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「あとは、あんたの知っているとおりだよ。ここに来てからはしばらく、私も混乱していてね。ようやく落ち着いたところさ」

話し終えて、ヘレンはふと立ち上がり、壁にかかっていた鞄の中から何かを取り出した。

鞄は新しいものだった。何も持たずに身一つでこちらに亡命してきたヘレンに、叔父と叔母が買ってやったのだろう。新しい服も何着か用意されていて、最初ここに来た時と違うものを着ていた。ただ、ヘレンのこの性格を知らない叔母は、とりあえずサイズの合うものを取り揃えたらしく、今時のクリーンスケアの女の子が来ているようなかわいらしいドレスやフリルの着いたブラウスなどを買っていた。ヘレンは、苦笑しながら自分の格好を見た。

そして、そのまま口元に苦い笑いを残しながら、ヘレンは、鞄から取り出したものを、テーブルの上に置いた。

飴だった。

全部で五つの飴を、ゆっくりと丁寧にテーブルに並べて、ヘレンは表情を曇らせた。

「この国に来てからもまだ、父さんと母さんのあの死に方も、死んだって事実さえもまだ夢の中のことのようなんだ。でも、この飴だけは、その事実を嫌でも私に突きつけてくる。だから、この飴はお前にやるよ。私には必要のないものだ。それに、多分、これは母さんがずっと、クリーンスケアにいるお前に送ろうと思っていたものだろうし」

「そんな」

「私はね、この飴を知らないから」

「この飴を知らない?」

アレクセイが顔を上げると、ヘレンは寂しそうに笑った。

「この飴は、全部同じものだ。同じ味の、同じ形。そして同じ色。でも、私はこれを舐めたことはないんだ。お前がこの飴を持って帰ってきた日、あれは、軍隊のパレードの日でね。お前を連れて国の兵隊さんたちの勇士を見せに行った父さんと母さんが、お前に買ってやったものだよ。あの日のことは良く覚えてるよ。父さんが将来お前を兵隊にして国のために尽くすようにって、そのためにパレードを見せに行くんだって。そう言っていたんだけどね、お前はまだ小さかっただろう。それに、外出を渋っていたお前を無理やり外に出すことはストレスになるからって、母さんは反対したんだ。それで夫婦喧嘩になった。それでもパレードに行くといって頑として聞かなかった父さんは、小さいお前と機嫌の悪い母さんを連れて出て行った。家を空けることは出来ないし、こういうときに空き巣に入られることは多いから、私は留守番をいいつけられて、家に残った。私はね、かっこいい兵隊さんたちがたくさんいるパレードに行きたくてしょうがなかったんだけど、我慢したよ。そして、しばらくしたら父さんが上機嫌で帰ってきた。その時はお前も上機嫌だったよ。母さんが、父さんの手前、お前が喜んでいないのを気にして飴を買って機嫌をとったんだろう」

「そうだったのか。僕は何も覚えていないから」

「そうだね。でも、飴の味だけは覚えていた。お前がここに来て私と会った時、飴の話をしただろう。それで私は気がついた。これは、おまえにやるべきだって。故郷の、唯一の思い出だよ」

「故郷の、飴」

そう呟き、アレクセイはさっきの話を噛み締めた。

故郷は、もうない。

でも、故郷の記憶と故郷を結ぶものは、ここにある。

アレクセイは、テーブルの上に置かれた飴を一つ、手に取った。

赤い紙に包まれた丸い飴。小さな子供が口に入れるのにちょうどいい大きさの飴だった。

「舐めてみてもいいですか?」

聞くと、ヘレンは頷いた。

「お前のものだ」

そう言われ、アレクセイは頷いて、手に取った飴の赤い包みを開いて、中から出てきた白い飴を口に入れた。

その瞬間。

頭の中で、一気に記憶が弾けた。

あの日、父に連れられて気乗りのしない外出に渋っていたこと。俯いて歩いていた小さなアレクセイに母が道端の露店で売っていた飴を買ってくれたこと。その後、飴を舐めながら見た華やかなパレード。そして、緑の芝生に包まれて明るい煉瓦を日の光に輝かせていた我が家の壁。

そして、家に帰った後の、羨ましげに自分を見る姉の顔。

赤い髪を二つに分けて縛った、青い瞳の少女。

そして、その少女とままごとをして遊んだ緑の小さな丘。てっぺんに、小さな木があった。よく、それに登って遊んだ。

厳格ですぐ怒るが、時々困ったことがあると笑いながら頭を撫でてくれた父。いろいろなことを教えてくれた。故郷のこと、原住民のこと、そして、肌の白い移民と仲良くすることがどれだけ大切なのかということ。

そうだ。父はそんな話をしていた。

何にも知らない原住民に文明を教え、街を作って商売をすることを教え、鉄を教え、科学や数学を教えた移民。

その移民を受け容れて彼らの住むところを分け与えた原住民。

そして、移民の母と原住民の父。

「今はね、3年前に制定された民族差別の法律で原住民は劣等民族。優等である移民が築いてきた文明に胡坐をかいて、土地に慣れていない移民を押しのけて仕事を奪い、住む所を奪っているって名目さ。このクリーンスケアと私たちの故郷は唯一、その法律を定める協定にサインしなかった。でも、あの国はクリーンスケアのように大きな国でもなく切り札を持ってもいない。だから、差別法を最も信奉する首都のお膝元、マリンゴートによって滅ぼされた」

飴を舐めながら呆然としているアレクセイに、姉は言った。

「どうにかしなきゃならない。今でこそ、ここは安全だけど、いつ、戦争になるか分からない。戦争になれば、この国は切り札を使うだろうからね。でも、それはやっちゃいけないことだ。それを出すことだけは、避けなきゃなんない」

「避けなきゃいけない切り札?」

「そうだ」

頷いて、姉は、おもむろに煙草を取り出した火をつけた。

「それを使わないためにも、この状況を何とかしなきゃなんないんだ。私たちに出来ることでね」

「僕たちに、できること?」

アレクセイは、訝しく思って、聞き返した。

姉は、何を言っているんだろう。

一小市民でしかない自分たちに出来ることなんてありはしない。

国という大きな組織でさえ、軍隊を用いて体制に抵抗し、それでも憂き目を見ているというのに。

それに、切り札。

クリーンスケアが持っている切り札がどんなものなのかは知らないが、それは簡単に使うことが出来ない上に、その存在を持ってしても体制を変えることが出来ないでいる。そんな中、誰一人として、この大きな流れに逆らえるものなんていないのに。

なのに、何の権力も力も持たない小市民である自分たちに出来ることなんてあるのだろうか。

「その顔は、出来ないって顔だね」

煙草をふかしながら、ヘレンはため息をついた。

「それが、できるんだよ。ただ、命を懸けるだけの覚悟と意志が必要だけどね」

そう言って、ヘレンは、着ていたフリル着きのかわいらしい上着のポケットの中から、擦り切れた紙切れを取り出した。

「あのとき、両親の墓の位置を記した地図と一緒にもらったんだ。あのブラウンって神父、クセモノだよ」

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