朕は猫である
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第1話
人生とは終わりが有るからこそ有意義で輝かしい煌きを持つのだ、とは常々自身にも周囲にも言い聞かせてきたことではあったが、実際に終わりを目前にすると、胸の奥底より滲み出た寂寥感を禁じ得なかった。
『
夜、眠りに落ちて意識が途切れ、朝起きても自身が変わらず昨夜との連続性を保ってそこに在り続けていると言う根拠のない自信、それが『生』だ。
例え、大いなる円環の内で、死者は物理的にも心霊的にも世界へと還元され、また再生産されるのだから死とは終わりではないが、人が勝手に確信している連続性の終わりでは有る。それが妙に寂しくあった。
「この際だ、積年の恨み辛みをぶつけても良いのだぞ」
事実、豪奢な天蓋付きの寝台に横たえた朕の体は、骨が浮き筋張った体皮はまるで萎びた乾パンのようだ。洒落の一つも呟けなくなった自身の体にそこはかとない可笑味を感じて、喉の奥でクツクツと声を漏らせば、肺腑から湧いた死臭が酷く鼻についた。
いつからかぼやけてよく見えなかった視界の中では、薄っすらとした輪郭達が朕を覗き込んでいる事しか判らない。
いや、元から朕の視界はこのような物だったのかもしれないし、これは迫りくる
「陛下、お気を確かに」
跪いた輪郭の体温が、寝台に力なく放り投げられた朕の手を優しく包んだ。彼女の鈴の鳴るような美しい声が、今は耳に水が入ったように濁って聞こえない。誠に遺憾である。死というもののもう一つの欠点を今更ながらに朕は実感した。
潮時だな。
若い頃は死すら超越して見せると
朕は改めて、死というものを実感し、受け入れようと決めた。
「皆の者、これまで世話をかけた」
朕の言葉に、朕の手を握った体温が戦慄いたのが判った。
「すまぬが、先に逝く」
寝台を取り巻く輪郭たちが、次々と口を開くが、朕には既にその声が聴こえない。
「これからは何事も皆で良く、諮れ。さらばだ」
朕の意識は連続性の輪から水泡となって霧散した。
◆
「混沌ノ渦二於テ、
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。闇でもなく、光の中でもなく、まるで目覚める直前の微睡みの様に全ての感覚と存在が曖昧で、しかしその言葉は確実に朕の意識を励起した。
「
それは朕の良く知る珠文。術者のオド、また術者の制御しきれない規模の碩術を行使する場合に定型句のように挿入される一種の
「左周乃円環
また聞き覚えのある、力ある言葉が聞こえる。懐かしい。
「左周乃円環乎
朕も遊戯として幾度もその珠文を唱えたことを思い出す。
「我、混沌ノ渦ニ
決闘等と称してそれぞれが召喚術を披露し、召喚した者と力を合わせて術者の技量を競うのだ。強い存在を得ることもできれば、そうでない物を引き当てる時もある。朕はどちらかと言えば強い存在よりも癖のある者を呼び寄せるほうが好きであった。どこぞの魔神なんぞを喚び寄せてもつまらない。盛り上がらないではないか。
「我血、我肉ニ
そうだな。個人的嗜好で言えば、バンシーやゴブリン等は面白い。バンシーは単なる死を告げる死霊だが、飛行能力持ちで相手の頭上にさえ到達できれば一撃必殺が期待できた。ゴブリンは単体では酷く貧弱ではあったが、なにせ数が用意できる。数万も数を揃えれば例え神霊級の上位存在すら、やりようによっては滅ぼすことができる。個人的には相手の場が整う前に、爆発物を持たせて万単位のスーサイドアタックをかけるのがイチオシである。一匹一匹に戦術級の炸裂符を持たせてやるのだ。炸裂符を用意するのが至極面倒であるが。
「我意、我志ニ憑リテ、
珠文が最終盤へと差し掛かる。それにともなって、何かに引き寄せられる様に、朕の意識は収束し始めた。
成る程。朕は死んで、今度は喚ばれる側に回ってしまったか。それも面白い。朕の治世では終ぞ死者の行方は大いなる連環に還るものと思われていたが、この様な事も在るものか。面白い。
が、朕は鼻で笑ってその引力に抵抗する。面白くは在るが、この術者は少々気に食わなかった。何が、と問われればフィーリング、としか言いようがないが、まぁアレだ。伝わってくる波動が心なしか低俗なのだ。些か鼻につく。
すると、彼方から数多の気配が磁石に引き寄せられる砂鉄のごとく、ワラワラとその声の元へと群がっていくのが感じられた。まるで放られた小銭に群がる物乞いのようである。
確かに、伝わってくる波動からして、放られた小銭は金貨のようだが、それこそ、面白みがない。
見れば群がる虚弱な気配を押し退けて、一際大きな気配が声の主の元へと至った様だ。気配の強さからすればソコソコの強者の様では在る。煩わしい波動を振りまいて他を威嚇しているあたり、下位のヘルカイトか何かか。
まぁ、ドラゴンの上位種であるヘルカイトが応じる辺り、それなりに見込みのある術者なのかもしれないが、ヘルカイトの嗜好から察するに、朕の嗜好には到底適いそうにない。奴らには矜持と言うものが感じられぬし、その癖傲慢。そのヘルカイトが尻尾を振って飛びつく辺り、召喚主は朕が力を貸してやるには相応しくないだろう。
それからも、同じ珠文が幾度となく朕の意識に働きかけるが、どれもこれも気に食わぬので応じようとは思わなかった。まぁ、見込みの有りそうな術者は何度か在ったが、アレだ。面白味に欠ける。幾度も同じ珠文が聞こえ、その度に数多の気配が群がっていく。強い気配が応じることもあれば、雑多な低位種しか集まらないこともある。どれもこれも朕が応じるには面白くない波動ばかりだった。
それは何度目の珠文だっただろうか。そのもう聞き飽きた
それは祈りに似た波動だった。清らかでもなければ、厳かでもなかった。むしろ、自己のことのみを願ったある意味、邪な波動。だが、一心に助力を請う、真摯な波動でもあった。
だが未だ数多に存在する気配たちは一向に動こうとしない。いや、それこそ既に自我を亡くした亡者の様な気配は動いているが、彼らには力が無さ過ぎて喚びかけに応じることができない。結果、どの気配もその喚びかけに応えず、このままでは召喚失敗となることが目に見えた。
「おい、貴様、何故応じぬ」
朕は近くに在った気配に問いかけた。それは気配からすれば神霊に類する強い気配。
「黄穹に列する御柱たる我に『貴様』とは、無礼な」
という返答と共に漂ってくる生臭い匂い水気に朕は顔を顰めた。この強い水気はリヴァイアサンか何かの類かの。
「なんだ、足も生えておらぬ
「なんだと。我をなり損ないと罵るか。そこに直れ!」
臭い水気を撒き散らして、大海の主が怒りの波動をぶつけて来る。
「自身を黄穹の御柱と称するなれば、彼の真摯な祈りに応えてみせよ。汎く請われた願いに応えずして、何が神霊か。貴様らの存在意義などその位であろうに」
朕の言葉に鼻白んだ様な気配とともに、リヴァイアサンが吐き捨てた。
「
確かにこの様に何度も召喚の
一理ある。一理あるには有るのだが。
召喚の文珠は終わったが、術者は未だに喚び掛けを辞めない。祈る様な、縋る様なか細い波動が必死に応える者を探していた。朕達のやった遊びとは少々趣が違う気がする。朕達の遊びは戦力の確保であって、何が応えようとも構わなかった。しかし、この術者の波動は必死に、縋る物を探している様に思えた。
だが、その喚び掛けに応える気配は未だ無い。
全く持って神霊格と言うのは強欲な奴らしか居らぬな。
「なにを格好付けおって。貴様、この術者のオドの少なさ故に応じぬのであろう。全く、水気の者は喰らうことと犯すことしか考えておらんからの」
「貴様、言葉を宣えるからと言って延べつ幕無し宣うとは、その代償を支払う覚悟はできておるのであろうな!」
激昂するリヴァイアサンを尻目に、朕は辺りを見回すが、やはり喚び掛けに応じようとする気配は他にもない。
召喚術とは内燃気を持って行うのが常だ。外燃気であるマナを使えば、雑多な意思が混じってしまい、思う様な召喚が望めない。まぁ、頭数を目的として地脈の属性からスケルトンやらグールやら、それこそインスマンスなんかを大量召喚したいなら話は別だが。
確かにこの術者のオドは殊更少ない様に見えた。この腐れ魚類や他の気配達は召喚後の自身の維持に必要なオドが殊更少ないであろう故に、顕現後の見形が殊更劣化する可能性を危惧しておる様だ。全く持って、
「ふん。鰓呼吸が偉そうに。単に地べたで跳ねるのか怖いだけであろうに。これなら足があるインスマンスの方がマシというもの」
「なれば、貴様が答えれば良かろうに。斯様に虚弱なオドしか持たぬ下種如きが我ら黄穹に列す御柱を喚ぼうとは、片腹痛い」
朕達のやり取りを見ていたリヴァイアサンとは違う気配が朕に言った。まるで視界を
「ふん。全く、オドの大小でしか物事を見れぬ阿呆共め。何より
言うなり、朕の意識がそのか弱い術者の波動へと引き寄せられる。
「馬鹿め。精々、
どの気配の言葉か、そんな事はどうでも良かった。
やはり、喚ばれるのならば趣が無くてはならぬ。面白みが無くてはならぬ。凡百が負けると言う勝負をひっくり返すからこそ面白いのだ。
か弱いその気配が朕の意識へと接続したのを感じる。
パスが通る。
ほほう。召喚される側も召喚する側と其れ程変わらぬのだな。などと、生前の記憶を辿りながら感心する。
それは存在を構成する一部がきつく、きつく結び合う感覚。自身であって自身ではない存在が、まるで自身の延長のように強く感じられる。
「多くを望む欲深き者よ。
朕の問いかけに、伸ばしかけた手を引っ込めるが如く、か弱き波動が震えた。普通、召喚術において召喚されし者が術者に物を問うなどという事はそうあるものではないのだから仕方がない。
「なに、罪を問うておるのではない。望む事は善である」
朕の言葉に、一度此方を伺うような気配とともに、か弱き波動は意を決したように力強く応えた。
――全てを。
今は無いであろう口角が釣り上がるのを抑えきれなかった。
良い。「全て」ときたか。実に良い。何より終末が無いのが実に良い。豊かになりたい、でもなく、勝利を、でもなく、全てを欲する。それは何処までも飽く事なく貪欲であり続けると言う気概を感じさせる。立ちはだかる全ての障害を撥ね除ける覚悟が見て取れる。
「何故に全てを欲する?」
――私は……めでたし!と言って死ねる私になりたい!
朕の口角はまるで顔面を引き裂かんばかりにつり上がっていたことであろう。
めでたし、とは。終ぞそのような願望を抱いたことなど、世界のある程度の部分を手に入れたであろう朕にもありはせぬ。
それはなんと魅力的な願望か。
それはなんと心躍る願望か。
朕は「めでたし!」と言って死んだであろうか。
否。断じて否だ。
ある程度は満たされていただろう。それなりに幸運であったとも思う。第三者から見れば他に比べて圧倒的に満たされてはいたであろう。
しかして、「めでたし!」と叫んで倒れたわけではなかった。いや、そのような思考すら持ち合わせていなかった。
面白い。至極、面白い。
やはり朕の目は確かであったということだ。すべてを手に入れ、「めでたし!」と言って死ぬ人生。その
朕のように、老衰で目も耳も駄目になったぼやけた風景では決してあるまい。
朕はその風景が見てみたい。
「めでたし!」と言って死にたいという、
それはどんな終わりであろう。想像するだに心が躍る。
「欲するなれば、先ずは朕を其方の力で引き寄せて見せよ。朕からは、行かぬぞ」
良い。助けてやろう。其方が「めでたし!」と叫び
朕の存在へと伸ばされたパスを、力いっぱい握りしめた。
途端、一部であったか細い繋がりが、其々を構成する要素という数多の糸が寄り合い、太い、太い大綱へと紡がれるのを感じた。
強い引力を感じる。濁流の中で掴んだ金杯を必死で掴み上げるような、荒い息遣いを感じた気がした。
もし顔があれば朕は破顔していたであろう。
ぐふふ。朕の有する全ての叡智でもって、可弱き其方をパーフェクトな存在に育ててやろう。実に良い。実に面白そうだ。
あの魚類や爬虫類には理解できない高尚な玩……目的を見つけてしまったな。
ほくそ笑みつつもそのか弱くも強い意志の力に、朕はゆっくりと引かれていった。
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