「さて、ひとりで出てきたはいいものの、これからどうしよっかなぁ……」

 下駄箱で靴を履き替え、昇降口を出ると、香魚は周りに誰もいないことを十分に確認してから、やっとひとりごちた。そうやってでも声に出さずにはいられなかったけれど、ひとり言を聞かれるのは、普通に恥ずかしい。

 だってそこには、今週いっぱいは優紀と帰れないことへの寂しさと、もしふたりが付き合いはじめたら私は蚊帳の外だなという、もうひとつの寂しさが含まれている。もしかしなくても、優紀が朝倉くんに取られてしまうかもしれない寂しさのほうが断然大きい。

 もしそうなったら心から祝福するし、精いっぱい気を利かせる。でも、たまにでいいから、優紀を返してほしい。それが本音だ。

「そうだ。今日は久しぶりに、グラウンドのほうの道を通って帰ってみようかな」

 遠回りになるけど、さっきの子たちが窓からなにを見ていたのかも気になるし。

 そうして香魚は、足を一路、裏門のほうへと向けて歩き出した。鞄の外ポケットに差し込んだスマホが震えたので確かめると、優紀からの【恩に着る~!】という返事だった。それに【いいえ~】とスタンプ盛りだくさんで返して、再び外ポケットに差し込む。すぐに返事は来ないだろう。そこは朝倉くんの勇気に免じて仲よく話してあげてほしい。

 あ、とんぼだ。すごい群れ。ああ、もう栗の木から実が落ちてくる頃なんだなぁ……。

 そうやって秋を感じながら、ゆっくりとしたペースで歩く。優紀と一緒に帰るときは、話すのが楽しすぎて周りの景色なんてほとんど見ないけれど、そういえば、もうすっかり秋だ。山の木ほどではないにせよ、平地でもところどころ紅葉もしている。

 ほどなくしてグラウンドの脇に着く。今度はそちらに顔を向けてまた少し歩調を緩め、さっきの五人グループが揃って窓からなにを見ていたのかを、探してみることにした。

「……ん? いつもとなにが違う?」

 けれどそこは、いつもどおり部活中の生徒で溢れるグラウンド。結局香魚には、彼らがなにを見ていたのかは、わからなかった。

「うわー、きれー……」

 ただ、グラウンドの向こうに沈みかける太陽の茜色が、とにかく綺麗で。その光を全身に浴びて野球にサッカー、陸上にテニスにと、それぞれの部活に思い思いに汗を流すたくさんの蓮高生の姿が、ひどく鮮烈だった。

 長く伸びた黒い影を引き連れて走る陸上部員やサッカー部員。逆光の加減でシルエットとして浮かび上がる野球部員の捕球の様子。テニス部はここからだとちょっと遠いからよくは見えないけれど、きっとラケットやボールの影も長く伸びていることだろう。

 たまには違う道を帰るのもいいものだな。

 香魚は、いつもは通らない放課後のグラウンドに目を細めて思う。まさにみんな、今このときしかない青春を一瞬一瞬、消化している。そして、とてもキラキラしている。

 前に見た優紀のキラキラのように。バレーを頑張っている朱夏や朱里のように。さっき見た五人グループのように。剣道着で外周に向かった悠馬のように。みんなそれぞれ自分だけの青春をキラキラと輝かせている。

 ――と。

 そのときふと、じゃあ私は? という声が耳の奥から聞こえたような気がした。なにもしない、なにもできないと最初から自分の可能性を諦めている私に、ほかの人から見て、なにかキラキラしたものがある? と。

「……まだ、なにも」

 そう、答えはノーだ。

 それに気づいた香魚は、悔しくて、自分がひどく情けなくて、無意識にぎりりと唇を噛みしめていた。みるみる潤んでいく瞳でグラウンドを見つめる。そこには変わらず、たくさんのキラキラが散らばっていて、真正面から受けている茜のせいだけではとうてい補いきれないほど、痛烈な眩しさを放っていた。

 ――そうだ、私はまだ、なにもしようとしていない。できない理由をもっともらしく並べ立てているだけで、本当に、なにも。

「っ……」

 みんなはどうするんだろうじゃなく、私がどうしたいのかが一番大事なことなんじゃないか。……どうして四年も気づけなかったんだろう。バカだ、大バカだ、私は。

「こんなんじゃダメだ。このままだと、ますますみんなに置いていかれちゃう……」

 溢れる涙を何度も何度も手の甲や指の腹で拭って、香魚は嗚咽混じりに呟く。

 それでも香魚は、時間を無駄にしたとは思っていない。片想いの期間が長ければ長いほど、たくさんの美味しい妄想もできたし、なにより一番は、失恋せずに済んできた。

 でも、失恋はしなかったけれど、それだけだ。それ以上でも以下でもなく、そこにはただ〝失恋はしなかった〟という事実があるだけ。ほかには自分でもびっくりするほどなにもないし、むしろあったら、なんでもいいから示してもらいたいくらいだ。

「……ありったけの勇気、かき集めてみようかな。じゃない、かき集めよう」

 今年もしっかり鞄に忍ばせて持ち歩いている、悠馬への本命お守りを取り出し、両手で包み込むと、胸の前できゅっと握った。

 今年も会心の出来だった。せめてもの慰めに持っていたけれど、男子の歩く距離にちなんで105回『碁石到着』と紙に書いたし、もしものときのための絆創膏も、カロリーになる飴もチョコも、もう入れてある。

 本当にあとは渡すだけなのだ。渡しさえすれば、ほかにはもうなにもいらない。

「よし、金曜日。金曜日に渡そう」

 そう自分にプレッシャーをかけて、香魚はぐいっと涙を拭って前を見据えた。さあ今すぐ渡しに行こう、とならないところが、なんとも香魚らしいと言えば、らしい。けれど、さっきまでは渡す前から諦めきっていたのだから、この短時間の間で、彼女は彼女なりに少しは成長したということなのだろう。

 今すぐ優紀に報告したい気持ちをぐっとこらえ、香魚は力強く足を踏み出す。

 決戦は金曜日。

 どこかで聞いたようなフレーズだけれど、香魚の心境はまさしくそれである。

 大丈夫。ちゃんと渡せる。渡してみせる。

 自信をみなぎらせるために、意識して顎を上げて歩く。今さら気づいたけれど、前方には、じっと野球部が活動する様子を眺めているひとりの蓮高生の姿があった。見知った顔だなと思ったら、去年同じクラスだった宮野詩だ。泣いていたのを見られやしなかっただろうかとちょっとハラハラしながら近づく。

「あ、バイバイ」

 香魚に気づいた詩が小さく手を振る。

「うん、バイバイ」

 香魚も同じようにして手を振り返し、彼女の後ろを通り過ぎる。どうやら見られていなかったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 彼女とは特に親しかったわけではないけれど、あいさつをしない仲でもない。進級時のクラス替えで別れてしまったものの、こんなふうにばったり出くわせば、一年間一緒だったこともあって、言葉くらいは交わす。

 さっきの子たちもそうだったけど、宮野さんも、なにを見ているんだろう。野球部ばっかり見てるみたいだけど、彼氏待ちかな?

 そういえば詩は、去年の夜行遠足後からモテはじめた。といっても前からモテていたので、それに拍車がかかったという感じだ。

 でも、それを鼻にかけるでもなく、自慢するでもなく、むしろ本人はおしとやかというか、女の子らしいというか、同性の香魚でも純粋に憧れるくらい、どんどん可愛くなっていった。そして、久しぶりにあいさつをした今日も、ますます可愛くなっていた。

 同性に嫌われないモテ方。それを体現しているのが詩だと香魚は感じている。そんな詩の彼氏なら、彼氏のほうもきっと仲間内に鼻が高いだろう。だって、練習が終わるのを健気に待ってくれているのだから。

「……」

 少しだけ振り返ると、詩はまた野球部をじっと見つめていた。彼女の視線の先にいるのは、いったいどんな彼氏なんだろう。

 けれど今の香魚には、野暮な詮索をするより、やらなければならないことがある。今日は火曜日、金曜まではあと三日しかない。

 明後日はまた体育で朱夏ちゃんたちと一緒になるし、そのときに話を聞いてもらったお礼と、頑張ることにしたって報告しよう。

 大丈夫。ちゃんと渡せる。渡してみせる。

 何度も何度も、そう強く自分に言い聞かせながら、香魚は駅と駅前商店街へと続く坂道を、ぐっと顔を上げて下っていった。

 ふと見上げた空には、とんぼの群れ。今週末は夜行遠足だ。秋はいよいよ深い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る