第17話
僕が簡素なカイトでその天空に浮かぶ小島に降りようと、風の流れを読もうとしていた時、渦巻く雲の切れ目からその巨体は現れた。
慌てて自身の体とカイトを繋ぐ鉄製のハーネスの上で重心を思い切り右に寄せた。ハーネスに接続された鋼索が重心の移動を
『我、帝国近習総軍所属、護衛艦ヴァリアント。貴機之所属和航行之目的於問フ』
なんでこんな所に皇帝直轄艦隊が。
見れば、巨大な鉄の塊の上部から、ハリネズミのように生え揃った副砲群がゆっくりと此方を指向しているのが見える。こんな所で何をやってるんだ彼女は。
仕方無しに
『我、零細行商人也。誰何之価値於不認。こんな辺鄙なところでピクニックかい?ヴァリー』
呼びかけたチャントに、瞬時に貞淑で優しげな女性の声が答えた。
『ええ、そのようなものです。お久しぶりですねアリアドネ。すみません、驚かせて。どうぞ行ってください。今代の艦長はどうにも堅物でして』
チャントからは独り立ちしたばかりの雛を見守る様な、苦笑した様な波動が響き、こちらを指向しようとしていた副砲群がそのままぐるりと一回転して元の位置に戻る。
聳え立つ様な側舷の遥か上方、かすかに見える上部構造物からはひっきりなしに発光信号で誰何を問うていたが、ヴァリーにその気は無い様だった。
『ヴァリー、碩探から僕を消してくれるかい?秘密の入り口が見つかるとマズイよ』
『ご安心を。最初から映してませんよ。貴方を甲板監視員が見つけてしまったのです。肉眼までは私にもどうにもならなくて。雲に一度入っていただければ見失うと思います』
そうかい、またね、と僕は答えて、風を読みながらハーネスの上で重心を調整してカイトの進路を渦巻く雲の中心へと向け、厚く聳える壁のような渦巻く雲を突き抜けた。
そのまま嵐の如く凶暴に吹き荒れる風に乗って、雲の渦の切れ間に見える浮遊島を目指して渦巻く暴風の中心へと舵を切る。すると、それまでまるで空気の壁のごとく吹き荒れていた風がピタリと止み、抜けるような青空と共に今度は聳え立つ岩肌が現れる。その岩肌に沿って浮遊島を半周もすると、崖に囲まれた入江のような小さな草原が現れた。
その隅の方にカイトを降ろすと、降り注いでいた陽光が遮られると共に、劈くような大音声が僕の背中にぶつけられた。
「
見上げれば、今までどこに居たのかと思う程にどでかい人影が、その巨体に見合った巨大な銃口をこちらに向けていた。
「やぁ、アンジェリカ。お邪魔するよ。しかし、なにやら物騒だね。流石に30ミリ速射砲を向けられると肝が冷えるよ」
威嚇とはいえ、目の前に突き出された冷たい銃口に冷や汗を流すと、巨大な影はあっさりと銃口を降ろした。
「生体認証完了いたしました。いらっしゃいませアリアドネ様。現在少し立て込んでおりまして、警備レベルが若干上がっております。ご容赦を」
そう言って、その巨大な人影から小さな人影が飛び降りてくる。
音もなく降り立ったその人影は、糊の効いた濃紺の使用人服の裾を僅かに持ち上げてカーテシーをとった。
同時に陽光を遮る背後の巨大な影が同じようにカーテシーをしながら、腹を揺さぶるような機械の駆動音と共にゆっくりと草原に沈んでいく。
「ご案内いたします」
巨大な影がすっかり草原へと沈むと、アンジェリカは僕のマフラーと飛行帽とさげて来た鞄を取って、ツナギになっている飛行服を脱ぐのを手伝ってくれる。それらを丁寧に畳むと、小脇に抱えて先に立って歩き出した。
「帝族の誰かが来ているのかい?」
その後をついて行きながら、アンジェリカに尋ねると、肩口で切りそろえられた癖の無い黒髪を揺らしながら、彼女は視線だけをこちらに向けた。
「はい、何方もいらしてはおりません」
「でも、来る途中、ヴァリーが居たよ。彼女、今御召艦だろう?」
そう。ヴァリー、こと
「はい。現在アリアドネ様以外は当屋敷にいらして居るお客様はおりません。正確には玄関先に一個中隊規模の物乞いが陣取っておりますが、主人が面会をお断り致しましたので当家の使用人総出で塩を撒いている所でございます」
「物乞い?」
僕の問いかけに、アンジェリカはまた少し振り返って言った。
「頭に帝冠を載せた物乞いでございます」
辛辣な言葉と共に、つい、と視線を戻したアンジェリカは草原を囲む垂直に切り立った崖に向かって歩いてゆく。
なんとも、今代の皇帝陛下も随分と嫌われているようである。
草原を囲むようにそびえる崖にポツリと開いた、アーチのような小さなトンネルを抜けると、そこには小さなカルデラかクレーターの様に岩盤を繰り抜いた広大な円形の敷地が拡がっていた。その円の中心からかなりコチラ側に寄った位置にこじんまりと佇む平屋の屋敷の裏手が見えた。僕らが通ってきたトンネルは勝手口という訳だ。
見れば、アンジェリカと同じ格好をした使用人達が、屋敷の裏に山と積まれた『塩』と書かれた一抱えもある袋を担いでパタパタと屋敷の表の方に走っていく。本当に塩を撒いているようである。その積み上げられた量たるや、もしかするとトン単位で撒いているのかもしれない。皇帝も気の毒に。
そう思いながらアンジェリカに案内されて屋敷の勝手口を潜り、彼女から蒸されたタオルを貰って雨粒やガスで汚れた顔や髪を整える。
そのままテラスに通されると、そこには見知った顔が優雅に午後のティータイムを嗜んでいた。
「こんにちわ。三河屋です。御用をお伺いに参りました」
そう挨拶して勧められた席に座る。
「毎度思うのですけれども、その三河屋と言うのはどういう意味ですの?」
長い金絹の睫毛を瞬かせて、鈴のような声と共にこの屋敷の主は僕を見た。
「まぁ、僕の屋号みたいなものだよ。変わりはないかい?ヘーリヴィーネ」
「ええ、お陰様で。貴方も変わりないようねアリアドネ」
彼女が微笑んだ瞬間、空気が一気に華やいだようだった。腰ほどまで伸ばしたよく梳かれた金の絹髪を揺らして、優雅にティーカップを傾けるその姿は、ハイネックの純白のブラウスにブラウンの大理石柄のマーブル模様のスカートという落ち着いた普段着にも関わらず、とても絵になる。まるで世界中の巨匠たちが命を削ってキャンバスに表現した美の形が今まさに瀟洒に椅子に座っていた。
その姿を見て、僕はひと安心した。一時はまさに露と消えそうな程憔悴していた彼女だが、そこからなんとか回復して、しかしここの所、三百年余はかなり精神的に参っているようだった。
彼女の愛した『帝国』はその長きに渡る治世に直しようのない歪みを少しずつ溜め込んでいってしまった。
彼女は愛する『帝国』を護ろうと八面六臂で奔走したが、権力という美酒の前では誰も彼もが骨抜きになる。そう珍しい話でもなく、自然な流れではあったが、彼女はその度に憔悴していった。
精霊が受肉を果たした姿である彼女は、その精神性に体調が大きく左右される。元々神霊とほとんど同じ存在である彼女は精神こそが彼女のある姿を決定するのだ。ここ二百年程は時として幽鬼のような姿をしていた事もあるから、今はかなり落ち着いているように見える。まぁ、幽鬼のような彼女もそれはそれで美しくはあったが、百年程前に隠居を表明してからは少しずつ、その健康的な美しさを取り戻していた。古い、古い友人として非常に嬉しく思う。
「今日は随分加減が良さそうに見えるけど、なにか良いことでもあったのかい?」
僕がそう尋ねると、彼女はその綺麗な片眉を釣り上げて心外そうに僕を見た。
「本当にそう見えますか?」
「なにやらスッキリしたような、そんな感じだったからね。表の人達に塩を撒くのが余程痛快だった様に見えるよ。彼らは今日は何を?」
僕の言葉に、彼女はプイと顔を背けて膨れ面を作った。
「いつもの事です。
「君は心配性で世話焼きで、頼まれると断れないからねぇ。もっと早く隠居すべきだったんだよ。そして僕みたいにさっさとお隠れになれば良かったのさ」
「貴方はただ単に全てを放り出して隠遁しただけではありませんか」
口をとがらせる彼女に僕は肩を竦めて苦笑する。
「まぁね。だけど、僕らはもう居ない方がいいのさ。建国の志士なんかが長く居座っても碌なことがないよ」
そう。碌なことがない。しかも、僕ら――ヘーリヴィーネが精霊である様に、僕は元々ファータ、幼精の様な者だから――には寿命らしい寿命がないのだから尚更。死なないのなら、さっさと身を隠してしまうに限る。だから、僕はすぐに表舞台から消えた。
でも彼女は残った。僕が居なくなったから、頼れるのは彼女しか居なくなってしまったから。
そして、今の今まで、彼女は国母として、かなり上手くやっていると思う。だから尚更身を引けなくなっている。頼って来る者が多すぎて。その身に宿す慈愛が深過ぎて。
「でも、そうでもしないと彼等はすぐに瓦解して、血みどろの戦争を始めてしまう」
「それで良いのさ。君は優しすぎるから、人死は嫌だと何かに付けて頑張ってしまう。彼等も半分くらいの犠牲を出せば自然と悟るさ」
彼女は僕の放言にスイと眼を細めて険しい表情になった。
「本気でおっしゃっているの?」
「本気だよ。何物も犠牲無くしては成り立たない。何物もね。人が反省するのも手痛い授業料を払ってこそさ」
「実際に払うのは彼らではなくて民達です。彼等はそれを見て交渉のテーブルにつくだけです。彼等は何も払わない」
彼女はそう言って朱が指す程にその新雪のような両手を握りしめた。
「なら、それこそ
「彼女達にそんなことはさせられません!」
絹を裂く悲鳴の様に吐き出された言葉。ここ二三百年は同じ様な遣り取りをしている様に思う。
「さて、時候の挨拶はこれぐらいにしよう」
あまりこの遣り取りを続け過ぎると、また彼女は幽鬼に戻ってしまう。それは僕としても本意ではないから。まぁ、彼女の美しい相貌が僕を睨むのを見ると、なんだか癖になってしまいそうで怖いというのもあるんだけど。
「今日はちょっと面白いものを手に入れたんだ」
憤懣やら方ない彼女を無視して、僕は控えていたアンジェリカから自分の鞄を受け取り、一冊の本を取り出した。
「何ですか。ヤニ・クルウェス?誰ですこれ?」
「かつて、地上世界でそこそこの知識と、そこそこの頭脳と、類まれな弁舌を持って碩学界を引っ掻き回した人。間違ってないけど、正解でもなく解決でも無い。そんな主張を量産した、そんな人の代表著さ。まぁ、昔から地上世界は天上世界と違って碩術関連の知識に雲泥の差があるから、仕方がないのだけれどね。その本は未だに地上世界ではそれなりの人気がある。まぁ、間違ったことは書いてないからね。正解ではないけど」
彼女はふぅん、と鼻で呟いて、パラリパラリとその頁をめくる。内容を少し読んで、顔を顰めた。
「評価できるのは、字がお上手って事だけかしら」
確かに。この写本を行ったのが誰かはわからないけど、ビックリするくらいに字は綺麗だった。
「それは写本だから、本人の字じゃないよ。その筆跡に見覚えは?」
「ありません」
「じゃあ、この文字には?」
僕はそれなりに金のかかったなめし革張りの装丁にそっと触れる。そして、体内でぐるりとオドを練った。
「こっ……これは!」
途端、まるで天を衝くかの様に彼女は立ち上がった。その視線はたった今、僕がオドを練って触れたヤニ・クルウェスを射抜かんばかりにその紙面に釘付けにされていた。
『この文面が見えているということは、この注釈を理解するための最低限の知識と技術を有しているという事であるから、望むなればさっさとこの本を閉じるべきである。その理由が知りたいというのであれば、其方が奇特だということを断ってから、本文を読み進めると良い。お節介にも各所に注釈を入れておいた。碩術の深淵を覗く助けとなればと思う。 お節介なHSSより』
「これを、どこで、手に、入れたのですか?」
一通り、本の中身を改めてから、彼女はそれこそ今にも射殺さんばかりの視線を僕に向ける。辞めてくれ。癖になりそうだ。
「手に入れたのは地上世界だよ。少し前から付き合いのある知人から」
彼女は一通り最後までその本の中身を流し読みして、また最初のページに戻ってきた。
そこに書かれていたのは、オドを本に通すと浮かび上がるように細工された微に入り細に入るヤニ・クルウェスの理論の誤りの指摘と補足説明と、それの根拠となる理論、参考書籍の紹介だ。
その内容は今現在『帝国』で一般的に支持されている理論に比べるとかなり古い理論を元にしてはいるが、それが導き出している結論は完璧と言ってよかった。むしろ、最近では忘れ去られている知識を補完している箇所すら見える。この写本を手がけた人物の手によるものなのか、それとも、別の人物なのかは判らない。
だが彼女には誰が書いたのかを悟ることができる部分が幾つもあるのを、僕も最初に読んだ時に感じた。
「この癖のある字、懐かしいね」
わざと読みにくいように崩された文字。それは僕にも、彼女にもとても懐かしい字。よくこの文字が踊った『誰でもない誰か』の書いた手紙で叱り飛ばされたものだった。
いつの間にか、それを眺めるヘーリヴィーネの目元には光る物が湛えられていた。
「アンジェリカ、船を用意して貰えますか?この注釈を書いた者を探します」
ヘーリヴィーネはそっと、涙を誤魔化すように天井を見上げると、少し震える声で言った。
「ご用意はできますが、ヴァリアントや玄関の者達は如何が致しましょう」
「
そう言った彼女の声は、少しずつ力強い物になっていた。最後の方は断固とした響きを宿し――
「しかし、玄関以外、船を接舷させる場所がありません。玄関の方々にお引取り頂かないことには――」
天井から視線を戻した彼女は些か、目の焦点が合っていなかった。
「ならば!統帥部に一個艦隊位借りられないかどうか打診しましょう!巡航艦二三隻で良いわ。焼き払ってしまいましょう!」
あれ、ちょっと待ってね。それさっきと言ってることちがくない?
言うが早いか、彼女は虚空を見つめて「もしもし、戦務課のレピュブリクさん?お久し振りっ!実はちょっと折居ってお願いが……」とかチャントを飛ばし始めた。
これアカン奴や。ダメな方にキマっている。僕としては面白いものを見つけたから息抜きがてらちょっと真相を確かめに行かないかい?位な、ピクニック行かない?的なノリで来たのに、このままだと彼女は星征艦隊統帥部に全力動員を掛けかねない勢いだ。
まぁ、彼女にとってこの注釈を書いた人物が僕らの思う通りなら、『帝国』の存在など天秤に掛けるのも痴がましいのかも知れない。
多分、統帥部は断らないだろうなぁ。割と彼女達も最近ストレス溜まってる感じだったから、帝国一つ滅ぼす位なら渋い顔一つ位で頷きそうである。
「待って、待って、ヘーリヴィーネ。僕のカイトがあるよ!レピュブリクも忙しいところ悪かった!彼女最近疲れてるんだ!」
慌てて僕も統帥部のレピュブリクにチャントを飛ばす。丁寧に謝罪してヘーリヴィーネを宥めて――レピュブリクさん、「行動計画は既に作成済みであります」とか怖すぎるんで辞めてくれませんかねぇ。ちょっと残念そうな溜息とかつかなくていいですから。あと、その物騒な行動計画破棄しておいて下さい。お願いですから。
マズイ。想像以上に『帝国』は
アンジェリカに飛行服を用意してもらうようお願いして、使用人さん達にヘーリヴィーネを着替えさせて貰って、その間に一息つく。
僕も自分の飛行服を着るため、アンジェリカに飛行服を返してもらう。アンジェリカは綺麗に畳まれて、この短時間で簡単なクリーニングすら施された飛行服を差し出した。
「アリアドネ様、私はへーリヴィーネ様がこの島に移られてからの事しか知り得ないのですが、その御本に注釈をした方はへーリヴィーネ様達にとって特別な御方なのでしょうか?」
「さあ、どうかな。判らない。でも、この本に入れられた注釈の文字は、僕達が昔仕えた御方の物によく似ている。それに、最後の『お節介なHSS』と言う銘。今では使われなくなって久しいものだ。調べてみる価値はあると思うんだよね」
僕が飛行服を着るのを手伝いながらアンジェリカは続けた。
「その御方は、へーリヴィーネ様の憂いを取り除けるのでしょうか?」
「どうかな。その御方は既に遥か円環への旅路に赴いて久しい。もう千年近くも前の御人だ。流石に僕も彼の御仁が復活したとは思わないが、何某かの関連性はあるかもしれない。それに、へーリヴィーネには全てを忘れて、投げ出して没頭する何かが必要だよ。でないと、誰も彼女を放してくれない。それは彼女にとっても、『帝国』にとっても良くない。この注釈を入れたのが誰なのかは判らないけど、これによってへーリヴィーネが少しでも子離れできるなら、それに越したことはない」
飛行服のジッパーを上げて、アンジェリカが差し出したマフラーを首に巻き、鞄を襷掛けにして背負う。
「私が言うのも烏滸がましい事ですが、へーリヴィーネ様を宜しくお願いいたします」
「勿論、任せてくれ給えよ」
僕は着替え終わった、未だ興奮冷めやらないへーリヴィーネを伴って、アンジェリカ達に見送られて嘗ての主人を探す旅に出た。
願わくば、この旅でへーリヴィーネが子離れと父離れの両方が出来ると良いのだけれど。
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