


 そう、私の心は 崩れる……

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