10
アレクセイがマリンゴートに向かうことが決まっても、叔父と叔母は何も言わなかった。
子供のいない彼らにとって息子同然に思っていたアレクセイが、決して平和とはいえないマリンゴートに向かうことに、不思議と何にも言わなかった。
止めても無駄だと言うことが分かっていたのだろうか、それとも、もういっぱしの大人であるアレクセイの決めたことに順じたのか。どういう気持ちだったのかは分からない。ただ、嬉しそうではなかった。それだけは、よく分かっていた。
自分の荷物を纏めているとき、叔母は泣いていた。アレクセイが忙しそうに立ち回っているとき、居間でひっそりと泣いていた。やはり、辛かったのだろう。しかし、もう決めたことだ。アレクセイ自身も辛くないと言えば嘘になる。
荷物をまとめ、持っていくものと置いていくものを選んでいるとき、なにかにつけては叔父や叔母、そしてナオミとの思い出が蘇ってきた。何度もマリンゴートに行くのをやめておこうと思ったか知れない。しかし、だからこそ、アレクセイはマリンゴートへ行かなければならなかった。
そこにはアレクセイ自身の意思を超越して、何か大きなものが横たわって彼をその道に誘い込んでいたからだ。
いまや抵抗はできない。
荷物を纏めながら、アレクセイはふと、机の中に入っている四つの飴を取り出した。
これは、持って行くべきだろうか、それとも、置いていくべきだろうか。
飴を手にとって、アレクセイはしばらくそれを見つめていた。
「私には、思い出がないもの」
ナオミは、そう言っていた。
思い出がない、そんなはずはない。
最期にナオミは、アレクセイを愛していると言った。愛しているその感情、その気持ち。そこには思い出はなかったのだろうか。
「思い出か」
呟いて、アレクセイは苦笑いをした。
おかしなものだ。この飴は、その小さな丸い粒の中にありとあらゆる思い出を詰め込んでいる。赤い包み紙を持ったナオミの細い指、甘酸っぱい味に込められた両親の思い出、そして、姉、ヘレンと故郷の思い出。
「ハノイか」
今はもうない故郷の名前を呟いて、アレクセイは肩を落とした。
「この飴は、苦いな」
そう言って、四つの飴を全て、マリンゴートへ持っていく荷物の中に入れた。
そして、その五日後、アレクセイは、国境のエアポートから飛行機に乗った。一路、マリンゴートへと向かって。
叔父と叔母は見送りには来なかった。いや、来られなかったのだろう。そんな気持ちでも、そんな状況でもなかった。アレクセイは旅行や観光で旅に出るわけではない。戦いに赴くのだ。それも、兵士としてではなく、一人の市民として、一人の弾劾者として。
自分に何ができるのかはまだ分からない。それはこれから他人が決めることだ。しかし、できることがあるのならばどんなことでもしてやろう。それが死んでいった両親やナオミへの弔いになるのならば。
そして、自分自身の心の在り処を築いてくれるのならば。
飛行機に乗って一時間。
エアポートに着いたアレクセイを待っていたのは、マリンゴートの都市を広く囲む広大な草原から吹き来る強い風と、一人の神父だった。
栗毛の神父は、強風の中で長いコートをなびかせ、飛行機を降りてエアポートに着いたアレクセイに手を差し伸べた。
「連絡は受けていた。ようこそ、アレクセイ・ゲイラー君。私はブラウン。マリンゴートへ、ようこそ」
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