第7話 小さな歓び
軽く昼寝をしてから昼食をとり、自室にこもっている間に夜になっていた。
部屋には寝台、本棚、机が、四畳程度の広さに配置されている。机の上にはこれといってなにも乗っていないが、本棚にはいくつか本が揃えられていた。
こちらの世界にも小説の類はあって、基本的にはそれを読んで時間を潰している。ようするに俺の生活自体は、なにひとつとして変わっていないということだ
──と、言いたいところだったがこちらにも小さな変化ぐらいはあった。実家暮らしではなくなったがために、労働をする必要があったのだ。内容はいたって単純で、倉庫にある武器の簡単な手入れだ。ここは傭兵集団なので、仕事もそれに関連したものが多い。
ちなみに怜司は掃除全般。蒼麻は夜中に大浴場の手入れをしているらしい。そういった仕事もあったが俺は肉体労働に向いておらず、さらに連携行動もとれないので、こういう地味で、ひとりでもできる仕事を割り当ててもらった。時間に関わらずできるという点も都合が良かった。人と出くわすのがとにかく嫌なので、主に他の住民が寝静まった夜中に俺は作業をしている。
寝台に寝転がって本を読んでいると、腹から空腹を知らせる音が鳴った。時計を見ると夕食の時間になっていたので、俺は本を棚に戻して部屋から出た。
通路に出ると、ちょうど目の前を女が横切っていった。俺の目が無意識に彼女を追ってしまう。
黒絹のように美しく、光沢のある艶やかな黒髪。それを頭の後ろでひとつに纏めている。細く長い黒眉に切れ長の目尻。煙水晶のように深い色合いの双眸。それらに整った鼻梁が続き、最後に朱色の唇で終わる。薄く焼けた綺麗な肌の首から下は和装に包まれていて、胸の僅かな膨らみ以外の体の線を覆い隠していた。歩くたびに見える白い足首や、髪型のせいで見えているうなじには、かなり色香があった。
控えめに言っても美人だ。目鼻立ちはそれほどはっきりしていなくて、格好からも俺たちのような東洋人に近いものを感じる。和装の着こなし、その美しさには思わず目を奪われてしまう。
彼女の名前は桜。この傭兵集団に所属している傭兵の一人で、俺の気に入っている相手だ。気に入っているというのはつまり、好きだってことだ。通路で初めて見かけた瞬間にそうなった。一目惚れというやつだ。
といっても、彼女とまともに話したことはない。怜司のやつがお節介で俺を勝手に紹介してきたときに、軽く挨拶と自己紹介を交わしたぐらいだ。そのときに分かったが、どうやら彼女もかなり口下手らしい。俺は余計に惚れ込んだ。
それでも話しかける勇気はなかった。それに、話さなくても見ているだけで十分だった。
彼女の後ろ姿が食堂へと消えていって、やっと俺の意識は現実に引きもどされた。俺も少し遅れて、食堂へと入る。
足を踏みいれた瞬間に、重厚な音が列をなして俺に打ちつけてきた。それぐらい、食堂は騒がしかった。食事の音に傭兵たちの野太い大声の会話が混ざりこんで、混迷を極めた音波が食堂そのものを震わせている。
食事をカウンターで受け取って、いつもの端っこの席につくが、騒々しさからは逃れられなかった。どうにも夕食どきの雰囲気は好きになれそうもない。
食事をとっている最中にも傭兵たちの食事風景が視界の端で見ることができるが、そこにはマナーなんてものは欠片もない。パンが飛び交い、フォークが交差し、食べ物の取りあいが勃発し、食事と会話が交互にどころか同時進行している。マナーが身につかず落ちこぼれと言われた俺でさえも、どれほど雑に食べたってああはならないだろう。
そんななかで、黙々と静かに食事をとっている人がいる。桜だ。
彼女の食事の仕方はかなり品がいい。俺でなくとも誰が見たってそう思う程度には。傭兵ではあったが、もしかすると育ちは良いのかもしれない。
彼女もまたひとりで食事をとっていた。そんなところにも、俺は一方的な親近感を覚えていた。品の良さも含めて、好きなところだ。
こうして彼女の姿をこっそりと見るのが俺の日課だった。一歩間違えば、よくニュースに載ってるストーカーやらなにやらになりそうだという自覚はあった。別にこれ以上のことをしよう、なんていう気はない。ただ、遠目に見ていられればそれで良かった──のだが。俺にも、たまには俺自身にとって良い部分というのがあるらしい。
食事をゆっくりと食べ終えた俺は席を立ち、厨房で食器を返すついでに、熱いお茶を一杯もらっていく。食堂はすでに人がまばらになっていた。
湯のみを持ったまま、俺は元いた席ではなく、桜の隣の席へと移動をする。彼女も食事を終えていて今は湯のみを傾けて一休みしていた。俺が近づくと、彼女は椅子を少しずらしてくれた。そのまま彼女の隣の席に座って、俺もお茶を飲み始める。
この奇妙な状況は怜司によって作り出されたものだ。以前にあいつが俺を強引に引っ張って、桜と合わせて三人で食事をさせられたことがある。その終わりにお茶を飲んでいた彼女に合わせてみたのがきっかけだ。いつもの俺ならその一回かぎりで終わったのだろうが、今回だけは続ける気になった……というか、続ける勇気が出た。それ以来、夕食の後はこうするのが恒例になっていた。
今振り返ってみても、よくこの状況を恒例にできたものだと自分で思う。怜司なしで彼女に近寄った昔の自分を珍しく褒めてやりたいぐらいだ。
二人の間に会話はなくて、二人揃って黙々と湯のみを傾けつづける。はたから見ればなにをしているのかと思われるのだろうが、俺にとってはこの静かな時間が心地よい。たいていの相手はなにかしら話しかけなくてはならなかったが、寡黙な彼女が相手ならその必要もない。こうやって黙ったまま一緒にいられるというのは良かったし、なによりこんな近くで彼女を眺めていられるというのが嬉しかった。
お茶が喉を通るたびに仄かな香りと苦味が口の中を広がっていく。この味は日本茶に近いものだ。今までは知らなかったが、食後にお茶を飲むというのは結構いいものだ。昔は両親の方針で紅茶を飲まされていたが、あれは苦すぎる。牛乳を入れてみたり砂糖を入れてみたりレモンを入れてみたりしたが、何をやっても慣れなかった。それと比べれば、これぐらいの苦味は美味いと感じる。
湯のみを手元で揺らしながら、横目で桜の様子をうかがう。彼女は感情の見えない表情でじっと机の上の湯のみを見ていた。
俺にとってこの時間は至福そのものだ。だが彼女はどうなのだろうか。なにも喋らない俺を奇妙に思ってはいないだろうか。彼女は口下手に見えたから、静かなのが好みなのだろうとは思う。しかしそれは俺の勘違いで、実はおかしなやつだと嫌われてはいないだろうか。
そんな不安が胸中に到来した。もしも俺が気がついていないだけで、実は桜は俺のことを不愉快に思っているとしたら、それだけできっと俺は死ぬことができるだろう。
「……ん、どうした?」
俺が見ていることに気がついた桜が、こちらを向いて首を傾げてきた。動きに合わせて、纏められた髪が揺れる。曲線を描いた双眸、煙水晶の瞳が真っ直ぐに俺を見ていた。それだけで、俺の心臓は無意味に跳ね上がった。
「ぁ……いや……なんでもない……」
「ん、そうか」
小さく頷いて、また彼女は湯のみに視線を落とした。深呼吸をして胸を落ち着かせようとしたが、彼女の声が耳に残っていて、うまくいかなかった。女性にしては低くて、落ち着いている声色。そこも好きな部分だった。
たった二言だったが、彼女の声に不快感はなかったように思う。おかげで少しだけ安心できた。これが間違いでないことを願うばかりだ。
それにしても、普段は少し鬱陶しいぐらいの怜司だが、こればかりは感謝したい。あいつがいなければこうしていることもなかっただろう。
「お、雄二に桜さんじゃん。二人で黙ってなにしてんだ?」
そう思ってるところに怜司がやってきた。奴の能天気な声が俺の耳に届いた瞬間、胸中にあった感謝の念を怒りが叩き出していく。
「なにって、茶を飲んでいるだけだが」
黙り込んでいる俺に代わって、桜が怜司に答えた。
「黙ったまま? 喋ればいいじゃないっすかー」
怜司が馬鹿っぽく笑っている。うるさい黙れ、お前は蒼麻とでも乳繰り合っていればいい。
そう言いたくてたまらなかったが、そんな勇気はないし怜司にも悪気はないだろう。こいつはこういうやつだ……死ねばいいのに。
黙り続ける俺を不思議に思ったのか、怜司が首を傾げていた。さっき桜が同じ動作をしていたせいで無性に腹が立つ。怜司が悪いわけではないのだが。
「俺も混ざっていいっすかね」
俺がなにを考えているかは分からないらしく、怜司は桜の隣に座ろうとしていた。本当に空気の読めないヤツだ。
もう湯のみの中身は空っぽになっていたので俺は席を立った。桜も同じだったが、彼女は怜司の相手をするようだ。
「またな」
席を離れようとした俺に桜が声をかけてくれた。その一言に、俺は嬉しさのあまり小さく頷くのが精一杯だった。
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