「……ねえ、ごめんなんだけど」

 相変わらず楽しそうに笑っている四人に、思いきって声をかける。別に思いきるほど重大なことを言おうとしているわけではないのだけれど、なんとなく緊張してしまう。

 それはひとりだけ抜け駆けしようとしていることへの後ろめたさからなのか、統吾たちを裏切るようなことを今からしようとしていることへの罪悪感からなのか。きっとどちらもなんだろうけれど、手のひらがじっとりと気持ち悪いほど、くるりは緊張していた。

「ん?」

「どうした、くるり」

「ちょっと……行きたいところができちゃって。今からそっちに行ってもいいかな」

 ほぼ同時に声を上げた杏奈と統吾の顔を交互に見て、くるりは精いっぱい、申し訳なさそうな顔を作って笑う。心臓にも冷や汗が滲んでいるような気分だった。やんわりとした言い方ではあるものの、要するに帰りたいと言っているのだ。杏奈や統吾の次の言葉次第では、もしかしたら、明日からはもう話しかけてもらえなくなってしまうかもしれない。

 そういう人たちではなさそうだったから、くるりも安心して付き合ってきたけれど、本当はどう思っているかは、わからない。だから怖い。ものすごく、ものすごく怖い。

 まるでロシアンルーレットをしている気分だ。心臓の冷や汗がダラダラ流れる。

 でも。

 ――置いてきてしまったものを拾いに行きたい。まだ見つかるかもしれない。そうしたら、もしかしたら〝なにか〟わかるかも。

 その気持ちだけは、もう揺るがなかった。

 ギンガムチェックの生地を買うにふさわしい自分ってなんだろう? 夜行遠足を頑張るには、私にはなにが必要なんだろう?

 その答えを見つけるには、中学校に置いてきてしまった〝なにか〟をもう一度手にしなきゃいけない。拾わなくちゃいけない。

 くるりはこのとき、強くそう思ったのだ。

 夜行遠足までは、もうあまり日がない。

 今日は火曜、女子の本番の日曜日までは、今日も含めてあと六日だ。

 六日もあると思うか、六日しかないと思うかは、人それぞれだ。しかしくるりには、六日〝しか〟ない気持ちのほうが大きかった。ことさら、こんなふうに他人の噂話や詮索で毎日が過ぎていくようであれば、そのぶんの時間がもったいないような気さえしてくる。

「んー? 別にいいんじゃね?」

「そうだね。私も別にいいよ。くるりがいないのは寂しいけど、最近のくるり、なんとなく元気ないなって思ってたところだったし。……なんか、無理に付き合わせちゃってごめんね。今度またゆっくりカラオケしようよ」

「ほんと? でも、なんか悪いな」

 ふたりの返事に内心でほっと胸を撫で下ろしつつ、顔は申し訳ない顔を作る。こういうちぐはぐな態度を取ってしまうことも、ダメになっていく原因のひとつな気がして嫌だ。

 ノリとテンポと、同調性。彼らはそれを大事にしている。付き合っていくなら、くるりもそれを大事にしなきゃと思ってきたし、自分に必要なスキルだとも思ってきた。

 ……でも、もう疲れちゃった。

 これが本音だ。

 これからどうなっても構わない、と思えるほど、くるりの心は強くはないけれど、みんなには申し訳ないが、こういう頑張り方はやっぱり疲れてしまうのだ。それに、自分に合っているとも、やっぱりあまり思えない。

「ごめん。じゃあ、私はお先に」

「おー。また明日なー」

 いいよ、いいよ、うちらのことは気にしないで。そう言って帰りを促してくれる杏奈や統吾に申し訳なく笑って、代金を置いてカラオケ店を出る。今までは四人を置いて自分だけ帰ることに恐怖もなにも感じなかったけれど、このときばかりは、さすがに怖かった。

 それでも、カラオケ店を出たあとのくるりの足取りは清々しかった。そのまま駅へ向かい、卒業した中学校を目指すことにする。

「あ、隣の隣のクラスの」

 駅へ向かって歩いていると、さっきの女子の片割れ――こちらも名前は知らないが顔はわかる子が、男子と一緒に商店街を歩いている姿を見かけた。男子のほうは片割れの子にえらくご執心なようで、一生懸命に気を引こうとしているのが、とても可愛らしい。

 一方の片割れの子のほうも、見ているこっちとしては、まんざらでもなさそうな様子に映る。照れているのか、何度も適当にあしらってはいたものの、しきりに自分の鞄を気にかけていたのが、なによりの証拠に思えた。

 もしかして、これでさっきの彼女は嬉しそうに笑っていたんじゃない?

 もしかしたら、鞄の中には本命お守りが入っていたりして。邪推な真似だとは重々承知ながら、渡すタイミングをうかがっているんだろうかと思うと、学校の廊下ですれ違った彼女のように、くるりの頬も自然に緩む。

「いいなぁ。羨ましい……」

 そしてそれが、とても羨ましかった。実際に声に出してしまうくらい、とても。

 男子も女子も夜行遠足に命がけ。それは、くるりたちのグループにはないものだ。

 去年は参加するだけで精いっぱいだったけれど、二回目の今年は勝手もわかっているだけに、いろいろとアクションを起こしやすいのだろう。本命お守りに一喜一憂するのは、なにも女子だけとは限らない。この彼のように、意中の女子からお守りをもらいたく頑張る男子だって、たくさんいるのである。

 もしもらえたら、なにがなんでも完歩するだろう。彼女の手作りのアップルパイを一緒に食べるために。まさに青春だ。

 頑張れ男子、と心の中でエールを送りながら、くるりは初々しさ全開のふたりの横を、少し離れたところからすれ違った。商店街の右端と左端。ちょうど八百屋と花屋が向かい合って建っているところの真ん前だった。

 夕方の買い物客でそれなりに人出があったので、彼らがくるりに気づいたかどうかは、わからない。でも、くるりは、ばっちり気づいてしまったのだから、もう仕方がない。エールを送らずにはいられなくなる。

 前なら、聞こえないところまで離れたところで、統吾たちと冷やかして笑っていたかもしれない。けれど、今は違う。

 女子のほうも頑張れ、と片割れの子のほうにもエールを送り、そうしてくるりは駅舎に入り、ちょうどホームに到着した二両編成のローカル電車に乗り込んだのだった。


 オレンジから藍、藍から黒へと刻々と暮れなずむ町並みを車窓からぼんやりと眺めながら、くるりは、バスケにはじまりバスケに終わった中学の三年間を思い出していた。

 小学生の頃からミニバスをはじめたくるりは、中学の部活でも迷わずバスケを選んだ。先輩後輩の上下関係は最初、とても厳しいものに思えたけれど、こういうものなんだな、とすぐに慣れ、別段不満もなかった。

 同級生の仲間もできて、経験者ということもあり、徐々に頭角を現すようになってくると、先輩たちからも可愛がられていった。

 もちろん一年のときはユニホームをもらってもベンチウォーマーだったけれど、ごく稀に交代で試合に出るように顧問から言われると、くるりと交代する先輩も、コートの中にいる先輩たちも、くるりを盛り上げようと盛んに声をかけてくれて、とても嬉しかった、という宝物のような思い出がある。

 中総体後に当時の三年生が引退して、一年後の中総体でも、三年に進級した当時二年生だった先輩たちが引退していった。くるりが三年になった代では県大会まで進んだが、結果は一回戦負け。先輩たちが引退した時期より一ヵ月ほど引退が延びただけで、そのあとはもう、受験一色の学校生活だった。

 懐かしいなあ……。

 だんだんと懐かしい景色が目に入るようになり、降りる駅が近づいてきたことを感じると、くるりはなぜか、目に涙が浮かんだ。

 高校進学と同時に家を新築し、引っ越しをしたくるりにとっては、たとえ数駅分の移動距離でも、感覚的にはずいぶん遠い。

 厳しい練習。バスケにはじまり、バスケに終わった中学時代。楽しかったけれど、心にはいつも、ちょっとだけの不満があった。

 そういうものを全部ひっくるめても、やっぱり最高に充実して楽しい三年間だったなと思うと、どうしても泣けてきてしまうのだ。

 ――このままじゃダメだ。探して、見つけて、もう一度ちゃんと手にしよう。

 電車が止まり、ホームへ降りると、くるりは盛大に鼻をすすりながら改札を抜けた。周りの客や駅員に多少驚かれもしつつ、すっかり日が落ちて暗くなった外へ足を向ける。

 行き先はもちろん、中学校だ。

 スマホで時刻を確認すると、今の時間ならギリギリ練習の最後に間に合いそうだった。

「顧問の先生が変わってないといいけど」

 くるりが三年だったときの一年生は、今は三年だ。風の便りで聞いたところによると、今年の中総体はいいところまで勝ち進んだものの、結局負けてしまったそうだ。

 ということは、当時の一年生は、もうみんなとっくに引退している。それ以前に、時期的に引退していないとおかしい。

なので、面識があるのは、今も変わっていないなら顧問の垣谷かきたに先生だけだ。そこがちょっと心配で、忘れられていないといいけど、という部分でも、けっこうわりと心配だ。

「でもまあ、それならそれでいっか」

 けれど、今のくるりには、それさえ楽しみに変えられるだけの余裕があった。ひとりだから気楽なのもあるし、どっちに転んでも、自分はもう大丈夫なような気もしている。

 明るい口調でひとりごちて、すっかり暗くなった空を仰ぐ。日が落ちるとさすがに空気には秋の色が濃く反映され、上空にも寒そうに星が瞬いていた。ぐっと手を伸ばして、星を掴む真似をしてみる。もちろん実際には掴めるはずもなかったのだけれど、不思議となにかを掴めたような、そんな気がした。

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