第1話 歪み始めた日常。(9)
9.
ホタルの虚をつき逃走を図った透哉は想像以上に開いた距離に安堵し、校舎と校舎の連絡通路、その屋根の上を走っていた。
自身の力に越にいるというより、予想以上に反応の薄いホタルを退屈に思ってしまう。拍子抜けとさえ思い始めていた。
魔力による身体能力の向上はエンチャンターなら誰にでもできる基礎中の基礎である。これが一般人とエンチャンターの間に生じる格差の根源でもある。
何せ細身の少女でも魔力の補助を加えることで握力が三桁を超え、世界新を出すほどの脚力を得たりするのだから。
けれど、弊害も限界もある。魔力の補助で無理やり出す力に体の方が耐えられないのだ。強力なエンジンを装備していてもフレームが耐えられなければ自己破壊を起こすのと同じだ。
しかし、身体的都合で全て解消している透哉には関係なかった。
エンチャンターの中でも非凡な身体能力を得た透哉に追いつける者などいるはずがなかった。
が、その楽観は即座に覆され、間違いだったことを思い知らされる。
夜の闇に沈む校舎。その屋上からの眺望が一変、地上を走る閃光に切り裂かれた。紫電をまき散らせ、光球となったホタルが周囲を自分の色で照らしながら迫っていた。
(バカな!? どんな速さだよ!?)
透哉は楽観しつつも逃走の足を緩めたりはしていない。
にもかかわらずホタルは轟然と距離を詰めてきた。一瞬でなくなった余裕を嘆いている暇はない。
透哉は連絡通路の屋根を健脚で力強く蹴り、校舎との間を対角に跳び、最短距離で移動する。空中を飛びながら、地上を猛進するホタルを盗み見て、透哉は嫌な汗をかいた。
急激に距離を詰められたことには何か種がある。それを探ろうとして見たのに、見なければよかったと後悔した。
身体能力の向上などでは説明できない光景が目に飛び込んできた。
一見しただけでは判別できなかったが透哉の目にはホタルが飛んでいるように見えた。ホタルは地上から一メートルほどの高さを保ち姿勢を変えずに移動していた。
不可視の力に引き寄せられるみたいに。
校舎の陰から飛び出してきたホタルは土煙を上げながら着地すると慣性で僅かに体制を崩す。しかし、それも束の間再び地面を蹴ると何かに狙いを定めて手にした雷剣を振るった。
(なんだ?)
その奇妙な動作を不審に思い、雷剣の延線に目をやるとそこにあったのは校内に設置された鉄製の電灯。
そこに宿るホタルと同じ色の紫電。
同時、遠くに小さく見えていたホタルの体が浮かび上がり急加速した。ホタルの速さの種は自らを磁石と化し、強烈な磁力で吸引させることで得た文字通り電撃的な移動方だった。
標的とした電灯との激突の寸前、ホタルは体を捩じると両足で真横に着地し、自身が帯びる磁力を反転させ吸引力を反発力に変えて弾むように跳ぶ。
ホタルの無謀にも思える強引な加速術がもたらした機動力は、二人の距離を瞬く間に縮め、透哉がスタートダッシュで稼いだアドバンテージをなくしていた。
その後もホタルは電撃と磁力を巧みに操り電灯や校舎の手すりを駆使してついに透哉を射程圏内に捉える。
ホタルの宇宙遊泳と言って遜色ない自由な移動を前に透哉の脚力に依存した原始的な移動は全くと言っていいほど歯が立たなかった。
生徒会に選抜されたエンチャンターの底力に度肝を抜かれつつも、透哉は校舎と校舎の間、今日幾度目かの長距離を飛び浮遊感に包まれ――
――強烈な寒気に襲われた。
追い上げられたことで焦りが生まれ、失念した。
ゆっくりと流れる情景の片隅、寒気の原因を捉えた。
たった今足を離した屋上の端に屹立した避雷針。
そこに絡みつく紫電。
ホタルの目印。
直後、透哉の体内を駆け抜けたのは磁力という名の見えない戦慄。
避雷針で自分を挟んだ反対側に誰がいるかなんて想像するまでもなかった。
対面の校舎に着地するまで身動きができない透哉を、雷剣を構えたホタルが自身の体で狙撃してきた。
状況はホタルの完全なる王手だった。
急接近する眩い閃光を半身に受けながら、
(――やばい、つかまる!?)
二人はそのまま校舎と校舎の間の上空で激突――しなかった。
透哉とホタルが激突する寸前。
不自然な翻りを見せた『白檻』が透哉を強引に包み込み、透明の波紋を残すと空中で煙のように消失した。
「な――っ!?」
ホタルは驚愕と共に虚空を貫き、吸着力の緩急と反発力を巧みに操り、避雷針を掴み、屋上に着地した。
幻でも見たのか、そんな現実逃避を抱く。
何の脈絡もなく現れ、瞬く間に走り去り、最後は霞のように消えた。
「――――っ」
気付くと手が震えていた。それが武者震いなのか、恐怖なのか、この時のホタルには判別できなかった。
「御波、お前がやはり〈悪夢〉なのか……?」
愁いに満ちた目で月を仰ぐ。
少女の独白に天体は答えない。
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